第20話 比良山にて
三ヶ月が過ぎ、陽射しが幾分強さを和らげたと思われる昼下がりに、静は祥の許しを得て父の墓参りへ来ていた。
菩提寺は比良山嶺章寺である。
共は史郎一人であった。
比良山へ引き移ってから、どこへ出かける時も共はいつも彼だけである。密偵たちはどこかで見守っているのであろうが、頓着するまでもなく気がつかぬ。
所々に燃えるように紅い彼岸花が咲き誇り、晩夏の彩りを鮮やかにしている。寺を出ると、水田のあちこちにその色彩が見えた。
稲もすっかり実り、重たげに頭を垂れている。今日も百姓たちの精を出して働く姿がその端々で揺れていた。
「まだまだ暑いのう…」
珍しく徒歩で歩く静をみて、通りかかる農夫が挨拶をする。
「どうじゃ、今年の出来は?」
「何とか今年も良さそうでございます。」
ここ数年はよい気候が続き、相馬は豊かな恵みに包まれて財政にもゆとりが出てきていた。
そのゆとりを、残念ながら、現領主は負け戦にのみ費やしている。
半月前に攻め入った伯規の国から敗戦した祥は、まだ懲りずに再戦する決意を固めているという。
…今はわしの預かり知らぬところよ。
手に入るだけの情報は全て耳にいれるが、あえて知らぬふりである。
「若殿、よろしければ私の家にお寄りなさいませぬか。」
史郎は左手に持った水筒と火打ち石を右手に持ち替えながら声をかけた。史郎が住んでいた庵はこの近くなのである。
「おう、それはよいな。暑うてかなわぬ。一休みさせてもらおうか。」
近所のものに時々手入れを頼んでいるので、史郎の家は少しも傷んでおらず、今日からでも住み暮らせそうだった。
小さな奥の間に上がり込み、史郎が井戸の水を汲んでくる。
静は久しぶりに訪ねたこの家で、かつて自分に奉公をするよう誘いに来たときのことを思い出す。
…あの時も夏であった。岩井と三浦が一緒にきて、飲み干した井戸水がなんともうまかった…あれから一年以上経つのか。
古びてはいても掃除の行き届いた畳の上に、うーんと大きく伸びをして横になる。薄手の麻の着物が風を通し心地よい。
隠居生活となってから、静は衣服にだいぶ気をゆるめてきた。側仕えをするものたちはみな、素性を知っているために気が楽になったためであろう。今日のように暑く、また監視の目もないこの様な場所では、何一つ神経を使う気などなかった。
縁側から、桶に冷たい水を汲んだ史郎が入ってくる。
「どうぞ、若殿」
「そなただけは、隠居した今でさえわしをそう呼ぶのう。」
「殿は隠居なさってもまだお若うございます。」
茶碗をそのまま桶に突っ込み、水をすくって飲む。不調法きまわりないが、これがうまいのだ。
「おっと…」
濡れ手に茶碗を滑らせて、静が水を胸元へこぼしてしまった。慌てて史郎が手ぬぐいを持ってくるが、
「この暑さじゃ、自然に乾く。」
といって手で制した。
「水浴びのようで、気持ちよいぞ。」
「童のようなことを…」
苦笑して主人の姿を見上げると、麻地の薄物が濡れて肌に吸い付いている。首から胸元の袷にかけてびっしょりのまま、静は笑った。
「なまめかしゅう、ござるな」
思わず、史郎が呟く。
「わしがことを申しておるのか?」
呆れたように主君が両手を後ろについて上体を反らした。
「美しゅう、ござる。」
「ははは…今まで何人もの御仁に言われたが、史郎に言われるのが一番嬉しい。だが、本気にはすまいよ。わしなど女の出来損ないじゃ。美しいとするならば、男としてであろう」
からからと男のように笑うのは、静も少し照れくさいからであろうか。あえて異性であることを意識させぬよう、無造作に振る舞う。
逆に、自分の心臓の鼓動がはっきりと聞こえてきた史郎は、頭を冷やそうと、茶碗の水を頭からひっかぶった。
高らかな静の笑い声が、小さな家に響いた。
「水も滴るよい男になったぞ、史郎。ははは…」
主の笑いを買ってまでの荒療治だったが、残念ながら効き目はなく、史郎は衝動を押さえかねた。汗と水で照り輝く静の肌へどうしても目がいってしまう。
そして今は二人きりなのだ。邪魔をするものもない。次の間に控える侍臣を気にすることもない。
そんなつもりで主君をここへ誘ったわけではなかったのだが、そうした事が史郎に妙な度胸を生ましめた。
濡れ髪を犬のように首を左右へ振り切ってから、膝立ちで近づいて静の胸元へ手を差し込む。
主君が笑いを収めた。
僅かに茶色がかった瞳が常になく真剣で、眼前に迫ってきた。懐へ断りもなく入り込んだ指先がゆっくりと胸をまさぐり始める。
濡れた髪が日光に透けて淡い色に見えた。五歳も年上とは思えぬ童顔が近づいて鼓動が速まる。頬や首筋に張りついた
細い髪が男のくせにひどく色っぽく思えた。
「お慕い申し上げておりました。…若殿」
「あ、…」
わずかに静が震えて、史郎の腕を掴んだ。
だが、史郎は動じることもなく、自分の腕を捕らえた静の手首に唇をつけた。その途端に静の力が抜けて史郎の腕は自由になる。
「静様を女子として抱いてよろしゅうございますな?」
上体を仰向けにして倒れた主はうっすらと顔を赤くしていた。
「な、ならぬ」
静の声は消えそうに小さく、震えている。
「なぜ?」
「わしは…わしは…そなたの妻にはなれぬぞ。」
史郎の瞳を見据えて悲しげにそういった静の顔は、史郎にだけ見せるあの頼りなげな素顔であった。
「かまいませぬ。私が生涯若殿にお仕えいたしまする。そのような間柄があっても、よろしゅう思いまするが…」
静の固定観念をいつも打ち砕く奇抜な発想をする史郎であるが、その発言もまた、切れ長の瞳を見開かせる効果があった。
「そなた、妻を欲しいと、子が欲しいとは思わぬのか。」
「静様以外の女子など、欲しゅうありませぬ。」
淡々とそう答えて、史郎は白い指を静の肩へ伸ばしていった。
静は、麻の袷をそっと押し開く史郎の顔をしばらく見つめていたが、やがて全てを観念したように瞳を閉じる。
二年越しの恋が実った昼下がりは、互いに汗ばむほどに暑い。
ゆっくりとその唇を静の胸に着物の上から押し当てる。布越しにも史郎の熱が伝わり、静が小さく震えた。
こうしたかったのだ。これほどに近くにいたのに、ずっと触れることができなかった。抱きしめた感触を、もはや忘れてしまいそうなほどに。初めて唇を重ねた春浅い夜からずっと。
いや、この若い主君が自分に恋していると告白した冬の夜から。
痛々しいほどに様々な試練に堪え忍んできた主君を慰められるのは、自分だけだと言うことを、史郎は痛感していた。
その静のためにならば、たとえ斬られてもかまわないと覚悟した時、自分の衝動を抑えかねる気がした。
この世で天涯孤独のこの身をここまで必要としてくれる人がいる。
その思いに答えたい。出来ることは全てしてあげたい。命を、人生をささげてもかまわない。
…自分も、静が好きなのだ。いつのまにか、これほど慕っていたのだ。これほど誰かを欲しいと思ったことはなかった。
史郎の思いに静が声を立てて応じる頃には、蝉たちが激しく鳴き出していた。
結い上げた黒髪も、井戸水に濡れた麻の着物もかき乱れ、清冽で鮮やかな静の肢体が史郎の下で揺れ動く。
陽射しが差し込む縁側からはわずかに離れているが、おもての光が否応も無く照らし、静の姿も、史郎の体も浮かびあがらせる。
蝉の鳴き声が、蛙の合唱に変わる頃、史郎が身を起こした。
「静…さま…若殿…そろそろ戻りませぬと皆が心配いたします。」
「う、うむ。そうじゃな…」
恥ずかしげに体を小さく曲げる静をよそに、史郎は簡単に身支度をして、再び水を汲みにおもてへでた。
西の空へ太陽が沈む様子がよく見える。
縁側へ伸びる光も赤く染まっている。
自分で身支度をする静に、史郎が手を貸して、
「水を浴びなくてよいのですか?」
と尋ねる。
「…夕闇が近くなると暑さも格段におさまるゆえ、よかろう。それに、」
「それに?」
「今宵くらいは、そなたの匂いをこの体へ付けていても問題あるまい。」
低く答える主君の声に、史郎が赤面した。
「女になるとは、こういう事を言うのだな。」
新しい井戸水を口にしながら、主君がせいせいと言う。さっきまで自分の下で喘いでいた人とは到底同一人物とは思えぬ、ふてぶてしさである。
言われた史郎のほうが照れくさくなってしまうではないか。
「は、恥ずかしゅうございます。若殿。」
「なんじゃ、そうしたのはそなたではないか、史郎。」
こうなると、開き直った静の方が強かった。
「やめてくだされ。」
からかう主君に辟易しながらも、史郎は満ち足りた気分で帰途についた。
腕に残る静の肌の感触を思い出して目を閉じる。
切なげに瞼を硬く閉じて史郎の振る舞いにじっと耐えていた凛々しい顔が、いつしか、やわらかで甘い喘ぎを漏らす唇から徐々に艶めかしく緩んでいく。引き締まった端正な横顔が、愛らしい乙女のそれに変わり行く様は、史郎を歓喜させた。
…俺の腕の中で静様が変わる…女子になってゆく。
武芸に鍛えられた静の肢体は強くて柔らかく、自分の両腕に余りそうなほどの量感があったが、不思議にすっぽりと史郎の細腕におさまってしまった。
静は声を上げたり、自然に体が動いたりするたびに、
「ゆ、許せ、許せ…」
しきりに詫びていた。
取り乱す自分が恥ずかしかったのだろう。
そうと知りながら史郎が、
「許しませぬよ…」
と、らしくもない低い声で答える。
その、意地悪い答えを聞いて困ったように顔を伏せるのがかわいらしく、つい、史郎は言ってしまうのだ。
隠居所の玄関にたどり着くと、
「何を笑っておるのじゃ、史郎は?」
迎えに出た佳近が不審そうに尋ねる。それ程に史郎の顔は緩みきっていたらしい。史郎は自分の頬を慌てて叩いた。
この隠居所へ来る前、養子の椎野佳近は、静が隠居することを聞いた時、それに同行したいと願い出た。
「な、何と申す…」
呆れて口も聞けない父・兼房は側室のお縫を見た。何とか説得してくれ、と頼んでいるのだ。
過日亡くなった涼と違い、その実の兄は小柄でおとなしい。そして正室・お京が輿入れする前から糟糠の妻として付き添ってきたお縫を非常に大切にしていた。
お京はお縫よりも若く美しかったので、輿入れしてしばらくは夢中になった兼房も、この正室の気丈さと気位の高さに嫌気が差したのだ。
「こなたがお仕えしたいと申されても、静様は恐らくご承諾なさるまい。お諦めなされ。」
生母・お縫がのんびりと言う。お縫と佳近は、正室・お京に苛め抜かれる親子であったが、生来お縫はそうした事を気にせぬ大らかな性格で、まるで相手にしなかったため、近頃は正室もちょっかいを出さなくなっていた。
「静様にお仕えしたく存じまする。」
まだ元服も済ませぬ次男が、これから隠居する従兄弟に付き添いたいと言って聞かない。
「これ、そなた静様よりご養子のお申し出があったからと言って思い上がるでない。ご隠居なさるあの方にもはや養子の必要なかろう。」
「父上は養子のお話に乗り気でございました。」
それは、あくまで静が領主であればの話である。我が子が、ゆくゆくは家督を継ぐ跡取りとなる出世街道を邪魔する親はまずいない。
「こなた、この父と母の言うことが聞けぬのか?」
やんわりと叱責すると、佳近は気落ちして肩を落としてしまった。
時折思い出したように遊びに来ていた年上の従兄弟に、非常に懐いていたのは知っていたし、その従兄弟が、我が息子の何を気に入ったのかは知らぬが、大層可愛がってくれたことも知っている。
「佳近はとても大らかじゃ。少々のことでは動じない。母御に似ておるかの。そこがわしの気に入りなのじゃ。」
そんな事をお茶出しに現れたお縫へ、静が語っていた。
「ぼんやり者にて…」
恐縮するお縫に、静はにっこりと笑いかけた。
「ぼんやりではない。冷静なのじゃ。佳近はどのようなこともあるがままに受け止め、吸収するであろう。それがよい。わしの今一人の弟にしたいくらいじゃ。のう、佳近よ。」
そう言って頭をなでてやると、年下の従兄弟はふんわりと笑ってみせる。その笑顔は子供らしい愛らしさであったが、もしも静の誉め言葉の意味が分かっているとしたら、確かに変わっているのかも知れぬ。
そういうやり取りで、いつからかこの従兄弟同士は、心を通わせていたのだろう。
気の毒なほどがっかりした息子の姿に、先に奥方が参ってしまった。
「なれば静様にお頼みして駄目だと言われたら諦めなされ。私からお手紙を書いてみましょう」
十一歳の少年は、ぱっと顔をあげた。嬉しそうである。
「お縫、それは…」
困惑顔の兼房に、お縫は、
「今の静様は佳近殿のことなど念頭にないと思いまする。」
と安堵させる言葉を付け足した。
ところが、静は快く引き受けてきたものだ。
佳近は手放しで喜び、兼房とお縫も仕方なしと首を縦に振らざるを得なくなった。
隠居所が出来上がり引き移る静と共にここへ住み着いた佳近は、普段は実家にいた頃同様に勉学と武道を修めねばならない。
だがそれ以外はいつも静のそばにまとわりつこうと待ちかねて、今日も隠居所の玄関近くをうろうろしていたのだった。
帰って来た主の傍らに、 今しきりに頬を叩いて緩んだ顔を直している小者の史郎がいつものように付き添っていた。
女中のおしげが水の入ったたらいを持って、主の足を洗いに小走りにやってくる。
ようやく十一になる養子に、義父の静が苦笑しながら、
「昼間見かけた愛らしき乙女のことでも思い出しておるのだろう。」
と答える。
「はあ…」
佳近は判然としない、といった表情でしばらくその従者を見つめていたが、やがて何かを思い付いたように、
「静様、城から文がとどいておりまする。」
と取り次いだ。
「ほう、たれからじゃ?」
静の着替えの準備と夕食の支度をするために、台所へ去った史郎を見送ってから、佳近がこたえた。
「山背御前さまからです。」
「お才殿から?」
あまりに意外な人物の名前を出されて、静は手ぬぐいで足を拭う手が止まってしまった。
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