冷静な人々 その1――夫

 さて、帰宅してからさっそく検査薬を使おうと思ったわけですが……。そのときの気持ちは、今思い返してもどう表現したらいいかわからないです。難しい。


 当時、夫と私は結婚3年目の夫婦で、大人ふたりと猫一匹でのほほんと暮らしておりました。子どもについては、まだ彼氏彼女の頃に「一人は欲しいかな」と夫の口から聞いたことがあったような……。ところが、結婚当初は私が通院しながら療養をして服薬していたこともあり、自動的に先送りになっていたのです。


 ただ、彼はずっと欲しかったんでしょうね。それを黙っていてくれたのは、彼の分別ある優しさだったのだと思います。


 結婚もしているし、夫も子どもを望んでくれているらしい。妊娠することに何ら問題はありません。そのときにはもう通院も服薬もしていませんでしたし。ただ、足りないものがあるすれば、それは――「覚悟」あるいは「心づもり」だったのでしょう。

   

 お恥ずかしい話ですが、きちんとした考えがまるでなかったと思うのです。子どもを産む覚悟もないけれど、「子どもは絶対に作らない」と決意していたわけでもない。


 どこか成り行き任せの中途半端な状態というか。いやいや、成り行きにまかせよう!と決めていたわけでもないし……。要は問題を先送りにして逃げていたのでしょう。


 そういうヘタレな自分なもんで、いざ検査をするときは、それなりに緊張しました。でも、妊娠検査薬って本当にあっさり結果が出るもんなんですねぇ。私が買ったやつは丸窓ではなく四角い窓でしたが(どうでもいい情報?)、窓の真ん中に薄水色の縦線がはっきりと出ていました。陽性です。あ、妖精じゃないですよ?(すみません、こういうの要らないですね……)。


 夫にはメールで「帰ったら話がある」とだけ連絡しておきました。思わせぶりですねぇ、いやらしいですねぇ(苦笑) ただまあ、いきなりメールで「妊娠検査薬の判定が陽性の件(本文なし)」というのもどうかと思いまして。


 正直、気が動転すると言ったら大げさですが、かなり戸惑っていたんでしょうね。ちょっと具合も悪かったですし。だから、気の利いた演出など考える余裕はなかったのです。


 夫が帰宅するとすぐ「子どもができたかもしれない」と報告しました。この台詞、このまんまです(苦笑)。そして「これが動かぬ証拠じゃわい」とばかりに、四角い窓に陽性のラインが入った検査薬を見せました。これねぇ、見せるべきか迷ったんですよ。だって、検査の都合上やむを得ないとはいえ、“尿かけちゃってますから”。


 けど、夫の性格からして見られるもんなら客観的な根拠を見たいだろうなと。妻はそう判断して、捨てる手前で思いとどまったわけです。あ、判断基準は夫の「性癖」ではなく「性格」ですからね(ここ重要!)。くれぐれもお間違いなく……。


 夫について補足しますと、彼はいわゆる理系男子でして。しかも、物理学系などではなく生物学系の。加えて、医療の知識も少々ありまして。血液とか? 尿とか? 羊水とか? 


 そういうのって、彼にとってはさほど珍しくもない検体(分析対象のサンプル)なんだろうなぁと。そして、客観的な証拠を欲しがるタイプというわけです。もちろん、証拠の品がないからといって私の言葉を疑ったりはしなかったでしょうけれど。


 彼の反応はというと、わずかに驚いた表情を見せたものの、いたって冷静でした。「とりあえず、明日は午前休を取るので一緒に病院に行こう」と。踊りだすわけでもなく、歌いだすわけでもなく、妻を抱きしめるわけでもなく(苦笑)


 こういう反応って、人によっては「反応薄っ!」と怒りを感じたり、或いは残念に思ったり、ひょっとしたら悲しくなったりするのかも……。でも、私としてはとてもありがたかったんです。夫が冷静でいてくれたことが、とても。


 正直、私自身の中では戸惑いとか漠然とした不安のほうが大きくて「いやっほーい!」と手放しで浮かれることができなくて。だからもし、夫が歓喜に沸いたりしていたら、ちょっと辛かったと思うのです。申し訳ない気持ちになったでしょうし、どうしていいかわからなかったと思います。


 夫は私の気持ちを察してくれていたのか、或いは、彼自身も落ち着いているように見えて実は「冷静に、冷静に」と自分に言い聞かせていたのか。そのへんの真相はわかりません(笑) 


 ただ、市販の検査薬だと誤った判定が出る場合があると聞いたこともありましたし。今思えば、そういったところも考慮した彼なりの賢明な対応(?)だったのかもしれません。


 悩み癖のあるメンタルこじらせ系妊婦は、夫をはじめとする“冷静な人々”に支えられながら妊娠期間を乗り切っていくことになります。クールでフラットというのかな? 冷静な人々には「頑張れ、頑張れ、母は強し!」などと言って豪快に笑いとばす人はひとりもいません。


 相手のあるがままを受け止める知性と寛容さ……その繊細さにどれほど救われたことでしょう。妊娠を機に、私はあらためて彼らの存在に感謝することになるのですが、その話はまたおいおいに――。

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