28.あの子さえいなければ

 桜並木の続く川辺は薄紅で染まっていた。私はそこを、一人制服のまま自転車で走る。澄んだ風が優しく頬をなぞる。紺色のスカートがはためいた。


「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」


 古今和歌集にでてくる和歌だ。作者は在原業平。「桜がなければ春の心は穏やかなのになぁ」という意味なのだという。

 

 昔はその歌の意味はよくわからなかった。でも、今ならば業平の気持ちが少しわかる。



 もし桜がなければ、私の心はこんなにも揺り動かされることはなかったのだろう。

 もし桜に出会わなければ、私の心がこんなにも傷ついたりすることはなかっただろうに。



 桜と私が出会ったのは、高校一年の春だった。


 私の通っていた高校は私立大学の付属高校で、お金持ちのお嬢さまが通う名門女子高だ。

 殆どの子が幼稚園や小学校からエスカレーター式に進学してきており、私のように高校から受験して入ってくる子は珍しい。

 クラス内ではすでにもう仲良しグループは決まっていて、私に話しかけてくるような子はまれだった。そんな中、桜は私に颯爽と話しかけてきた。


「このマフラー、可愛いね! どこで買ったの?」


 桜の長い艶やかな黒髪が揺れる。白い透き通った肌に切れ長の目。すらりとした長身。私はなんだかドギマギしてしまって目をそらした。


「あ、これは自分で編んで」


 やっとのことでそう吐き出すと、周りから小さな笑いが起こった。


「えー? 自分で編むの?」

「貧乏くさい!」

「そもそももう春なのにマフラー?」


 お嬢様学校の子たちはマフラーは高級ブランドが当たり前だし、車で送り迎えをしてもらって寒くないから春にマフラーなんかしないんだと私はこの時初めて知った。

 

 服装も、鞄も、何もかもがみすぼらしい。私は自分の場違いさにその場から消え去りたくなった。


「えっ! 自分でマフラーが編めるんだ、すごいね」


 そんな中、桜は心底感心したように言った。


「もしかして、この鞄についてるチャームも?」


 桜が手を伸ばしたのは、鞄についている「不思議の国のアリス」をモチーフにしたレジン――樹脂でできた透明なアクセサリーだった。


「あ、うん。私、レジンでアクセサリーとか作るの好きで」


 私が消え入りそうな声で答えると、桜は切れ長の目を綻ばせて笑った。


「すごいね、こんなきれいなものも作れちゃうだなんて」


 桜は普段は美人で大人っぽいけど、笑うと頬っぺたがぷっくりとなって少し幼くなる。そんな思いがけない可愛いさに、私は思わず見とれてしまう。


「宮原陽菜はるなちゃん――陽菜はるなって呼んでいい?」


 思えば一目ぼれ、だったのかもしれない。女の子が女の子に恋をするなんておかしいのかもしれないけど。


 そして私と桜は友達になった。

 

 一緒に買い物に行ったり、映画を見に行ったり、本を買ったり。

 私のお小遣い事情に配慮してか、高い店に連れていかれることは殆ど無かった


「お金がなくてもお洒落はできるよ!」


 そんな風に言って、桜は笑った。


 実際彼女は何を着ても似合っていた。ニット帽にだぼだぼのパーカーを着た桜はその華奢な体がかえって強調されて愛らしかったし、シンプルなブラウスを着れば匂うような清楚さに、私はくらくらした。レトロな柄のワンピースを着た彼女は、まるで60年代の映画スターみたいだった。


 いつも手入れをされていて、まるで私の髪とは違う物質でできてるんじゃないかってくらい美しく長い髪。なめらかで白い肌、横を向いた時の顎から耳にかけての形の良い造形。すっと高い鼻。


 私は心底桜が好きで、あこがれてて、桜みたいになりたかった。

 同じような服を着て、同じような小物を持ちたかった。

 でも桜はみんなの人気者で、クラスには私みたいに思っている子が沢山いた。なので、同じような服を着るのはやめた。その他大勢と同じにされたくはなかった。


「その服、似合うね」


「そ、そうかなー」


 桜が私の服をほめる。それが嬉しくて、私は自分に似合う服がどんなのか、研究した。他の人の真似をした服より、桜は私が自分のセンスで買ってきた服を褒める。それがどんなに安物であろうと。


「でも、これ安物だよ?」 


「私の持ち物だってさ、ブランド品は殆どないよ。たまたま気に入って買ったらブランドだったっていうのはあるけど」


「そうなんだ」


 私は桜をまじまじと見た。桜はすらりと瘦せていて背が高いから、何を着ても高く見える。だからブランドものばかりだと思っていたけど、確かにいつも行く服屋は古着屋とか、安い福屋ばかりだ。

 私に合わせてくれてるのかなって思ってたけど、違った。それは彼女のポリシーのようなものらしい。


「私が欲しいのは、自分が本当にいいって思ったもの。心の中がキラキラする何かが、欲しいんだ」


 そんな彼女の強さが、凛とした美しさが、私はたまらなく好きだった。



 


「ねえ陽菜、今は何のアクセサリーを作ってるの?」


 校庭の芝生の上で寝転がりながら桜は言う。季節は巡り、私たちは三年生になっていた。


「白雪姫とか、シンデレラとか」


「好きだねえ、童話」


 あはは、と桜は笑う。


「たしか初めて見たのもアリスのアクセサリーだった」


 桜が私との出会いを覚えていてくれていた。そのことだけで、心臓が飛び上がるほど嬉しかったが、そんな恥ずかしいことは言えないので、私はそっけない口調で言った。


「特別童話にこだわってるわけじゃないけど……モチーフが分かりやすいから」


 私は新作の「白雪姫」のチャームを見せた。黄色と青の煌めきの中にリンゴの赤が浮いている。


「モチーフが欲しいの?」


 私は頷いた。


「ならさ、和歌とかどうかな」


「和歌?」


 全く想像していなかったその単語に、変な声が出る。


「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」


 桜は空を見上げた。


「桜がなければ春の心は穏やかなのになぁ、っていう意味だよ」


「……すごいや桜、詳しいんだね」


 桜は優等生で、成績は学年でいつも五位以内に入ってる。父親は大手商社の社長で、母親は茶道の先生。

 きっと家でも和歌をたしなんだり、着物の着付けをしたり琴をひいたり、貝合わせをしたり……百人一首なんか全部暗記してるんだろうな。私なんかいつも古典は赤点なのに。


「......ねぇ、どうして私なんかと友達でいてくれるの?」


「だって......陽菜はさほかの人と何か違うから」


 違う、ねえ。まあ確かに、私は庶民だしこの学校では珍しいのかもしれない。

 桜は遠い目をした。


 桜の目を見ると、午後の日差しを浴び、その虹彩は琥珀のように輝いていた。

 そのうっとりするような光を見ているうちに、私はなんだかイメージが湧いてきた。


「……うん。作ってみるよ。桜の和歌のレジンアクセサリー」


「本当⁉」


「うん、できたら桜にあげる」


 桜はとびきりの笑顔で笑った。



 でも私は、結局桜にそれをあげることはできなかったのだ。

 それは、卒業を間近に控えた冬の日のことであった。

 

「私ね、高校を卒業したら結婚するんだ」


 桜が突然そんなことを言い出したのだ。


「えっ、誰と」


 私は頭が真っ白になった。


「古典の山村先生」


「大学は……」


「大学に通いながら主婦もする」


 古典の山村先生……私はひょろひょろと痩せた眼鏡姿の先生の姿を思い出した。

 桜が和歌に詳しかったのは、そういうことだったんだ。


 目の前が真っ暗になった。私たちは女同士だし、大事な友達。結ばれることはないことは分かっていた。桜がいつか結婚しちゃうんだということも、分かっていたはずだった。でもそれは、もっとずっと先で、こんなにすぐに訪れるだなんて思ってもみなかった。

 

 私は必至で言葉を探した。


「でも……先生っていくつだっけ?」


「36歳」


「おじさんじゃない! 何それ? 20歳も年上? ロリコンじゃない! なんで? 考え直した方がいいよ! 桜ならもっといい人見つかるよ。お金持ちで、イケメンで、家柄もいい……」


 そこまで言って私はハッと口をつぐんだ。軽蔑したような、冷たい桜の瞳。


「なんでそういうこと言うの」


 その凍てついた真冬の海みたいな瞳に、私は自分のしでかしたことの大きさを知った。


「……陽菜は、そういうこと、言わない子だと思ってたのに」


 悲しげな顔で、桜は去っていく。


 違う。


 ただ単に、私は悔しかったんだ。


 私は桜が好きだった。


 他の人には取られたくなかった。


 ただそれだけで、桜のことを傷つけようと思ったわけじゃない。

 でも、駄目だった。私は桜を裏切ったんだ。

 桜が大切にしていたものを、私は踏みにじったんだ。

 


 それから私たちは、なんとなく疎遠になった。


 ひとりでぽつんと卒業式を終えると、古典の山村先生が私を呼んだ。


「なんですか」


 不貞腐れたまま渋々先生の元へ行くと、先生は人の良さそうな笑顔でくしゃりと笑った。


「大学、無事受かって良かった。模試でもどんどん成績上げてたもんな。これからも頑張って」


 その優しい声に、私は思い出した。


 優しいけれど簡潔な先生の語り口調、少し丸文字の可愛い赤ペンの字で何度も文法についてアドバイスしてくれたこと。古典が苦手な私におすすめの参考書を教えてくれたこと。


 若くもイケメンでもないけど、きっと桜はそういうところが好きだったのだろう。


 先生が去った教室。

 手元には渡せなかった桜の和歌のレジンチャームがひとつ。


 流れる河の青と、琥珀色の煌めき。その中に、ひとひらの桜が浮いている。そのキラキラした輝きを見ているうちに、私はいてもたってもいられなくなった。


 口で言うのは恥ずかしいから、今の私の気持ちを手紙でしたためる。


 そして私は桜の姿を、学校中を探し回った。


 でも、どこにも桜はいない。

 家に帰ったのだろうか?


 学校の近くを探し回ったけれど、やはりどこにもいない。

 

 私は、自転車に飛び乗った。


 薄紅に染まった道を、一人、自転車で走っていく。


 桜の家は、桜並木の美しい川べりにある。

 その大きな日本家屋の古びたポストに、私は自分の思いをつづった手紙と、出来上がったレジンチャームを入れた封筒をそっと置いた。


 ガタン、と物音がした。


 顔を上げると、丁度玄関が開いたところだった。桜が驚いた顔でこちらを見ている。

 私は慌てて自転車を漕ぎだした。


 振り返ると、桜は私の書いた手紙を読んでいる。



 呆れただろうな。



 女の子が、女の子を好きだなんて。



 顔から火が出そうだ。なんであんなこと書いたんだろう。今度こそ、本当に嫌われたに違いない。


 だけど背後から聞こえてきたのは、こんな叫び声だった。


「ありがとうーー!!」


 目から涙があふれ出す。

 私はそれを悟られぬよう、背中越しに思い切り手を振った。


 川べりには穏やかな春の風が吹き渡る。

 桜の花がゆっくりと散って、緩やかな流れとともに過ぎ行く。その甘い痛みを抱きしめると、ほのかな春の香りがした。



「世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」


 桜がいなければ、私はこんなに辛い思いをせずに済んだのに。


 でも、桜がいなければ、春の桜も、夏の海も、秋の紅葉も、きっとあんなに色鮮やかには見えなかっただろう。



 ありがとう。


 

 出会えて、よかった。

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