第2話

 サラとシロは、濃く白い靄の中にいた。


 進んでも進んでも、靄は晴れない。

 方向もわからない。ただ、真っ暗な闇でない事だけが救いだった。


「——よくやったな、サラ。君のおかげで、とりあえずカズヤさんの意識に入れた」

「仕事はこれからよ、シロ。——とりあえず、このまま進んでいくしかなさそうね」

「そうだな。——本人の意識のどこかが働いてくれていれば、呼びかけることができるんだが」


 どれほど奥へ進んだだろうか。

 厚い靄の彼方に、ぼんやりと人影が見えてきた。


「見て、シロ。——誰かいるわ」

「ああ。——ふたりいる」


 スピードを上げて、靄をかき分ける。

 次第にはっきりと見えてきたのは、一組の男女の後ろ姿だった。



「——カズヤさんね?」

 サラは、男性の影にそう尋ねた。


「———誰?」

 答えたのは、カズヤと腕を組んで立つ女性だった。

 緩くウェーブした長い髪の、ほっそりと美しい女性。


「……あなた……ミズキさんね」

「私の名、どうして知ってるの……なぜここにいるの?」

「……カズヤさんを、探しに来たのよ」


「——帰って」

 ミズキは、無表情な声でサラに告げる。

「どうやって入って来たのか知らないけど——ここは、私とカズヤふたりだけの場所よ。誰にも邪魔させない」


 サラは、静かにミズキに問う。

「……ミズキさん、あなた…ここにカズヤさんをずっと引き止めるつもり?

 そして、カズヤさんの身体が衰弱して——彼を本当に連れて行ける時を、待つつもりなの?」


「——その通りよ」

 ミズキは、虚ろに前を向いたまま答える。



「……君は、本当にそれでいいのか?

 ——カズヤさんの幸せは、考えないのか?」

 シロが真剣に問いかける。

「——だって……私は、カズヤから離れられない」

 ミズキは、カズヤの腕を強く抱きしめたまま、震える声でそう呟く。

 ミズキから発せられる念が、次第に強くなる。

 サラとシロを意識から閉め出そうとする、暗い色の強力な念が姿を現した。



「——サラ。大丈夫か」

 充満してくる息苦しさを感じながら、シロはサラに問う。

「ええ、大丈夫。……ここで退いちゃ負けだわ」

 サラも苦しげな息をつきながら、諦める気配はない。


「カズヤさん、あなたの気持ちを聞かせて——。

 あなたは、どうしたいの?

 ここはあなたの意識の中よ。あなたが強く願わなければ、このまま何も変わらないわ」

 サラは、弱まりそうになる声に力を込めてカズヤに問いかけた。


「——僕は——。

 僕は……ミズキといたい。いたいけれど……」


 カズヤは俯き、力なくそう呟く。

 その優しげな瞳は伏せられ、生きる力を失いかけている。


「カズヤさん——思い出して。

 マユさんや、お父さん、お母さん、あなたの友達——そんな大切なものを全部放り出して、あなたはずっとここにいるの?

 あなたが生きて叶えたい事は、何もないの?」

「その通りだ。あんなに必死に君のことを思うマユさんを、君はそんなにあっさりと見捨てるのか?」


 カズヤの肩が、小さく震え出す。


「——やめて」

 ミズキの鋭い声。

 同時に、暗く重い彼女の念が動き出し、こちらへ這うように迫ってくる。

 サラとシロは、鋭い念を発して反撃を試みたが、その黒い触手は一瞬切断されてもむくむくと再生し、一層太さを増して伸び続ける。

 あっという間に念を封じられ、ぐっと縛り上げられた。



「………っ…!」

 視界が霞む。


 激しく圧迫される意識を必死に維持しながら、シロはミズキに訴えた。

「——ミズキさん。君は、カズヤさんが君を思ってここから抜け出せないでいることを、知っているんだろう?

 君が手を離さない限り、彼はここから動かない。

 カズヤさんを愛してるなら、彼の幸せのことを考えてくれ。ここに引き止めることが、カズヤさんの幸せなのかどうか——君になら、わかるはずだ」


「この手を離したら、私は——私はひとりきりよ! 闇の中に……!

 私のことはどうでもいいっていうの!?」

 ミズキの念は獰猛に力を増した。

 それは、平然と全てを破壊しつくす巨大な蛇のようだ。



「———っ」

 きつく巻きつかれ、サラはもはや意識を奪われ始めている。

 シロも、自分たちの限界が近いことを感じていた。


「——ミズキさん、それは違う。……君はこれから、また始まるんだ」

 シロは、途切れそうな声でそう呟く。



「——始まる?」

 ミズキが聞き返す。


「そうだ……。

 ミズキさん、君は美しい。

 君にもやらなければならない大切な仕事があるはずだ。

 これから新しく生まれる何かに、その輝く命を与えるという仕事が——!」


 ミズキの念に締め上げられながら、シロは最後の力でミズキに叫んだ。




「————」


 ミズキの念が、急速に緩んだ。

 巨大な蛇も、煙のように消えて行く。



「……………」

 解放され、投げ出されたシロとサラは——半ば手放した意識を寸前で繋いだ。




 ミズキは、涙を流していた。



「ごめん……カズヤ。

 ——あなたは、優しいから。

 引き止めれば、ずっと私の側にいてくれると思った。

 私は、そんなカズヤを、自分の思い通りにしたかった。——卑怯よね」


 そしてミズキは、抱き締めていたカズヤの腕を静かに解いた。



「ミズキ——ミズキ。……ごめんな。

 君を、連れて帰りたい。

 君と……一緒に帰りたい」

 カズヤは、ミズキを抱きしめて泣き崩れる。



「私も、あなたと帰りたい……

 この手を、決して離したくなかった。

 でも——ここでさよならだわ。


 ——彼らの言う通り。

 あなたにも、私にも、これからやらなきゃいけないことがあるのね。


 あなたと過ごせて、私は本当に幸せだった。

 ………ありがとう」


「———ああ。……僕こそ、ありがとう。……ミズキ」




「突然入り込んできて驚いたけど——

 あなたたちが来てくれなければ……私は本当に、闇の中で迷うところだった。


 苦しめて、ごめんなさい。

 ——心から、感謝します」


 ミズキは、シロとサラへそう言い残した。



 繋いでいたふたりの手が、静かに離れた。

 ミズキとカズヤの間の白い靄が、次第に濃くなっていく。




 ミズキはそのまま、輝くように靄の中へ消えた。









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