青年期

郁人と聖花(1)


「ごめんな、小園こぞの。俺はおまえの相棒にはなれないよ」


 ――懐かしい夢を見た。


 すらりと背が高くて、傍にいるとすごく楽な人だった。

 恋人になりたかったんだ、相棒じゃ俺は満足できないんだ、と苦笑する彼にあたしは何も言えなかった。

 彼、羽山はやま桐継きりつぐは、美術部員だった。

 高校で陸上を続けるつもりもなかったあたしは、部活に入るつもりはなかったのだけれど、そこを同じ中学の友達が名前だけかしてほしい、と美術部の幽霊部員になったわけだ。

 そんな幽霊部員でもたまには顔を出してみようかと放課後に美術部に行って出会った、今で言うところの草食系男子だった。

 けれど妙に気が合って、あたしは彼がカンバスに向かっている間、美術室の片隅でぼんやりとしながら時折言葉を交わす、そんな時間がとても好きだった。付き合わないか、と言われたとき、羽山ならいいかな、と思って頷いた。他にもいた男友達のなかでも、羽山だけは違っていたから。

 半年間、コイビトだったあたしの友人。


 あたしは彼に、恋はできなかった。





 幼稚園から大学まで、ずっと同じ学校だっていう人、いるだろうか。

 あたしにはたったひとり、それに当てはまる人がいる。

 松浦郁人。あたしより二日あとに生まれた元相棒の幼馴染。幼馴染という言葉さえどこか空々しくて、今ではもう、なんと表現していいのかわからない。他人という言葉がいちばんぴったりくるのだと思う。

 そう、あたしも郁人も、同じ学校だけど会話したことはほとんどない。中学では何度か話したような気がするけれど、高校ではまったくない。同じクラスにもならなかった。

 あれほど濃密だった思い出は、時を重ねるごとに遠のいていく。忘却が人の常であるのなら、彼は幼い頃の日々を忘れてしまったんじゃないだろうか。



 大学は県内の国立大学に進んだ。さすがに郁人は県外の大学に行くだろう、彼は昔から頭が良かったのだから。そう思っていたけれど、あたしの予想に反して郁人はあたしと同じ大学の別の学部に入学していた。

 県内といえど実家から通うには無理がある距離で、当然あたしも郁人も一人暮らしだ。おばさんからは何かあったら郁人のところに行きなさい、なんて住所を教えられたけど、そのメモは一度も見ないまま引き出しにしまってある。お互いの家族は仲が良いし、あたしも美代ねぇや遥ねぇとは今でも話をするけれど、あたしと郁人は、もうそういう関係ではない。

 困ったときに助けを求められるような、そんな関係じゃ、ない。

 そもそも彼にとっての小園聖花は、相棒か他人かのどちらかであった。間違ってもお姫様と王子様みたいな関係じゃない。


「聖花、合コン行かない?」

 食堂でうどんをすすっているところに、同じ学部の子がにこにこと唐突に話しかけてきた。

「なんで?」

「なんでって……フリーなんでしょ?実は聖花のこといいなって言ってるやつに頼まれてさ」

 あたしがいいなって、世の中物好きがいたもんだな、とあたしはまたうどんをすする。間違ってもあたしはモテるほうじゃない。いや、友人曰く見てくれは悪くないらしい。だが中身が残念、というわけでたいていは期待してやってきた男とは友人の関係で落ち着く。

 小さい頃に郁人と一緒に泥だらけになって、上に兄がいるあたしに女子力を求める方がおかしい。

「合コン嫌いなんだよね、ごめんパス」

何度か強引に連れて行かれたことがあるが、あれは戦場だ。女子力ゼロのあたしが行く場所じゃない。

「えー……じゃあその人に連絡先教えるのは」

「男なら自分で聞きにこいアホ」

「だよねー……」

 何が楽しくて見知らぬ男に連絡先を教えなきゃならないんだ。こちとらうら若き乙女が一人暮らし、用心に用心をかさねている。

 ただの飲み会だっていうなら行ってもいいが、たいていは飲み会という名の合コンであることが多い。

 さっさと食べ終えて食器を片付ける。昼時の食堂の混み具合は尋常じゃない。そんな人混みのなかで、あたしの目はすっかり癖になって自然と郁人を探していた。

 広い構内、彼の姿を見つけることはほとんどない。

 少しずつ、少しずつ、世界は広くなっていく。それは郁人も同じで、重なり合っていた二人の世界は、徐々にその重なりを狭めていった。

(もしあたしが男だったら、何か違ってかいたのかな)

 こんな風に、他人になることはなかったんだろうか。あの頃と変わらず、相棒でいられたんだろうか。

 そんなことを考えても意味はないのに、ときおりふっと、思い出したようにありえないもしもを想像する。

(もしもなんて、意味ないけど)

 だって聖花は女で、郁人は男だから。

 きっといつかは、距離が隔てられる運命だったんだろう。



「松浦くん、彼女できたらしいね」


 お昼のあとの講義は眠い。空腹が満たされてたいへんに眠い。

 そんな眠気を吹き飛ばしたのは、小学校が同じだった友人の真奈美まなみだった。高校は違う学校だったけど、大学で再会して以来付かず離れずの友情を築いている。

「……だから何よ。関係ないし」

「世間話じゃん。そんなツンツンしなくても」

 ただの世間話にならないことを知っていて、真奈美は郁人の名前をたびたび話題に出す。交友関係の広い彼女の情報網はあなどれない。

「それにしたってなんでそんなにモテるのかねぇ。ブサイクではないだろうけど、イケメンってわけでもないじゃない」

「松浦くんはやさしーからねぇ。顔もそこそこなジェントルマンはモテるでしょーよ」

 ……そんなもんか。誰もがイケメンイケメンと騒いでいるくせに、彼氏にするのはやはり性格が重要らしい。

「でも結局、誰にでもやさしいって気づいて別れるパターンだなぁ、ありゃ」

 けけけ、と真奈美は人の悪い笑みを浮かべている。

「見てきたように言うんだなー」

「『松浦くんのこと、やさしくって好きだけど、でも私だけ特別じゃなかったんだね』とか『私は好きだけど、松浦くんは私のこと好きになってくれなかったね』とかそんなとこだよ」

 真奈美はご丁寧に声音まで変えてくる。芸が細かい。

「そんな感じの子とばっかり付き合ってるしね。女の子らしくってかわいいけど妄想激しくて自分が一番かわいいって子たち。そーゆー子は、愛されてなきゃ嫌だから長続きしないよ」

 そのあたりは昔っから郁人の趣味は変わってない。香奈恵さんは上品だったけれど、今思えば真奈美の言う特徴に当てはまっていると思う。

「……ならそのとおりにアドバイスでもしてやれば?」

「やだよめんどい。そんなこと自分で気づけっての」

 きっぱりと吐き捨てる真奈美に、ふふ、とあたしは笑みを零した。辛辣なこの友人が、あたしはすごく好きだ。



 その日は一限目から講義の上、いつもより寝坊してしまった。おかげで朝の通勤ラッシュと被って電車は満員御礼ぎゅうぎゅう詰めである。

(――最悪)

 田舎育ちにこの満員電車はきつい。だからいつも避けていたのに、なぜよりにもよって余裕のない曜日に寝坊したのだろう。

 はぁ、とため息を吐き出していたところで、ぞくっと、背筋に悪寒がはしる。

 太ももを撫でる手に寒気がした。偶然ではない、明らかに故意だ。

(痴漢……!)

 この満員電車のなかで、逃げ道はない。そしていくら男勝りなあたしでも、とっさに声をあげることはできなかった。カバンでガードしても手はするりと伸びてくる。

 しつこくて気持ち悪い。

 次の駅で降りる人たちと一緒に降りて、場所を移動しよう。そう思っているうちにすぐに駅についた。一旦降りて、また電車に乗る。一本あとにすればいいのかもしれないけど、こっちは遅刻寸前だ。それに次の電車も同じように満員だろう。

 とにかく痴漢から距離をとれればいい。そう思っていると、人混みから伸びてきた腕に引っ張られて扉のそばの隅に追いやられる。

(やだ、まさかさっきの痴漢……?)

 身体を強張らせるが、撫で回すような手は襲ってこない。背後にいるのは男の人のようだけど、さっきの痴漢とは違う人のようだと気づく。

 もしかして、助けてくれたのだろうか、と思っていると、電車ががたんと揺れる。潰されかねない揺れだが、隅にいた上に後ろの彼が扉に手をついてこちらのスペースを保ってくれる。

 その、扉についた手の甲に、息を呑んだ。

(……左の、親指の下)

 薄くなったけれど、そこには引っかいたような傷跡があった。

 郁人にも、まったく同じ傷跡があった。小さい頃木登りをして、枝で切ったのだ。思ったよりも傷が深くて跡が残った。

(……郁人?)

 声には出せなかった。

 確かめる勇気がなかった。

 悔しい。こんな、守られるような関係じゃなかったはずなのに。あたしと郁人は、男と女ではなかったのに。

 けれど守られることに、守ってくれているのが郁人であることにほっとしてしまっているのが、すごく悔しい。

 そのあと目的の駅に着くまでなにもなかった。

 遅刻ギリギリの学生が電車から押し出されて、その拍子に後ろにいたであろう郁人の姿も見えなくなる。

「……あ」

 お礼、言えなかった。

 ああでもお礼なんていらなかったのかな。だって、向こうもなにも言わなかったし。

 こんなとき携帯のアドレスを知ってあれば、簡単にメールが打てるのに。あたしが携帯を持ち始めたのは高校に入る頃。郁人も同じ頃だったと家族経由で知っている。

 その頃にはもう疎遠になっていて、知る機会があるわけがないのだ。おばさんは何度か教えておこうか? なんて言い出したけれど丁重にお断りした。

 しばしぼんやりとしていたけれど、遅刻ギリギリだと思い出してあたしは駆け出した。


 結局、大学時代の郁人との接触はそれだけだった。あのときの彼が郁人だとすれば、の話だけど。

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