02:かたわれの恋・2

 アメリカへ行ってしまう佳乃の思い人。その彼との最後の別れの時間だけでも、せめて後悔しないように過ごしてきてほしかった。まさかそれを他ならない自分が壊したなどということになれば、きっともう一生悔やんでも悔やみきれないことになる――そしてそれは佳乃自身も気付いているはずで、おそらく花乃を傷付けないためにごまかそうとするに違いない。そのため花乃は佳乃の表情の変化にも集中しなければならなかった。

 佳乃はしばらく無表情で花乃を見返していた。そしてぽつりと言った。

「舞台は成功したよ。みんな花乃が最後までやったと思ってる」

「!」

 花乃は息を止めて、愕然と佳乃を見つめた。佳乃は視線から逃れるように俯き、落ちた濡れタオルを拾い上げて洗面器にひたしていた。

 滑らかな水の音が、しんとした部屋に響く。

(わたしの、せいで――)

 あまりの衝撃に、謝罪の言葉さえ思いつかず真っ青な顔で黙り込んでしまった花乃の目の前で、佳乃はいきなり勢いよく顔を上げた。そしてその指でぴんと花乃の低い鼻をはじいた。「会えたわよ!」

「……えっ?」

「あたし花乃が倒れた時、すっごいびっくりしたんだから。これくらいの意地悪はさせてよね」

 花乃はしばらく佳乃の言葉の意味がわからず、呆然とその顔を眺めるしかできなかった。その様子を見て、佳乃は胸元のポケットから何かを取り出した。

 差し出して開いた掌の上には、ちいさな、薄紅のお守り。ちりめんがしわしわに縮んで、くすんだ色に汚れてしまっているが、花乃にも見覚えがある。

「これ、京都で佳乃ちゃんがくれたのとおんなじ」

「そうよ。ずっと前に投げ捨てたものなのにね。アイツが、持ってきてくれたの……」

 そのあと、夜遅くまでかかって佳乃が話した一連の出来事は、長く長く、花乃が知るよりももっと深い思い出の中にあった。修学旅行中の出来事から屋上での再会まで、双子の片割れが感じてきた恋の話は、花乃にとってはあまりに新鮮で夢のような物語。

 ずっと悩み苦しんできた佳乃の気持ちが誰よりも感じられる分、幸せを掴んだ妹の恋は、どんなおとぎばなしの恋物語よりも素敵だと花乃は思った。


「よかったね、よかったね、佳乃ちゃん!」

 花乃はベッドの上から佳乃に抱きついてその頭をなで続けた。いつもとはすっかり逆の立場に戸惑いつつもおとなしくされるがままになっている佳乃が愛しくて、知らぬ間に涙がこぼれていた。

「わああ、なんであんたが泣くのよ!」

「だって、嬉しいんだもん……! 覚えてる? 佳乃ちゃん昔から、恋なんて絶対しないって、そればっかり言ってたんだよ。わたしがいればそれでいいって言ってた佳乃ちゃんに、まさか先を越されちゃうなんて思わなかったんだもん」

 泣き笑いの花乃に対するように、照れと怒りの入り混じった複雑な顔で佳乃は花乃の濡れた頬に手を伸ばし、その涙を拭った。「覚えてるわよ……だって本気だったもの、いつだって。でもさ、その後花乃が言ったのよ?『そんな事言ってる佳乃ちゃんが先に恋するかもしれないね』って」

 さっき見た夢の中の光景が目の前に広がる。……ああそうだ、思い出した。

 それからわたし、こう言ったんだ――。

「佳乃ちゃん……幸せになってね」

 佳乃は突然しゃっくりのような声をあげたかと思うと、激しく勇ましく咳込み始めた。花乃が慌ててその背を撫でると、涙目になった佳乃が息継ぎのあいまに顔を上げて叫んだ。

「何言ってんのよ、まるであたしが嫁にでも行くみたいじゃないの! そそそんなこと考えてもないんだからっ! それに遠距離には違いないんだし、幸せになんて――なんて……」

 ……いつか、なれたら、いいなあ。と。

 真っ赤な顔の下からかすかに聞こえたのは、花乃の空耳ではないようだった。



 最後にしっかりと体温計をくわえさせてその熱が完全に下がっていることを確認してから、佳乃は念を込めて花乃に向き直った。花乃の体調の管理は自分に全責任があるとでも背負い込んでいるのか、予断を許さない目つきをしていた。

「明日、……どうする?」

 花乃はまだかすかに赤い目をぱちぱちと瞬いて、満面の笑顔を佳乃に向けた。

「ふふ、聞かなくてもわかってるでしょう? もちろん、出るよ、舞台」

「無理してないでしょうね」

「うん、絶対大丈夫! もう心配かけないよ。ぐっすり眠れたし、完全復活したもん!」

 両手の親指を突き出す花乃に、佳乃もようやく微笑みで答えた。

「わかった。じゃあ明日は頑張ろうね、お互い」

「うん! おやすみ、佳乃ちゃん」


 手を振って部屋を出ていった双子のかたわれ。彼女の恋の成就を誰よりも喜ぶことのできる自分が、とても幸せだと花乃は思った。元々憧れていた大好きな妹が、ますますしなやかに強くなっていく様子を目の当りにするのは、正直なところ、独りで置いていかれるようでとても寂しかった。

 けれど、それよりも遥かに大きな喜びを感じられることが嬉しい。

 そう感じることのできる自分が、いとおしい。

(ほんとうにおめでとう、佳乃ちゃん……)

 佳乃の思い人を、花乃は心底信頼していた。すべてをかねそろえていて、何もかもに恵まれているように見えたのに、それでもたったひとりだけをずっと見つめていた人だから。

(本当は、ちょっと羨ましいんだ、わたし)

 拓也を見るたびに、花乃の心の中でかすかに騒ぐものがあったのは確かだった。きっと、恋ではないと思う――憧れか、尊敬か、そんなものだと思うけれど、初めて惹かれた異性だった。そしてその人が、大好きな妹と幸せになってくれるなら、もうこれ以上のことはない。

(源氏の君が神崎君みたいな人だったら、きっと紫さんも死ぬまで幸せだったのにな……)

 ベッドにもぐりこんでぱらぱらと明日の台本をめくるうちに、薬の影響か急に眠気が訪れてきて、花乃は抵抗することもなく素直に眠りに沈んだ。ゆっくりと、夢を漂うように。

(いつか会えるかな……)


 いつかわたしの前にも、わたしだけの王子さまが来てくれるかな――…

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