第2話 試薬

 空のように青い瞳だねと言われて、だからナエは、

「青い空なんて見たこと無い」

 そう言うとサイガが笑ってプリントアウトを見せてくれた。

 ツヤツヤの光沢紙にいっぱいに印刷された空を見て、ナエはからかわれているのだと思って気分を害した。

「子ども扱いにいい気分はしない。仕事をもらいに来たんだ。そっちが道楽でもこっちは生活がかかってる」

「待って、ごめんよ、誤解だ。子ども扱いは仕方ないけど、嘘は吐いてないよ。これ、本当の空だ。もっともうんと昔の情報だけど」

 サイガの返答にはやっぱりむっとしたが、それ以上に興味を惹かれて再び紙に目を落とす。

 インクをぶちまけたような青い色は信じがたい鮮やかさで、淡い色なくせ深みを感じさせる。こんな刺激的な色が毎日頭上にあって昔の人は気が狂ってしまわなかったんだろうか。

 そう疑問をぶつけると彼はまた笑った。

「人間は慣れる生き物だ。これを当たり前に見ていたら、違和感なんてなくなる」

 気に入ったなら写真をあげるよ。

 彼の白い指が差し出した写真をナエはつい受け取った。

「それじゃあ仕事の話をしよう」

 二年前のその日を境にナエの生活は変化した。

 篠切蛾シノ・サイガは特徴的な細い眼鏡をかけていて、白衣の裾は汚いが薬師か何かで、彼は差別をしなかった。

 仕事を希望する者が七十歳の浮浪者であれ十二歳の子供であれ同じ扱いをした(もっともその対応は変化した。大人には敬語だったし子供にはくだけた喋りをした)。年齢の差は向こうとしても大いに大歓迎だったようだ。データの比較は重要だった。当時から今も変わらずナエは最年少サンプルだ。

「はい。二週間分、またよろしく。助かるよ。なんて言っても安定してる。最年長組はダメだ、すぐに入れ替わっちゃうんだもの」

 白い封筒を差し出して彼はそうぼやいた。

「それからこれ、今回の分ね」

 もう一つ添えられた茶封筒ごと受け取って、ナエは肩から提げた布のカバンにしっかりと仕舞いこむ。

「次来たときは診断と測定あるからそのつもりでね。よろしく」

「わかった。ありがとう」

 サイガの笑顔に送り出されナエは施設を出た。

 施設は角ばった大理石と開放的なガラスの面とを交互に組み合わせて作られていて、一見すると清潔な病院のようだった。

 薬用植物の温室が隣接していて、あいにく一般公開はされていないから、ナエはいつも通りすがるだけだ。

 地面に出来た腫瘍のような半円ドームの曇りガラスの向こうに見える、地面から噴水が湧き出たように溢れる緑を横目にナエは町へ出た。

 今日は雨も降りそうにない。

 灰色の雲が一面に広がる見飽きた色の空模様。

 人の通行はスムースで、目的地へはすぐ着いた。

 白い建物に十字のしるし、教会と名のついた病院はバロック調の悪趣味で荘厳なたたずまいに反して内部は至って機能化されてスピーディに処理が行われている。

 行きなれた窓口へ向かい用向きを告げるとすぐに大きな紙袋がカウンターに運ばれ、会計を済ませて病院を出る。滞在時間は十分に及ばなかった。

 敷地を出かけた途端声に呼び止められる。

「ナエ」

「ああ、きみ」

「帰るところ? 荷物持つよ」

 白衣を着たヨウが走り寄った。

 首から提げたネームプレートが弾む。それを外してポケットに押し込んで、ナエが抱える紙袋を取り上げた。

 中で液体の動く音がする。

 ナエの細い腕には大きな負荷を掛ける荷物だった。

「ここで働いてたっけ?」

「そうだよ、もう半年くらい。前にも会ったよ」

「偶然だと思ってた」

「バイトだけどね」

「バイトかあ。医者になったのかと思っちゃった」

「免許ないから無理」

「もぐりだ」

「これは院内じゃみんな着るって決まり」

 ダンボールが視界の下半分を奪うから、前を歩く少女の姿が見えたり隠れたりする。大きな荷物にすれ違う人は迷惑そうな顔をするが文句は言わなかった。

 ジュカン区の整然とした町並みは、橋を渡った途端にハシュ区の見慣れた雑然とした景色に変化する。

 のんびり歩いてアパートに着くと、荷物を二階へと運ぶ。

 ナエはそのまま荷物を開け、消毒した手で繭の世話を始めた。

 点滴の器具にダンボールに詰まっていたパックを取り付けて、臍に繋がるチューブを取り替えるために繭の殻を開く。

 久方ぶりに直に触れる、眠り続ける白い体は生温かかった。

 そんなこと起こりっこないが目を覚まさないように慎重に作業を続ける。

 臍に通された管の取り替えと消毒が済むと老廃物の詰まったタンクを新しいものに替えて、動作に不具合がないかを確かめたらやることは無くなる。

 繭の中で胎児に戻って眠り続ける幼い母親に手を伸ばし、彼女の頬に指先だけで触れる。そうしたせいで目覚めてしまうのではないかと恐れるようにごく控えめに指は唇をなぞった。

 呼吸を確かめて、安心して蓋を閉める。

 繭と外界は再び隔たれる。

 ころんとしたフォルムに体を重ねて、ナエは目を閉じた。

「おやすみ……おやすみ……おやすみ……」

 唱えるように繰り返す。

 言うまでも無く彼女は目覚めない。

 命を育むはずの繭がまるで死者を内包する棺のように静かだ。

 キッチンではヨウが簡単な炒め物を作っていた。

 料理をしながら常にドアの向こうを気にしていた。

 何があるかは知っている。立ち入ることには躊躇いがある。

 ドアの向こうについて考えるとヨウはいつも微かな憤りを感じた。

 ナエに負荷の大きな仕事を選ばせるものがドアの向こうにあるからだ。

 生命維持装置の維持は容易ではない。消耗品が多く管理費は嵩む。

 ナエはそれを一人で稼いでいた。まだ十四の年齢で充分稼ぎがあるのは例の仕事のおかげだった。

「お腹すいた」

「出来てるよ」

 ようやくドアの向こうから戻ってきた。

 ナエは階段を下っていく。

 ダイニングでは食事をしない。

 ヨウは小さな箱のようなナエの部屋へ食事を運んだ。

 野菜とパスタの炒めたものが大きめの皿一枚分。

 ベッドの上に座り込んで不器用に握ったフォークで少しだけ食べてお終いだった。カルシウムの溶けた水をゆっくりと一杯飲む間に余りのものをヨウが食べる。

 狭い部屋にはすぐ食べ物のオリーブオイルの匂いが広がった。

 ベッドの上で背を壁につけて足を投げ出す格好で、ナエはじっとヨウの食事するさまを眺めていた。部屋に一脚だけの椅子に窮屈そうに座って、あざやかな手つきでフォークにパスタを巻きつける。器用な男だなと思った。ナエは自分が不器用なのだとは考えない。

 少女は改めて男の顔を見る。

 スクールの生徒のように清潔感がある。

 びっくりするくらい真っ黒な髪は短くて、瞳は空みたいな灰色だった。

 透明感のある灰色は少し気持ちよかった。

 まじまじと見ることは久しぶりな気がして新鮮だ。

 見つめられていることに気付いたのか彼は「何?」とナエのほうを伺った。

「なんでもない」

「まだ食べる?」

「もうお腹一杯」

 グラスの中身を舐めるように飲みながら食事を再開した彼を見るともなしに観察する。白衣はもう脱いでいてドアの上についたフックに下げてあった。

 皿を抱え込むように持っている手の、指の一本一本を値踏みするように見た。

 はっきりした関節、ナエよりも厚い爪、指は手のひらよりも僅かだけ長い。

 不意に胃が鳴った。

「やっぱり。ほら」

「あんまりいらない」

 食器を差し出すヨウの手は確固としていた。

 嫌々一本パスタをつまんで咀嚼する。

 それだけでは納得しないようでヨウは皿を引っ込めない。

「……出かける」

「あ、こら」

 静止する声も聞かずに部屋を去る。

 鞄は二階に置きっぱなしで、取りに行くため階段を上るのが億劫でナエはそのまま外へ出た。

 うんざりだと思った。大体どうして彼は我が物顔でぼくらの家にいるのだろう、と基本的な疑問に内心で首を傾げる。ナエに言わせればヨウは母との二人暮らしに不法侵入してあれこれと世話を焼くわずらわしい奴だ。

 気晴らしに行こうと足が向かうのはハシュ区南に建つライブハウスで、そこに行けば誰かに会えるはずだった。

 到着間際になって鍵を持ってこなかったことを思い出す。

 それに気付いてヨウは律儀に留守番をしているだろう。

 拘束される彼のことを考えると少し申し訳ないような、勝手にすればいいという気持ちがあるような、自分でも面倒くさい思考回路に辟易する。

 早めに帰ろうか――いや、その必要はない。

 ライブハウスの扉を開けて、爆音に包まれる。

 必ずここには人が居て大したことのない演奏をしているかその中で騒音も意に介さず会話をしていた。

 百人程度の客が入る箱には客は二十人も居ない。ステージで四人の男女が気持ちよさそうに楽器を鳴らすがアンプから大音量で聞こえるそれはとても陳腐な演奏だ。

 だけど大音量の低音がナエは好きでアンプの前に座り込んだ。

 他の何も聞こえない、調和していない音楽だけに飲み込まれてじっとそれに身を委ねている。

 リズムを刻んで叩き出される低音が好きだった。

 心臓の音に包まれている気分になる。

 そうなるとどうして安心するのか分からないが、心が少し安らいだ。

 やがてナエを見つけた顔馴染みが会話の輪へ誘う。

 応じて混ざった輪には顔の知らない者ばかりなのにこちらのことを知っていたから、どこかで会ったことはあるのだろう。

 誰が何をした、誰と誰がどうなった、話題に上る人のことも覚えていない。

 人の名前も顔も覚えるのは苦手だった。それでもなんとなく周りに合わせて笑ったりするうちに気も晴れて、少しの徒労感と一緒にナエは部屋に帰った。

 


 ベルを鳴らすとしばらく待って鍵が開いて、ヨウは帰らずに留守番をしていたらしかった。嫌な予感に憂鬱になってナエは部屋を見る。案の定散らかった部屋が見事に整頓されていて居心地が悪くなっていた。

「来るたび掃除するのやめてよ」

「癖なんだ。ごめん」

 八つ当たりのような態度に素直に謝るヨウにまた苛立って、自分から謝るタイミングを失う。皮肉るように言葉を重ねる。

「躾がいいんだ」

「昔は、ね。じゃあ、帰るから。上に食事、一応作ってある」

「そう、ありがとう」

 ヨウがこれ以上何か申し出そうになる前に言って、彼がドアの向こうに踏み出してすぐ乱暴にドアを閉めて施錠した。がちゃんと冷たい音がした。ドアに背を向けたところでベルが鳴り、閉めたばかりの戸を開く。

「何?」

「あのさ」

 まだ帰っていないヨウが居る。

 その向こうはすっかり夜の更けた街並みだった。

 随分待たせてしまったのだと改めて気付く。

 ようやく解放されたのにヨウはまだそこに居た。

「……おやすみ」

 たっぷり逡巡したあとヨウが言ったのは短いその一言だった。

「うん。おやすみ」

 今度は静かにドアを閉める。向こうで足音が遠ざかっていく。

 ナエは二階へ向かう。

 そこに置き去りにした荷物とヨウの作った食事を部屋へ運んだ。

 サラダと蒸し鶏の料理を半分ほど食べ、母の寝室で彼女のあどけない寝顔におやすみを言って、部屋に戻ってシャワーを浴びる。

 ベッドに入る前に、昼にサイガから受け取った白い紙袋を開けて包装された錠剤を取り出す。二列十二行のシートに二列一行のバラを併せた十四錠、二週間分。

 バラのシートから一錠押し出して水で飲み下す。

 二年経ってもまだ試薬段階の錠剤がナエの生活を支えていた――ナエの生活の基盤たる母の命を持続させていた。

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