第17話 キス

 広間に放られた子供が理由も無く走り回るように、レオは会堂を一周すると、再び窓際で足を止めた。そして、オルガンの蓋を閉じプラグを抜く僕に振り向き、窓の外を指差しながらくちびるを動かす。よく聞こえなくて、僕はさり気なく窓際に佇む後ろ姿に近づいた。

「ねえ、いっぱいいるよ。何の鳥? あれはメジロだろ?」

 レオが首を傾げて見上げる先に、鳥の歌が聴こえた。

「メジロですね。夫婦かな」

「あっちの白黒の奴は?」

「コガラ」

「あ、また違うのが一羽、来たよ」

「あれは……ジョウビタキじゃないかな」

「よく知ってるんだね。雀の群れかと思ったのに、雀だけじゃなかった」

 鳥たちは、雪解けの水たまりで水浴びをしては、ツツジの根元をついばんでいた。

「虫でもいるのかな? 冬は餌が少ないでしょう。だから、他の鳥の群れに混じっていた方が、餌にありつける確率が高くなるんですよ」

「ふうん……」

 どこにでもいる鳥だ。珍しい生き物ではないのに、レオは、ぶらんこを遊び場にしている鳥たちをいつまでも眺めていた。閉まり切っていない手洗い場の引き戸から、勢いよく流れる水の音がしている。

「……あの……あの人は、友達……ですか?」

「チャチャ? チャチャは親友だよ」

 手洗い場を指差して問いかけると、レオは鳥の群れから視線を外さずに言った。

「今、友達と呼べるのはあいつくらいかな……オレ、駄目なんだ。すぐにケンカをしちゃうから友達ができなくて……」

「そんなふうには見えませんよ」

「チャチャがいたからだよ。あいつはケンカを止めるのが上手いから」

 レオは窓の外に顔を向けたまま、その場に腰を下ろして膝を抱えた。

「小学校の入学式で初めて会ったんだよ」

「……そうですか」

 僕はレオの隣にしゃがみ込み、同じように膝を抱えた。長い沈黙が流れ、レオの横顔をちらちらと覗いては、彼の関心がどこに向いているのかを探ろうとしていると、

「あのさあ、お父さんやお母さんに、キスしてもらったことある?」

 眼で鳥を追いながら言った。

「え?」

 首を傾げる僕に少しだけ頭を寄せ、「ねえ、ある?」とうつむいた姿は、まるで幼児のようだった。


 僕は頭の中で白く点滅する、動画の再生ボタンを押してみた。

 そこには、僕が産まれるずっと昔の映画のように、劣化して傷付いた画面が映し出されていた。産まれたての妹の、ふわふわしたマシュマロみたいなほっぺたに、キスをしている僕が映っている。僕が左のほっぺにキスすると、右のほっぺに母さんがキスをした。

 場面が移り変わった。

 袴を穿いた僕が、千歳飴の袋を引きずりながら、緋い絨毯の上を走り回っている。戦国武将の鎧を身に着け、戦隊ヒーローにでもなったつもりなのか、大真面目な顔をしてポーズを決めている。画面の端からよちよち歩きの妹が僕に抱きついてくるのを、桃色の着物を着た母さんは笑って抱きかかえた。

 また画面が変わる。

 あれは誰だろう? うつ伏せになり蛙のように足をバタつかせる、あの赤ん坊は? 大きな手で背中を撫でられ、お尻をぽんぽんと優しくたたかれる。

 小さな頃の出来事など憶えてやしないのに、この映像は何だろう。

 ああそうだ。誰も居ない夜中のリビングで、父さんが缶ビール片手にこっそりと観ていたのを思い出した。

 幼稚園のお遊戯会でサンタクロースの恰好をして踊っていたのも、小学校の運動会で転びながら玉入れをしていたのも、僕は自分の記憶ではなく、あの映像で憶えていたのだ。そこに決して映り込むことはなかったのに、あれは……父さんの笑い声……カメラを回していたのは、父さんだった。


「小さい頃は……たぶん……」

「やっぱり? そうだよね」

「……どうして、そんなこと……」

「だって……ほら、鳥。鳥が雛に餌をやるのって、キスしてるみたいだよ」

 レオの視線の先には、小刻みに羽を震わせる雛鳥に、餌を与える親鳥がいた。まだ春は遠いと思っていたのに、いつの間に彼女たちは抱卵していたのだろう。

「雀って、巣立ちしても、しばらくの間は親が餌を与えるらしいですよ」

 僕が言うと、レオはにっと笑いながらこちらを向いたけれど、眼だけがどこか他所を眺めていた。

「へえ、そうなんだね。オレが保育所に通っていた時にはね、みいんなキスしていたんだよ。小さな赤ちゃんなんかも……別れ際にキスしてるの。若いお父さんやお母さんと……。オレはさあ、じいちゃんが車で送ってくれていたんだけど、自分の親が年寄りだと思われんじゃないかと思って……それが嫌で、いつも保育所の手前で車を降りていたんだよ」

 チャチャはレオのことを友達ではないと言ったけれど、若いライオンを操る梟が、保護者のように接しているのだろうかと、僕は手洗い場に向かって首を伸ばした。手洗い場の引き戸は、拳が入るくらいの透き間が開いていた。眼を細めて凝視すると、チャチャの眼がこちらを窺っているのが判った。僕の背筋にぴりぴりと電流が走る。

「オレにキスしてくれるのはコバンくんだけだよ」

「か……彼女ですよね」

「うん、いつか結婚するんだ」

 レオは幼児が夢を見るように言うので、僕にはその単純な希望が、絵空事に過ぎないほど困難なのではないかと思えた。


 

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