第一章 茶会

 目蓋の外に光を感じる。夜が開けたようだ。瞬きをし、寝返りを打った時に顔にかかった長い髪を払いながら身を起こす。

 ここは、何処か。

 昨日、長い眠りから覚醒した時と同じ疑問が一瞬頭をよぎり、不安になって見上げた天井が、眠りについた時と同じものであることを確認して、ホタルは少しほっとした。

 ここは昨夜、レンゲというあの親切な人形が案内してくれた、半壊した高層集合住宅の遺構、そのかなり上の方の階の一室だ。レンゲはだいぶ前からここをねぐらにしているらしい。登り下りが大変だが、高いところならモンスターに襲われる心配が少ないからと、レンゲが説明してくれた。まだ覚醒したばかりで身体を動かせなかった自分をおぶって、あちこちが崩れた階段を登りながら。


「ふんふふふ~ん♪ ふんわり黄色い卵焼き~♪ お砂糖いっぱい入れたいけれど~お砂糖無いから蜂蜜どばどば~♪」


 隣の部屋から、レンゲの声が聞こえてくる。テンポのおかしい、奇妙な歌だ。あの楽器で美しい旋律を奏でる才はあっても、声に出して歌う方は同じようにはいかないらしい。一緒に甘い匂いが漂ってくる。火をおこして、何かを焼いているようだ。

 朝の挨拶と、何か手伝えることはないか見に行こうと思ったら、自然に立ち上がることができた。歩くとまだ少しふらつくが、幸いなことにどうやら身体が上手く動かせなかったのは一時的なものだったようだ。

 だが、喜んだのは窓の外の景色が目に入るまでだった。


「……何なの、これは」


 そこから見えたのは、廃墟がどこまでも続く広漠とした世界だった。

 見渡す限り緑はなく、動くものは何もない、あまりに寂しい世界。

 赤茶けた大地は断崖のように隆起陥没し、砂塵の中で錆びた鉄と風化してぼろぼろになったコンクリートの瓦礫が散乱している。

 そして空を覆うのは、黒ずんだ不気味な色をした雲。

 ホタルが窓枠にかけた手に、ポツポツと何かがあたった。

 雨? 手の甲を見て、再び愕然とする。そこについた水滴は、雲の色と同じ、気味の悪い黒色だった。反射的に窓から遠ざかる。


「あ、おはようですのホタル、朝ごはんの用意ができたんですの……って、いけない、雨が降ってきたんですの!」


 部屋に入ってきたレンゲが、慌てて廊下に戻ると、大きな板を何枚か持ってきて窓にたてかける。ホタルも手伝って窓が塞がったところで、レンゲに案内されて隣室に向かうと既に朝食の用意が整えられていた。

 年月を経てひびや欠けた部分はあるが大事に使われていることがわかる清潔な大皿の上に、直方体をした黄色い物体がでーんと鎮座している。これを二人で取り分けて食べるらしい。


「初めてお客さんをお迎えしたから、今朝は材料を奮発してレンゲの一番の得意料理、イソコ風卵焼きを作ってみたんですのっ! さあっ、冷めないうちに召し上がれ」


 半分に切った切り口から、ほかほかと湯気が立ち昇る。

 窓を塞いだ隙間から光が微かに漏れる中、二人は頂きますと手を合わせて、自分の小皿に取り分けたそれを口に運ぶ。


「どうどう? ふんわりしていて、とろっとしていて、しっとりしていて、それにとても甘いですの?」


「あ、甘い……」


 確かに、レンゲの表現はパーフェクトに正しい。食感は悪くない、いや、素晴らしいのに、最後の甘さが全てをぶち壊しにしている。

一体どんな材料をぶち込んだらここまで甘くできるのか、小一時間問い詰めたかった。


「美味しいですの? 美味しいですの?」


 彼女は質問であろうとなかろうと語尾が常に「ですの」のようだが、これはホタルに質問しているというより、明らかに自分で美味しいと確信した上で同意を求めている「ですの?」だ。満面の笑みを浮かべて得意顔をしている彼女を見るまでもない。

訊かれた以上、正直な感想を述べるのが誠意ではないかとも思う。しかし、昨日あの場所で、昆虫の化物の群れから助け出してくれて、さらに安全な場所に泊めてくれた恩人に対し恥をかかせていいのかという思いもあり、両者が天秤にかけられた末、ホタルは折衷案でいくことにした。


「ええ、その、すごく……甘いわね」


 この微妙な返事、嘘はついていない。そして、ホタルの予想通りレンゲは、甘いイコール美味しいという価値観の持ち主らしかった。


「でしょう! ホタルの口に合って良かったですの! そのっ、レンゲは」


 レンゲの高いテンションが、そこでいったん途切れた。

 少し恥ずかしそうに目を伏せた。ホタルが小首を傾げると、もごもごと、


「その……レンゲはずっとソロプレイヤーだったからパーティーを組んだこともないし、というか自分以外の誰かと話をするのも、こうして誰かとご飯食べるのも初めてで、何がホタルの口に合うとかわからなくて、結局自分の好物を作っちゃったから……」


 ホタルは思うところがあって、途中でレンゲの弁解を遮った。


「ごめんなさい。卵焼きって、材料の卵はどうしてるの?」


 さっき窓の外を見た限り、この世界におよそまっとうな生命の気配は感じられない。


「え? 卵ですの? ええと、ここからはちょっと歩くんですけど、北の丘陵地帯にヨウケイジョウって廃墟があって、そこにたまに湧く小さい鳥型モンスターが、何故か飛べなくて弱いんですの。発生確率は低いから他のモンスターを沢山倒さないと出ないんですけど。で、そのモンスターからドロップする卵だけは食べられるんですの。まあ狩りそのものよりも、割れずに卵を持ち帰る方が大変ですの、ってごめんなさい、つまらない話を……」


 それだけ聞ければ十分だった。

 甘ったるい卵焼きを、もう一口食べて、よく味わう。


「そんなご馳走を、わざわざ作ってくれたのね。ありがとう」


 昨夜は頭がぼやけていて、ただされるままだったけど。

 彼女は、苦労して手に入れて持ち帰れるはずだった物が他にあったのに、それをなげうってまで恐ろしい怪物から助けてくれた。見ず知らずの私を。その後もこうして部屋まで運んでくれて、そして今朝は、貴重な材料を使って、味付けはともかくとして自分の中で一番のご馳走をふるまってくれた。

 戦っている時は、あんなに顔が険しくて声も鋭くて動きも颯爽としてたけど。

 優しいんだ、レンゲは。

 そう思うと、この卵焼きもまるでレンゲの性格が形になったような味と食感で、可愛くなってくる。


「か、かっ、勘違いしないで欲しいんですの! これはただの先行投資ですの。レンゲは効率厨の策士、成り行きとはいえこうして連れてきたホタルに恩を売って、後々レンゲの利益になればいいな~なんて思っているだけですの! そ、それより、薬草のお茶もいかがですの?」

「あはは……頂くわ」


 レンゲが明らかに照れ隠しをして勧めてきた飲み物は、青い色をしていて到底お茶には見えなかったが、騙されたつもりで飲むとこちらは意外と普通だった。ただやはり味が甘いのは、お茶本来の味ではなくレンゲが別の何かを大量に入れたせいだろう。


「これは地下の湧き水で生える薬草で、毒系の攻撃への耐性を高める効果があるんですの。モンスターだけじゃなく空から降る雨にも毒があるから、必需品ですの」


 さっきの黒い雨は有毒だったのか。この荒れ果てた大地と、何か関係があるのだろうか。


「ところでホタル……名前以外に、自分のことは何か思い出せたんですの?」


 レンゲがおもむろに訊ねてきて、ホタルはカップの中のお茶に映った自分の顔を見下ろした。自分の過去。私は、ホタルとは何者だったんだろう。


「ごめん……何もかもあやふやで、はっきりしたことは何も思い出せない」


 レンゲが、悪いことを訊いてしまったというような顔になる。ホタルは微笑んで首を振り、逆に気になっていたことの一つを質問した。


「私の眠っていた鞄は、どこにあったんだっけ?」

「病院跡。確か、ヤクシマって書いてあったんですの」

「ヤクシマ……」


 ヤクシマ。屋久島?

 不意に、ホタルは自分の頭に手を当てた。脳裏に、数珠繋ぎの断片が激しくフラッシュバックした。


「ど、どうしたんですの、ホタル?」


 身を乗り出すレンゲを片手で制し、目を閉じて、掴んだ断片を必死に引き寄せようとする。


 病院……窓……白いシーツ……細い肩……点滴の匂い……それと、美しい歌声。


 駄目だ、これ以上は思い出せない。

 それだけが、ホタルが過去の記憶を懸命に探って浮かんできたイメージだった。


「どうして……どうして思い出せないの」


 何か、とても大切なことだったはずなのに。どうして。


「大丈夫ですの、ホタル。その、今はまだ混乱してるだけで、そのうち自然に……」


 レンゲが安心させようと微笑んで、ホタルの震える肩に手を差し伸べる。ホタルは、その手を無意識にはらった。レンゲが、うっかり熱いものに触れてしまったようにびくっとする。

 こみ上げる感情を抑えることができなかった。怒り、いや、恐怖を。


「自然に?」


 そんなのは気休めだ。そもそもこの廃墟だけが広がり怪物しかいない狂った世界のどこに、自然の理などあるのか。……いや。おかしいのは、世界だけじゃない。


「ならレンゲ……貴女は覚えているの? 自分の記憶を」

「え?」


 レンゲは首を傾げた。ホタルは、自分自身の想像に背筋が寒くなるのを感じた。


「ずっとソロだった、話をするのは私が初めてと言ったわね。じゃあ、こうして私と話してる言葉はどうやって覚えたの。文字とは違って声に出す言葉は、誰とも会話したことがなければ身につくはずがない。それに、この甘い卵焼きの作り方は、誰から教わったの。……『イソコ風』って、何のことか知っているの」


 ホタルの早口の問いかけに、レンゲはしばらく沈黙し、やがて見せたのは穏やかな微笑だった。


「……ホタル。もう何百年も前に、人間は……この街やレンゲ達人形をつくった存在は滅びたんですの」

「……!」


 それは、質問の答えにはなっていなかった。しかし。


「汚染された大地と、文明の残滓だけが残された。レンゲが知っているのはそれだけですの」


 ホタルは、よろめいて床に手をついた。透明な滴が、目からこぼれる。

 涙。どうして涙が出ているのか、それさえも思い出せないのが悲しかった。

 さっきはらったレンゲの手が、もう一度差し伸べられる。

 そのまま、ホタルの背中をさする。何度も、何度も。


「……ごめんなさい、レンゲ」

「ホタルは何も悪くないんですの。あ、そうだ」


 立ち上がる衣擦れの音。レンゲの手が背中から離れる。

 レンゲの手の感触が消えかけ、そのことを寂しいと思っている自分に気付いた時、ホタルの耳に、音が聴こえてきた。

 穏やかで、柔らかい音。

 振り返るとレンゲが、あの楽器を奏でていた。

 左の肩から胸、それに左手で楽器の弦が床と平行になるように支え、顎は軽く乗せている。右手で動かす弓の強弱が、心地よい音色を紡いでいた。

 昨夜、昆虫の化物達を切り刻んだ張り詰めた音と同じ楽器から出ているとは思えない。今はただ聴く者の心を癒してくれる、優しい音だ。

 いつしかホタルは目を閉じて、聴き入っていた。

 余韻を残して、演奏が終わる。


「ヴァイオリンっていうんですの」


 レンゲがそう言って、楽器をホタルに差し出した。

 優美な曲線を描く弦楽器は、年月を物語る無数の傷と持ち主が丁寧に手入れしてきたことをあらわす光沢とが合わさって、言い知れぬ魅力を感じさせる。

 レンゲの意図をはかりかねていると、受け取るよう笑顔で促された。


「……いいの?」


 レンゲにとって、大切なもののはずだ。


「ええ、ホタルにも弾いてみて欲しいんですの」

「そんな、私には無理よ」


 レンゲの、洗練された演奏。美しい音色。自分にはできっこない。


「レンゲが教えてあげますの」


 レンゲの手が、ホタルの手に重なる。


「まず始めに右手でヴァイオリンを持って」


 気付いたら腕の中にヴァイオリンがあった。触れる木の表面は、不思議と温かかった。


「自分から見て首の中心軸よりやや左側にヴァイオリンを持ってくるんですの。そしたらこうやって、顎を当てて、顎の先がヴァイオリンのほぼ中央に来るように。最後に左手でネック、ここを支えたら右手を離す」

「え、えーと……こう?」


 どうにかレンゲのレクチャーに身を委ねる。


「そう! 右手はこの弓を持つんですの。左ひじから手の甲まで真っ直ぐにして、あっ、ひじの角度はもう少し小さく。弦を押さえる指の根元をもっと前へ。そう、よくできましたの。じゃあ、音階の練習をするんですの」

「お、おんかい?」


 戸惑っていると、レンゲはホタルの左手の人差し指をそっと持ち上げ、弦に触れさせた。


「指のお腹で弦をしっかり押さえるんですの。震えないように、同じ強さで……さあ、弓を走らせてみて。上下に引っ張るイメージで」


 言われるままに、手を動かす。

 鳴った。澄んだ音がホタルの耳から入って、すうっと心に染み込んでいく。


「今の……ひいたの? 私が?」


 思わず声が上擦る。いつしか、ホタルの涙は止まっていた。


「ラ、の音ですの」


 レンゲが嬉しそうに目を細めた。


「次に人差し指はそのままで、中指を当てて」

「……レンゲ、今のは何?」

「ドのシャープですの。上手ですのよホタル、今度は薬指も使って、レの音を」


 レンゲが教えて、ホタルがひいて。そのたびに驚いて、レンゲが微笑んで。

 腕の中のヴァイオリンが、色々な音を奏でていく。優しい音、寂しい音、それぞれ違っていて、どれも美しい。


「レの音は、少し悲しいわね」

「そうですの? じゃあ次は――」







「第二近衛大隊壊滅、左大臣は戦死! 以後の指揮は右大臣が……」

「痛い、助け……」

「内裏への侵入を許すな! 後詰の五人囃子を投入しろ!」

「腕が、腕がああああ!」


 怒号と絶叫が、大気を震わせていた。

 炎と真っ黒な煤煙を裂いた無数の火矢が、光の尾を曳いて飛んでいく。

 各所で噴き上がる火焔は、曇天まで届かんばかりだった。


「第二射、放てーっ!」


 半壊した漆喰塀を盾に横隊を組んだ衛士達が、指揮官の号令で弓につがえた矢を一斉に放つ。衛士達の矢は、称賛すべき精度で一点の目標に集束し……

 一閃。

 全ての矢が、命中の寸前で弾かれた。あまりにもあっけなく。

 『敵』の気配は、一切立ち止まらずに迫ってくる。


「敵DOLL、なおも健在!」

「ばっ、化け物め……来るぞ、構えろおっ!」


 敵は一直線で、気配はあまりに強く感じられた。まるで気配を隠すことなど必要ないとでもいうかのように。

 たじろぎながらも、衛士達が訓練された身のこなしで、弓を槍に持ち替え槍衾を完成させる。跳躍してくる敵を、ここで。


「……弱いな」


 巨大な質量が、ごうっと風を切った。


「弱過ぎる」


 敵を貫こうと突き出された衛士達の槍を腕ごと、上半身ごと砕き尽くすもの。

 大剣、いや、鋏だ。


「あがあああっ!」


 致命的な損傷を負い苦悶の叫びを上げる衛士の一人を、冷厳な眼差しが見下ろす。


「そんな弱々しい槍で、弓で、この僕に届くとでも思っているのか?」


 その声は少年のようでいて、低くそして重みがあった。


「何をしている、敵の動きが止まったぞ! 味方の犠牲を無駄にするなあ!」


 離れた衛士の部隊が、侵入者に射かけようと弓を引き絞る。

 巨大な鋏を携えたDOLLはいささかも慌てる様子も無く、奇妙な動きをした。濃紺のケープを翻し、頭に被った帽子に手をかけたのだ。

 DOLLが帽子を脱ぎ、帽子が掻き消える。

 次の瞬間、何が起こったのか理解できたものはいなかった。悲鳴すらなかった。

 ごとっ。

 何か重いものが地面に落ちる音が、立て続けに響く。

 生き残った衛士達が目にしたのは、空中を高速で回転しながらブーメランのようにDOLLの手に戻っていく帽子。

 そして、地面に転がった仲間の首。

 遅れて、頭部を失った衛士達の手から弓が落ちた。飛翔した帽子の鍔が、凶悪な手裏剣と化して弓隊の首を薙ぎ払ったのだ。


「ひっ、ひいいい!」


 衛士達は戦慄し、ある者は膝をつく。


「ここは放棄する、助からない者も捨てろ! 最終防衛線まで後退するぞ!」

「このまま籠城して、勝ち目なんてあるんですか……?」


 絶望を色濃くにじませた部下を、上官は自らも声を上擦らせながら叱咤する。


「勝ち目がなくても逃げられるか。ここは、俺達の国だ。遠い昔、俺達を作ってくれた人間が愛し守った土地だ!」




 雛壇になった発令所。伝令がせわしなく行き交い、十二単の日本人形が前線の状況を報告する。上段では三人官女が、図上の兵棋を見下ろし作戦を指導していた。


「第一近衛大隊、右翼に展開。左翼の第二近衛大隊と連携し鶴翼の陣を敷け」

「DOLLが飛び道具を持っているという情報は無い。近接戦に持ち込まれないよう十分に距離をとり、火矢による攻撃を続けるのじゃ」

「ドルフィー・フィギュア連合からの援軍が到着するまで、何としても持ち堪えるのです」


 最後に女官長がそう檄を飛ばした直後、駆け込んできた伝令の耳打ちを受けた十二単が切迫した声を上げた。


「第一・第二近衛大隊、同時に壊滅! 右大臣が戦死されました!」


 発令所にどよめきが広がる。


「左大臣に続き、右大臣もとな」

「どういうことじゃ……連合からの援軍はまだなのか。ハルシュタイン閣下は、我等を見捨てぬと約束されたではないか」


 近くで鈍い衝撃音。発令所が大きく揺れた。


「内裏に敵が侵入! 最終防衛線、突破された模様!」

「侵入した敵の数は?」


 女官長が問い質す。十二単は答えに窮していた。


「それが……一体だと」

「馬鹿な!」

「……いや、聞いたことがある。鋏一つで国を滅ぼすという、あれは確か……」


 三人官女のもう一人が、何かを思い出して表情を強張らせた時だった。

 発令所の壁がめりめりと破れ、図上の兵棋が散らばる。壁の裂け目から、巨大な鋏が、続いて鋏の使い手が全身を現した。


「おのれ、シザーマン! 忌わしい呪い人形が!」


 鋏の先端を突き付けられ、女官長が身を震わせながら呪詛の言葉を放つ。DOLLの表情が、初めて動いた。左右非対称、右が紫、左が青色をした目を細め、口が弧を描く。笑ったのだ。

「その呼ばれ方は、好きじゃない」

 呟きながら、鋏の閉じた刃をじゃきん、と開く。

「僕の名前は、ユウナだ」

 



 戦いを終え、戦利品を詰め込んだ袋を担いで、荒廃した住宅街を歩く。


「その恰好まるでサンタさんみたいなの、ユウナ」


 不意に真後ろから声をかけられ、ユウナは振り返る。直前まで気配は無かった。だがユウナはそのことに驚きもせず、かけられた言葉に対し微かに苦笑してみせた。


「違うよ、コハク。サンタクロースは与えるが、僕は収奪するだけだ」

「うにゅ……しゅうだつ?」


 ユウナがコハクと呼んだ小柄なDOLLは、きょとんと首を傾げてみせるとユウナの横に並んで歩き出した。ワンサイドアップの髪に、ビー玉の髪飾り。コハクの口調は舌足らずで、外見は幼い。少なくとも、上辺だけは。


「それで、戦果は?」


 コハクは当然のようにそう訊ねてきた。

 鋏の戦士は自分が歩いてきた方、遠くに上がる黒煙に顎をしゃくってみせる。

 あの場所で動くものは、もう何もない。


「ユウナ、貴女の働きにサクラも大満足なの」

「ふん」


 ユウナは鼻を鳴らす。


「君の口からもサクラに言ってやってくれ、たまには自分で戦場に出てくるようにと。DOLLの身体でも、魂には贅肉がつくぞ」

「うゆ~、サクラがコハクの言うことを素直に聞くとは思えないけど……あ、部室に着いたの」


 コハクがそう言って足を止めた場所。周囲の建物が残らず朽ち果てあるいは破壊された中で、一棟の中層建築だけが崩れも焼けもせず、奇跡に等しい例外として原形を保っている。扉にはこの地域の文字で、『園芸部』という表札が掲げられていた。


「ただいまなの~」

「……」


 爪先立ちでドアノブに手をかけ、誰もいない玄関に挨拶をして入っていくコハクの後を無言で続こうとしたユウナは、しかし足を止めた。

 ブロック塀で囲まれた敷地内を建物の側面に回ると、歌だか掛け声だかよくわからない声が聞こえてきた。聞き慣れた声だった。


「にょきにょきと~♪ ふわふわと~♪」


 そこは、この建物の庭だった。今、ユウナの目の前には清潔なガラス張りの温室が建てられ、色とりどりの花が咲き乱れている。有毒な雨が降り汚染された大地において、これもまた奇跡のような例外だった。

 ユウナには花を愛でる趣味などない。戦士の魂を鍛えるには不要なはずなのに、ユウナはここに来ると、ついその光景に見入ってしまう。

 そうやってしばらくユウナが眺めていると、温室内の植物に如雨露で水をやっていた先ほどの声の主が、ユウナに気付いたようだった。


「ただいま、アサナ」

「ユウナ? おかえりなさい!」


 如雨露を持ってそこにいたのは、アサナ。瞳の色が左右逆であることを除いては、顔の造形がユウナと瓜二つのDOLLだった。

 だが、似ているのは造形だけだ。お菓子を作ったのだろう微かに漂う小麦粉の匂いも、エプロンドレスに三角巾と家庭的な出で立ちも、ユウナに向けられたはじけるような眩しい笑顔も、ユウナとはあまりに違い過ぎた。ユウナにまとわりついているものといえば、暗い闘争と死の臭いだけだ。

 そして、アサナのその笑顔も、ユウナが肩に担いでいる大きな袋に気付くまでだった。

 アサナの手から如雨露が落ち、貴重な浄水がこぼれる。


「ユウナ……! まさか、また他の人形達を……」

「ああ、雛人形とかいう日本人形達の国を滅ぼした」


 平然と告げたユウナの頬で、ぱちんと小さな音がした。アサナの手が叩いたのだ。

アサナの手の動きは事前に捕捉していたが、ユウナは避けることも防ぐこともしなかった。少しも痛みを感じない、弱い一撃だった。


「何故ですか。いつからユウナは、そんなむごいことを平気でするようになったんですか……!」

「妹が武功をあげて凱旋したんだ。褒めてくれないのか、アサナ」


 叩いた後もユウナの頬に添え、震えるアサナのか細い手を、ユウナは掴んで無理矢理引き寄せる。アサナの端整な顔が、くしゃくしゃに歪んだ。


「やめて……ユウナ、もうやめて下さい」

「どうした。僕が怖いのか」


 ――おのれ、シザーマン! 忌わしい呪い人形が!


 先ほど屠った敵が死に際に放った言葉が、脳裏に木霊する。

 ユウナは冷笑を浮かべかけて、気付いた。アサナが、首を横に振っていた。


「ユウナは……口下手で、不器用で、でも笑顔が素敵で心の綺麗な、優しい女の子です。だからそんな悲しいこと、言わないで」


「……。馬鹿馬鹿しい」


 ユウナは呆れたように溜息をつき、アサナの手を放すと、担いでいた戦利品の袋を地面に下した。袋の口を縛っていた紐を解き、雛人形の国から奪ってきたアイテムを無造作にすくい上げてみせる。


「使えそうなアイテムを選り分けておいてくれ」


 そのまま家に向けてきびすを返そうとしたユウナを、アサナが小声でとめた。


「あの……ユウナ、これは?」


 意外に思い、振り返る。アサナが手にとって見つめていたのは、小さな横笛や太鼓、それに琴だった。


「? ……確か、女官や五人囃子とやらが持っていた武器だ。武器というより楽器だな。こんな物にうつつを抜かしているから、容易く攻め入られるんだ。捨てておいてくれ」


 太鼓は破れ、笛は割れ、琴は弦が切れている。そもそも、戦闘にも回復にも使えないアイテムになど用は無い。間違って一緒に袋に入れてしまったようだ。


「ユウナ、二階で作戦会議を始めるの。サクラが呼んでるのよ~」


 コハクがやってくる。ユウナは今行くと片手をあげてみせて、壊れた楽器を握り締めるアサナに、冷ややかな目を向けた。


「そんなガラクタにどうして構う、滅びた世界の残滓だ。サクラが言っていただろう。この世界からログアウトするためには、完全に滅ぼさなければならないんだ。跡形もなく」


「ユウナぁ、早く行かないとサクラが怖いの~」


 コハクが急かして足をばたばたさせる。

 アサナはしばらく悲しげに俯き、もう何も言おうとしなかった。




 この建物の主、サクラは、薄暗い二階の小部屋に座していた。


「雛人形の殲滅ご苦労だったわ、ユウナ」


 燃える焔のように赤いドレス、輝く同色の長髪が、カーテンの切れ目から差し込む光を浴びて強烈に自己主張している。


「これで私達は、ログアウトにまた一歩近付いたのだわ。扉は私達を待っている。全ては……」


 鈴を鳴らすように高いサクラの声。ユウナは頭を垂れ、唱和した。


「全ては、グランドクエストを終わらせるために」


 コハクが紅茶を運んでくる。サクラは受け取って一口啜ると、唐突にティーカップの中身をコハクに浴びせかけた。


「きゃあっ、熱いの!」


 コハクが悲鳴を上げる。顔を押さえうずくまるコハクを、ドレスの色とは対照的に凍てついた碧氷色の瞳が見下ろした。


「いいえ、ぬるいわ。茶葉が開ききっていない、せっかくの紅茶の香りが台無しよ。お湯の温度は95度でと、あれほど言っておいたでしょう。それにミルクも付いていないわ」

「ごめんなさいなのサクラ、あのね、ミルクは切らしてるの。最近この辺りのモンスターからドロップしなくなって……」


 詫びるコハクに、サクラは今度はティーカップそのものを投げつけた。


「誰が口答えをしろと言ったの。今すぐに淹れ直してきなさい」


 コハクが、ユウナの方を恨めしそうに見ながら部屋を出て行く。ユウナは眉ひとつ動かさずに傍観していた。


「やれやれ……全く、いつまで経っても物覚えの悪いしもべだわ。それはそうとユウナ、上がってくるのが遅かったじゃないの? 帰ったらまず私のところに来て欲しいものね。下で何をしていたの?」


 ……気に入らないことがあるのなら、コハクにあたらずに最初から僕を責めたらどうだ。

 ユウナは、心の中で呟いた。声に出すことはできなかった。代わりに口にしたのは、謝罪だった。


「ごめん、サクラ」

「あら、私はユウナが心配だっただけよ? 別に謝って欲しかったわけじゃないけれど、ユウナが私に謝りたいというその気持ちはありがたく受け取っておくわ」


 サクラはつい先ほどのコハクへの折檻など無かったかのような鷹揚な笑みを浮かべてみせると、ユウナに初めて着席を促し、巻物を取り出してテーブルに広げた。


「コハクの偵察では、ドルフィー・フィギュア連合からはハルシュタイン元帥が指揮する第765軍が派遣されてきたわ。連合が、貴女を脅威だと認識した証拠ね」


 都市廃墟が広がる、この地域一帯の地図だ。


「この第765軍は精鋭よ。ユウナの武勇をもってしても、倒しきれるかどうか」


 ユウナは努めて余裕をみせ、肩をすくめてみせた。


「今日の雛人形との戦いで、連合は援軍を一兵たりともよこさなかった。怖気づいたのさ。ハルシュタイン恐るに足らずだ。このまま僕にやらせて欲しい」


 サクラが出てくるというなら別だが、多分それは望めないのだろう。


「敵を侮るものではないわ、ユウナ。彼女達は賢くそして臆病よ、褒め言葉としてね。安易な決戦を避け兵力を温存している。そう簡単には挑発に乗ってこないでしょう。同盟国を叩けば、何かしらのリアクションがあるかもしれないと少し期待したのだけど……」


 コハクが淹れ直した紅茶をトレーにのせて戻ってくる。ユウナの目には紅茶の見た目、立ち上る湯気から推定される熱量は前とさして変わっているようには見えなかったし、ミルクも相変わらず無かったが、サクラは今度は口をつけても文句を言わず、中身をコハクの顔にぶちまけることもなかった。


「コハク、貴女の考えた作戦を説明して頂戴」


 自身はティーカップを傾けながら、サクラがコハクに促す。ユウナは怪訝な眼差しをコハクに向けた。


「コハク……?」

「うい~。あのねあのね、第765軍は廃ビルを要塞化して立て篭っているの。無理に突入すれば敵の思う壷だから、視界の開けた場所に誘い出さなきゃいけないの。そのために、アイテム系モンスターがポップする狩場から拠点まで戦略アイテムを運ぶ敵の兵站線に、断続的な襲撃を繰り返して疲弊させるの~」


 口調と内容とが乖離しきったコハクの具申に、サクラは満足げに頷いた。


「良い策ね、それでいきましょう。コハクに任せることにするのだわ」


 飲み終わった紅茶をソーサーに戻したサクラは、ユウナの顔を見て薄く微笑む。


「不服そうな顔ね。でも安心して、ユウナにはもっと重要な仕事をあげるから」


 そう告げつつサクラは、地図の一点を指し示した。


「ここにある廃病院で先日、新たなDOLLの出現が確認されたのだわ」

「……ドール?」


 サクラの口から出た意外な言葉に、ユウナは眉をひそめる。


「フィギュアじゃなくて……ドルフィーのことかい? それとも日本人形の残党?」


 ユウナの問いかけに、サクラは薄い笑みを浮かべたまま首を横に振る。


「DOLLよ。Diversified Optimal Learning Labor. どう? 久しぶりに楽しめそうな獲物でしょう」


 ユウナは、無表情だった顔をわずかに強張らせた。


「同族を討てというのか、サクラ」

「同族かどうかを判断するのは私だわ、ユウナ。私は私なりのやり方で、グランドクエストを終わらせる。全ての人形の魂を一つにし、この世界からのログアウトを果たすために」


 サクラの返事は、どこまでも涼しげだった。


「答えになっていないよ。以前君が僕達に教えてくれたのは、ログアウトの条件として他の種類の人形を全て滅ぼさないといけないということで……」


 ユウナの追及に真面目に耳を傾ける様子も無く、サクラはおもむろに立ち上がり、窓に近寄る。


「ユウナの気が進まないなら無理にとは言わないわ。他の子にやってもらうから。でもコハクには別件を頼んじゃったし……そういえば、なんだか暇そうにしているのが一人いるわね」


 サクラはカーテンに手をかけた。


「……!」


 ユウナは歯を噛み締めた。窓の下には、あの庭がある。


「ふふっ、また一雨きそうだわ」


 そうだ。自分は、サクラには逆らえない。


「……僕にやらせてくれ」


 低く呟く。振り返ったサクラの笑顔は、腹立たしいほど晴れやかで美しかった。


「お利口ね、ユウナ」


 ユウナは目を閉じる。閉じた瞼の裏に映るのは、花が咲き誇る庭、如雨露で水をやるアサナ。この世界であんなにも美しく花が咲いているのは、もしかするともう、彼女のいる場所だけかもしれない。

 アサナ。

 ユウナは、先ほど叩かれた頬にそっと手を当てた。

 痛みはなかった。けれど、不思議と熱かった。

 アサナ。君は戦いたくなければ戦わなくていい、壊したくなければ壊さなくていい。

 それは僕がやる。

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