第24話 「好き」

 初めてコバンくんの家に行った日から、毎日一緒に下校したんだ。先生の悪口とか、じいちゃんの悪口とか、友達の悪口とか……あれ、悪口ばっかりだ……そんなこと喋りながらね。喋るのはオレばかりで、コバンくんは聞いているだけなのに、少しは笑ってくれるようになったんだよ。

 毎日会いに行ったよ。雨が降っても雪が降っても。

 何をして遊ぶ? ふん、何も。これといって何も。ただ、同じ部屋に居る。それだけ……ああ、ふたりで宿題をやっていたかな。コバンくんはとても真面目で、毎日出される宿題も、きちんとやるんだ。頭が良くて、さっさとやり終えてしまう。オレはそのノートを写すだけだけどさ。

 そうだ……夏休みに出された図工の宿題。ふたりで〝クック〟の絵を描いたっけ。〝クック〟っていうのは、コバンくんちの黒猫の名前だよ。黄色い眼をしたね。足の先だけが白いから、靴を履いているみたいだろう。コバンくんが赤ちゃんの頃、靴のことを「クック」と言っていたからだって。

 コバンくんはお母さんとふたりで暮らしていたんだよ。いつ遊びに行ってもコバンくんはひとりだったけど、学校が休みの日に朝から訪ねていくと、お母さんが寝ていることもあったよ。そういう時は、お母さんを起こさないように、静かにおとなしく遊ぶんだ。

 きっとコバンくんは、お母さんが自分のために働いていることをよく知っていたのだと思うよ。だから、ご飯を食べなければ、お母さんの役に立つと思っていたんじゃないかな。

 ねえ、君。もっと聞きたい? 教えてあげようか、オレたちの秘密。君はオレを助けてくれた恩人だからね。それはね、とても大切なことなんだ。よく憶えているよ。コバンくんがオレに言った、最初の言葉さ。

 小学校の卒業式で、オレたち全員が決意表明をしなくちゃいけなくなった時のことから話そうか。将来、どんな人間になりたいのかをひとりずつ檀上で発表するんだ。なりたい職業や夢を発表するんだ。

 全員が大勢の前で喋らなければいけないのに、コバンくんはどれだけ練習しても、原稿用紙に書いたその一言がまるっきり言えないんだ。やっと少し笑えるようになった子に、そんな大変なことができるわけないじゃない。

 ただ、何度も練習しているうちに、オレは自分が何を言ったのかも憶えていないくせに、コバンくんの決意表明だけは憶えてしまったけどね。「私は、優しい大人になります」って……。

 結局、コバンくんは卒業式を欠席してしまった。「小畠リサ」と名前を呼ばれても、誰も返事をしないんだ。それなのに、何事も無かったかのように、すぐ次の子供の名前が呼ばれたのさ。合唱や呼び掛けも、たくさん練習したわりには呆気なく終わってしまったから、卒業式のことなんてすぐに忘れちゃったよ。コバンくんが言うはずだった言葉以外は……。

 卒業式の後、コバンくんは中学校に行く気が全然無かったみたいで、制服の採寸すらしていなかった。オレはオレで、妙なモノが見えたり聞こえたりしない薬を飲んでいるうちに、朝起きることが出来なくなってしまった。

 起きられないんだ、どうしても。朝陽が眩しすぎて、額の奥が重くなる。体がだるくて思うように動けない。完全に昼と夜が逆転してしまい、学校には行けなかった。だから、こうもりみたいに、夕方になって起き出して、コバンくんちに行くんだよ。

 春はさあ、夜になると、まだ寒いんだ。しとしと降っていた雨がざあざあ降りになって、強い風が吹いて、窓がガタガタと鳴って……。そう、嵐だ、春の嵐の夜だ。

 風が強すぎて、ベランダに置いたグレープフルーツの樹が、鉢ごと飛ばされてしまうんじゃないか心配だった。雷も鳴って停電もした。だけど、コバンくんは、こんな夜でもひとりで留守番をしていた。

 真っ暗なコバンくんの部屋は、顔の前にかざした自分の手さえも見えなくて、オレは……自分が闇に融けてしまったんじゃないかと思っていた。コバンくんは名前を呼んでも返事をしてくれないし……。

 コバンくんが消えたのか、それともオレが消えてしまったのかが判らないから、自分で自分の体を触って確かめてもみた。だけど、体の温かさも気のせいなんじゃないかと思ったり、オレは現実には存在していないんじゃないかと思ったり。それでも、ようやく稲光で窓が光って、コバンくんの姿が薄っすらと確認できた時には、なんとかオレは自分がそこに居ることを知ったんだ。

 でも、遠い。とても狭い部屋で、真向いに座っているのに、コバンくんがとても遠かった。こんなに近くに居るのに、どうしてこんなに遠いのか。だから訊いたんだ。訊いたんだよ。

「オレのこと好き?」って。

 真っ暗だから何も見えなかったけれど、コバンくんは声の出し方を思い出すように言ってくれたよ。小さな声で……

「好き」って。

 初めて聞いた言葉には、嬉しいというより安心した。安心して隣にぴったり寄り添ったら、体温が服の上から伝わってきた。迷いながら手を繋いだら、細くて冷たい指の感触にどきどきした。ふたりで居るんだなって……。暗い宇宙にふたりきりだったけれど、もう、怖くはなかった。

 コバンくんから初めて聞いた言葉は、こうもりのようなオレが洞窟の隅に隠した宝石なんだ。

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