第2話 天使か悪魔か

 恐ろしい物を眼にしてしまった時のことを想定して、拍動が体のあらゆるところから響いてくる。

 僕は、固唾を呑んで徐に幕をめくった。


「見つかった───」


 暗い穴から湧き出る声に、脈が速度を上げる。

「……歌なんか歌うから……見つかっちゃうんだよ……」

 喉の奥からざらざらと漏れる声に、舞台袖に潜んでいたのは、ひとりではないことを知った。

「歌ってくれって言ったのはレオじゃないか。すみません勝手に入って……彼、具合が悪くて……。しばらく休ませてもらえませんか? よくなったら、すぐに出て行きますから」

 ヒキガエルが鳴くような床の軋む音が、僕の眼の前で止まると、少しだけめくられた臙脂色えんじいろの布が勢いよく開かれた。

「……だから、いいかな?」

 僕がまだ子供だと気づいた足音の主は、片方の口角を上げて言った。

「あ……はい……ええ……」

 獲物を見つけた猛禽類の眼をした若い男だった。彼は、戸惑い立ち尽くす僕を見下げながら、人差し指を肩越しに突き出した。

「それ、電気で動くの?」

「え?」

「それ、その楽器」

「あ、はい……」

「……なんだ……電気、使えたんだ……試してみればよかった。……ストーブ点ければよかったな……」

 男は、大変な失敗でもしたように、大きく溜め息をついた。

「……クリスマス……みたいだったね……」

 男の背後から聞こえる細い声をたどる。眼を凝らして、薄暗い舞台袖の奥を見つめる。スポーツバッグを枕にして、薄いダウンケットに体を潜り込ませ、胎児のように丸まっている人の姿が、ぼわっ、と浮かんで見えた。

「ああ、そうだね。クリスマスの音楽みたいだった」

 その声に、男は少しだけ笑顔を見せたけれど、

「……ねえ、君、ここって教会なの?」

 その眼だけは、警戒しながら僕を睨んでいる。

「い、いえ、保育園です。もう、ずっと前に、閉園してしまいましたが……。この建物は、集会所というか大広間というか……会堂とは呼んでいますけど……小さい子がお遊戯をしたり、運動会をしたり……その、教会じゃなくて……」

 射竦められた僕は、ここが教会でないということを必要以上に説明していた。

「そうか。昨日は、すっかり暗くなってしまったから、崖下から見たこの塔が……赤いとんがり屋根が、教会みたいに見えたんだ。でも、朝になって外を見たら、ぶらんこと滑り台があって……ほら、教会が経営している保育園あるでしょ、あれかな、って思ったんだよ」 

 男がそこまで言うと、

「……チャチャ……」

 舞台袖から声が漏れた。

「……そういうことなんで、こいつの熱が下がったら、出て行くから」

 僕は男の背後を覗き込む。

「その人、熱があるんですか?」

「うん、昨日、海沿いで温泉を見つけたんで、つい……。寒いからいいや、と思って二日ほどシャワーも浴びてなかったから。そうしたら、湯冷めでもしたみたいで、こいつ……」

「……チャチャ」 

「うん……」

 〝チャチャ〟と呼ばれた男は、横たわる胎児の傍に行き腰を下ろした。

 妙に尖った見かけとは違い、ずいぶんと可愛らしい呼び名だと思ったけれど、僕の知り合いにも同じようなのがいたな。あいつは〝サトシ〟という名前だった。小さな頃から〝チャッチャン〟と呼ばれていたっけ。呼び名からは想像ができないくらい太っていた彼は、確か、自分の名前を正しく発音できなくて、そう 呼ばれるようになったのだ。だから、チャチャの本名も、きっと〝サトシ〟や〝サトル〟なんだろう。

 胎児はコガネムシの幼虫のように、丸まった体を更に小さくして、チャチャの腰に擦り寄った。チャチャは添い寝するように足を伸ばす。

「まだ、寒い?」

 ダウンケットの上から体を撫でる。チャチャは、こんなふうに一晩中、彼の体を温めていたのだろうか。

「薬……持ってきましょうか?」

 できれば、とっとと出て行ってほしかった。けれども、いくら天使でなくとも、この状況で外に放り出すほど、僕は悪魔でもない。

「ああ、ありがとう。薬は飲んだんだよ。昨夜、駅前のドラッグストアーで、水と解熱剤を買ってきて。それと、賞味期限ぎりぎりのジャムパンと……。ああいう薬って、一日二回までとか、六時間あけろとか、食後とか、面倒なんだよな……さっさと熱さえ下げてくれりゃあいいと思ってんだけど……」

「あ、あの……だったら……」

 確かめたかった。

「だったら、窓際に……窓際に来ませんか? ここ、寒いでしょう?」

 僕は確かめたかったのだ。僕が召喚したのは、天使なのか、悪魔なのかを……。

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