心音、打ち鳴りて(近況と停滞)

 皆から尊敬される小説家の某氏は物語を作るときに、いつも天候の話から書き始めた。僕は心の底ではそんな某氏のことをあざ笑っていたが、実際笑われていたのは僕だった。いやきっと彼は僕のことなど知らないけれども、知れば僕こそ笑われるべき存在だった。なぜなら、僕は不惑を越えて未だ何者ですらないのだから。

 けれど、笑いものである僕にもなりたい職業があって、それは単純に言えば彼のような小説家だった。けれど、それは宝くじに当たってその賞金で暮らします、程度の意味合いしか持っていなかった。なにしろ僕は何一つまともな作品を書き上げてないのだから。

 何も書き上げられず、机でも座るでもなく、本でも読むでもなく、何かを批評することもなく。僕は日々をのんべんだらりと過ごしていた。けれどもさすがにそうも言ってられなくなった。単純な話をすればお金のことである。僕は独身で孤独だったから、大してお金は使わなかったが、それでもさすがにいつかは底が見えるものだ。僕が元気で働いていた頃に稼いだお金は底をつきようとしていた。

 そう、僕にも元気なときはあった。愚痴一つ言わずバリバリ働く、立派な社会の歯車だった。そうありたいと思うから、そうなっていた。けれど壊れた後になってそんな都合の良い存在などこの世には無いのだと知った。

 僕の都合の良い目論見は失敗し、自分自身が壊れた回らない歯車となった後も、困ったことに人生は続くことも知った。それは他人にとっては不快なことだろうけれども、僕にとってもそんなに嬉しいことでもなかった。かといって自分で自分を殺すようなことをして社会のためになる、なんて聖人のような善意は全然持ち合わせていなかった。せめて死ぬまではこの世界をぼんやりと見ていたいし、それまでは這ってでも生きるつもりだった。叶うなら、何かの世界の役にも立てればいいなと思った。けれどそれは今のところ叶わず僕は地べたで天を睨むドジョウの様に日々を暮らしている。

 今日もまた会社から不採用の通知が届いた。儀礼的になされた会社の祈りは僕を地の底まで突き落とした。僕は祈りなんて信じない。彼等の祈りが通じていれば今頃僕はさぞかし幸せな人生を歩んいるはずだ。

 憤怒は飲酒となる。体だけではなく、心に酒を入れると少し落ち着いた。自分自身の棚卸しをする。僕は心も駄目だが、体も障害がある。かといて障害年金を貰うほどではないが。中途半端な立ち位置に自分はいる。こんな自分を雇う会社なんてあるか。自分ならどうだ? 自分だってごめんだ。思考が不愉快だった。酒を心にさらに入れる。はぁ。おいしい。心でおいしい。そして何も考えられなくなり、一日も終わる。

 気分の良い日の僕は職を探している。呻くように求人票を漁り、近場の職を探す。遠く通勤することは精神に負担だった。えり好みしているつもりはないが、できないものはできないし、無理をしても長続きしないことは自分がよくわかっていた。そうするといつもの顔なじみの求人票。目に飛び込んでくるのはそんなものばかり。それは一度、時には何度も落とされた職場であり、決して人を雇わないただ形だけの求人で構成されていて、見るたびに僕をげんなりさせるものばかり。ああ、そんなのばかりだ。……そんなのばかりだ! 僕は嘆きと共に憤り、ハローワークを後にする。

 帰り道思い知る。僕は最早何者にもなれない。職業にも就けない。人のふりだってしているのが面倒になってしまった。狂ってしまおうか。いっそ、狂ってしまおうか。けれどもどうしても最後の一線が飛び越えられない。僕はきっと正気である自分に酔いしれているのだろう。そしてそれは狂っていることとさほど変わらないことの様な気もする。

 思考を巡らし家に帰る頃には何もかも嫌になってしまった。今日も安酒に溺れる。酒精と共に吐き出した毒は、自分を苦しめている。清浄な空気が僕には必要だった。深く深く息の吸える、清浄な空気。そしてそれを心から楽しめる健康な体。そんな夢みたいなものを僕は現実で求めていた。

 ここで夢のような出来事でも現実に起きてくれればこの物語も回転し、僕も救われたりあるいは破滅したりしてしまうのだが、あいにくそんなことは起こりえようはずもなく。ただ今日も無難で平和な一日が終わる。

 目を閉じて自分で自分の棚卸しをする。自分に普通の人間のふりをするのは無理があることを僕は思い知っていた。だから求人は障害者枠で探しているけど、いまだ見つからない。お金はもうすぐ底をつく。手探りの中、靄だけが見えている。せめて夢ぐらい見たって良いじゃないか。悪夢しか最近見ないけれど。酒を入れ、夢を見る。小説も書き散らす。た、たまには絵を描いてみたりもする。どれも完成などしない。何一つうまくいかない。うまくいくまでやる根気がないのだ。終わらない。終わらない。こうしてこの物語も終わらない。ただ、だらりとした空虚な人生だけが続いていく。

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