クロウ(カラスと死体)

 まだ夏の虫の目覚めには早い清廉たる五月の夕べ。絢爛たる夕焼けの赤と夜の青、太陽そのものの黄色が混じり合う西の空の、まだ白い雲が残っている所あたり。そこをかしましくも通り過ぎてゆく軍用機の灰色の翼の人工的な美しさ、灯り、点滅し始めるビル群の赤い警告灯、それを映している死体の淀んだ目は、カッと見開いている。自ら死を選んだその死体は、ロープだけをそのたるんだ肉体の友とし、伸びきった陰茎が風に揺られ、不随意に口から溢れる涎がその上を走ってゆく。ビルの壁に飾られたオブジェのような死体はやがて闇に溶け込み、朝が来るまで野ざらしにされ、早朝、死体の肩に舞い降りたカラスが見開いた目をつつき、眼球が固まった玉子の白身のように、あるいは紙の上に出した精子のように眼窩から溢れ、数条の糸を引き、また風に揺れる。カラスは後から後からやってきて、死体が発見させるところには、それは頭をカラスに覆われた不快な物体として人びとの目に入った。


「はやく降ろせ!」「いいや、引き上げろ!」


 人びとは口々にバラバラな意見を言い、スマホのカメラで肩から上がカラスまみれの奇妙な死体を写し始める。しかし一部始終を覗える暇な人間は少なく、みな学校や会社などの気が滅入る重力に引かれてその場を去ってゆき、新しい人間がそれを埋めあわすように一群に加わる。そんな役目から解放されているカラスは際限なく集まりかぁかぁと不吉に鳴き、俺達こそ一部始終を見物する権利があると主張する。

 死体が吊されている窓から人の顔が覗く。早くも立ち昇り始めた腐敗臭と排泄物の臭いに顔をしかめた管理人は死体をゆっくり引き上げヘマをした。ロープがほどけたのだ。死体はカラスを連れて落下する。死体に止まっていたカラスは死体が落下している最中に慌ててみんなへっぴり腰で飛び立った。後には黒い羽根を回りに飛び散らせながら、ぐしゃりと潰れた死体がビルの真下に転がった。死体の顔はカラスにつつかれ穴だらけで肉が見えた。真っ赤な肉だった。それでも上を向いた顔のかつて瞳だった白く淀んだ肉は五月の空の雲の運行を鈍く映していて、落ちた拍子に開いた両手はそれを目の中へ迎え入れるようだった。人びとはそれにつられ空を見た。真っ黒い雲がせり出し始め梅雨が近いことを感じさせた。


「この人なんで死んだんだろうな」「五月病じゃない?」


 人びとは口々に勝手なことを言い、それが事実だったかも知れず、そんなことはどうでも良かったのかも知れず、ただそこには足の砕けた死体が転がっていて、そのもはや瞳と言えない白の肉はただ空の色を映している。

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