第26話 翼の痕

 学校では、職員室の隣にある小さな教室に、いつも二、三人の生徒が入れ替わりで来ていたよ。

 昼間に動き回るのはやっぱりきつくて、それに、知っている奴らと顔を合わせるのも嫌だったから、他の生徒が帰り始める頃に、やっと登校していたんだ。二時間か三時間、勉強らしいことをしていたけど、ちっとも偉くなった気がしなかった。

 学校なんか行かなくても中学校なら卒業させてくれる、ってばあちゃんは言っていたけど、それじゃあ勉強する意味がないんだ。だって、学校に行かなくても難しい本を読めるコバンくんと違って、オレは馬鹿だったから。

 チャチャの顔は何度も見た。あいつは、いつも笑って声を掛けてくれた。「おお」とか「よお」とか、ひと言だけ……。

 でもね、久しぶりに会ったチャチャは、何だろうなあ……暗い部屋にひとつだけある窓のようだったんだ。眩しくて……違う世界に住んでいるみたいなんだ。そのせいかもしれないけれど、中学の時は遠くから見るだけで終わっちゃったんだ。チャチャはいつも楽しそうで、羨ましかった。

 オレは頭が悪い上に朝も起きられないから、チャチャや他の奴らみたいに、高校へ進学することなんてちっとも考えていなかった。コバンくんのために働いて、お金を貯めたかったんだ。お金があれば、大体の問題は解決するでしょう?

 それで、中学を卒業してから、オレでもできそうな仕事をじいちゃんに紹介してもらったんだ。じいちゃんの知り合いがやっている洗濯屋だよ。

 洗濯っていってもね、普通の……シャツやパンツとか、そういう洗濯物じゃなくて、えっと……スパなんとか……っていうお風呂屋さんで貸してくれる簡単なパジャマのような上下があるでしょ。あれの洗濯だよ。工場には、あれが毎日トラックで届くんだ。

 そこでは、もう、どこの国の人だか判んなくなるくらい真っ黒に日焼けしたおじさんたちが、でっかい洗濯機を回しているんだよ。それから、出来上がった洗濯物を畳んで、大きなローラーのようなプレス機に通すのがオレの仕事さ。パートのおばちゃんたちのお喋りは面白いし、外国人のアルバイトも楽しそうに働いていて、みんな優しかった。

 不思議なことに、時間を忘れて働いているうちに、夜寝られるようになってきたんだよ。くたくたに疲れて、コバンくんの部屋に転がり込んで、朝まで一緒に眠るんだ。あのゴミだらけのボロ家で、コバンくんとオレ、それからコバンくんのお母さんの三人で、いつかお父さんが帰ってくると信じて暮らしていたんだ。

 コバンくんは毎日弁当を作ってくれた。オレの好きな梅干しとじゃこのおにぎりだよ。梅干しを細かく刻んで、ちりめんじゃこと和えたおにぎりの弁当を、職場に毎日持って行った。

 給料は安かったけど、ちょっとずつ貯金もできた。毎日同じ時間に起きて、毎日同じ仕事を繰り返す。でも、毎日違う話が聞けた。平坦に流れる毎日が、こんなに楽しいと思ったのは、生まれて初めてだった。

 お金を貯めるという目的があったからかもしれないけれど、それは、悪いことじゃないでしょう?

 水をひとくち飲んでもいいかな。喉が渇いてきたんだ。残り少ないペットボトルの底がきらきらと光っているよ。チャチャは買ってきてくれるだろうか。世界中で生まれた赤ちゃんが、こんな綺麗なモノばかり見ていられればいいのに……。

 ねえ、知ってる? 赤ちゃんは天使なんだよ。天国で悪戯をした天使が、修行のために人間界に降りて来たんだよ。コバンくんが教えてくれたんだ。

 笑ったな。そうさ、オレたちも天使なんだ。だから、君にもオレにも、翼の痕があるんだよ。君は修行が足りない。オレもね。神様から合格がもらえたら、きっと、その時に天国に行けるのさ。

 オレとコバンくんの天使は、オレたちが勝手に空へ追い返してしまったけれど……。きっと、そこで、幸せに暮らしていると思っていたけれど……。

 それなのに、あの子はまた悪戯をしちゃったみたい。だって、コバンくんのお腹に、戻ってきてしまったんだもの。嬉しかったよ。とても、とても、言葉では言い尽くせないほど。

 一年くらい前のことかなあ。コバンくんのお母さんが、知らないうちに家を出て行ってしまった頃のことだよ。

 コバンくんは痩せているから、お腹が目立つことはなかったけれど、触ると小玉西瓜のようにぽっこり丸くて、時々ぐりぐりと動くんだ。お腹の赤ちゃんは、周りの事情なんか関係なく大きくなる。こんな時、男が何をすればいいのか考えて、考えて、取り敢えず、小さい子の質問に答えられるくらいにはなりたいと思ったんだよ。

 少しでも賢くなりたいと思ったけれど、勉強らしいことをしたのが中学校の僅かな時間しか無くて、ずいぶんと焦った。中学校の正門前でうろうろしていたら、知っている先生が勉強を教えてくれるんじゃないかと思いついて、何度も行ったり来たりした。

 ついに出会ったのは、昔の担任教師だったよ。英語のおばちゃん先生で、オレのことをよく憶えていてくれた。そのまま体育館について行ったら、合唱部の活動が終わるまで待たされた。先生は〝あの歌〟を指導していたよ。さっき、チャチャが歌っていた〝あの歌〟を……。

 よく解らないつまんない歌だと思いながら、指導が終わるのを待っていたら、驚いたことにチャチャが現れたんだ。こんなところで会えるとは思わなかった。「大人です」って言うような態度で、どすどす体育館に入って来たチャチャは、ボランティアで中学生に勉強を教えていたんだ。

 これは、オレにとっては、とても運のいい出来事だったよ。だってチャチャは、昔から勉強のできる奴だったから。そして、オレの大事な友達だったから。

 チャチャの教え方が上手かったのか、勉強が解り始めると楽しくて、もっとたくさんのことを知りたいと思うようになった。チャチャに教えてほしくて、いつも体育館で待ち合わせたよ。合唱部の歌は、何度聴いても、何を歌っているのか理解できなかったのに、チャチャは、なぜか、くちずさむようになったよ。下手だけどね。

 そのうちに、学校以外でも遊ぶようになったよ。なんていうこともない近所の神社や公園で、コバンくんとチャチャと一緒に、ぼんやり月を眺めたりね。いつも夜だったけれど……。


  

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