或る終焉(男と時計)

 チーック、タックと秒針を不規則に刻み町の中央にあるおんぼろ時計はいまにも止まろうとしていた。俺は体に入った安酒のせいで頭をベンチに突っ伏し、大いに汗をかきながらそれをじっと見つめている。他にベンチ上には読みかけの岩波のトオマス・マン短編集が投げ出してあり、何遍も読み返していてぼろくなったそれは閉じていてもわずかにページの端が膨らんでしまっていていて、おまけに飲み物や手垢でしみだらけ汚れだらけの代物で、それでいても売るに売れない俺の最後のお宝だった。

 なにからなにまでひどい有様だった。朝から金もないのに安酒を痛飲し、心の走るままにひたすらに痛飲したのだ。しかし金のろくすっぽない俺に提供されたそれは安酒どころかそれ以下のまがいもの、それすら満たない代物で、はっきり言えば毒であった。ここまでようやくたどり着いたが、足ががくがくと震え、心臓がドクドクと波打ち、上体を預けているベンチがぶるぶると震えていた。ベンチが震えるたびに、ベンチの上に投げ出した本や、頭からこぼれ落ちたふけも小刻みに机の上で踊った。いやはやまったく、ひどい有様だった。そんな俺の前を人は、人たちは通り過ぎていった。

 俺は思う。止まりそうな時計を見ながら思う。何から何までひどい人生だった。孤独で寂しい俺には友人も愛する人も何一つ無かった、働いて心も体も壊し、財産も築けず人生を落後した俺は本だけが輩(ともがら)だった。それも全て売り払い、残ったのがこの一冊。俺はちらりと横目で見る。どうして大作家が若い頃に書いた短編が俺の心に残ったのかはわからない。だがどの作品も好きだった。幻滅、墓地へ至る道、道化師、トリスタン、トビアス・ミンデルニッケル、衣装箪笥。などなど。若い才気の残酷さが、老いて弾力を無くした自分に突き刺さってゆく感覚と言えば良いのだろうか。俺はそんな話を何遍も繰り返し読んで楽しんだ。だがいまはページを開く余裕はない。俺の心臓は暴れ続けていた。時計を見る。

 チーック、タック、チイイイイイック! 見ていると本当に時計は今にも止まりそう。まるで俺の心臓の動きのようだ。俺は横目で救いを求めるようにもう一度本を見る。もっともこの本は救いを受け入れてくれるようなたぐいの本じゃない。ニヒリズムとペシミズムに富んだ短編集はだからこそ俺のお気に入りで、こんな時にやっぱり役に立たない本を俺は大変敬愛していた。本にすがった俺は自虐の笑みを浮かべそれからまじめな顔になる。だれも気にしないのか、あの時計。今にも、今にも止まりそうなのに。俺の心臓、今にも止まりそうなのに。

 ああ、あの時計はすぐにも死にそうなのに。心臓が止まりそうなのに。人が、人たちが俺たちの前を通り過ぎていく。

 こうして大いに汗をかきながら時計をじっと見つめていても。誰も時計を気にしない! 誰も俺のことを気にしない!

 ああ、時計、とけい、トケイがもうすぐとまルのに。

 そうして、カチリ。時計が止まり。同時にベンチをなぎ倒しながら俺の体も床へと崩れ落ちる。ああ、本当に時計と同調しやがった、このおんぼろ体。しかし俺の体が地面に倒れ伏すその瞬間。何事も止まった。宙を舞うトオマス・マンの短編集。宙を舞う俺のふけ、何もかもが凍てついたように止まり、俺は同様に止まった宙から息も絶え絶えに身を起こす。

「なんだ、これは?」

 口に出す。あたりを見渡す。吐く息が白く息が凍ってた。そうして世界が凍り付いていた。ひどく、ひたすらにひどく寒い。そして目の前には差し出されたようにトオマス・マンの短編集が宙を浮いたまま、固まっていた。

「何が起きている?」

 本を前にあごをしゃくり声を出す。答えは何もなく、俺は世界から取り残されたようだった。しかし、寒い、寒い。日差しは差しているのにこんなにも寒い。こんなに寒かったか? ここは。そうして人。あれほど周りにいた人が一人もいなくなっていた。ただあちらこちらに人の形に似た影がぼうと突っ立っている。

「うむむ……」

 そうして俺は理解する。つまり俺は死んだのだ。だからこんなに寒いのだ。死後の世界があるとは思ってもいなかったが、実際あるのならば受け入れよう。やれやれ、つらい人生だった気がするが、それはまだまだ続くのか。そうして俺は宙に浮いたままの本を手に取る。ああ、受け入れなくてはな。まあこんなもんだよ。死後の世界なんて。凍って寒くて、そうして寂しい。わかっていたって、そんなものだって。受け入れよう。よし、受け入れた!

 俺は幻滅とともに死後の世界を受け入れた。そう、死後の世界を受け入れることは、俺にとっては幻滅でしかなかった。だから俺は思う。これからどうしよう。どうすれば良いのだろう。そうぼんやりと考えているととある歌がこの世界にずっと流れていることに気がついた。

「ら、らら……」

 その女の歌う言葉にならないような声は、寒さで耳が切れそうな中、突き刺すように俺の耳に届いた。俺は弾かれたように思った。

 行かなければ。

 それは遠い約束だった。生まれてくる前、交わした約束だった。俺は今それを思い出していた。


 旅に出ないか。そう言われたのだ。己の一度きりの人生をかけた旅に。生まれる前にきっと、そう言われたのだ。

 それは長い旅になるか、それとも短い旅で終わるのかもわからない。公平さや、平等。善や快楽。得られる価値。そういったものは全て等しくなく、ひどく不格好で、でもそれは自分だけの旅路。それを現実に『生きて』みないかと。

 その答えに諾(だく)と答えた自分は、いまここにいる。

 生きて、死んで、ここにいる。


 そうだった。人はそうして生まれたのだ。いや、人だけではない、生きとし生けるもの全てがその答えにきっと諾(だく)と答えたのだ。ああ、そうか。そうだった。それを思い出す。そんなことをいまさら思い出す。この、こんな俺でさえも。その答えに諾(だく)と言ったのだった。そして旅を――。さして幸せではなかったが、して終えてここにいる。

「旅はいかがでしたか?」

 歌はそう歌っているようでもあった。つらかったと思うが、いまさら思えばさほどでもないような気もした。俺は冷めた笑顔で思い返し笑う。

「まあ、悪くはなかったよ」

 その言葉はこの凍えた世界に溶けて消えた。俺のそんな言葉を聞いてまたこの凍えた世界からだれかが旅に出る。そんな、気がした。

「……」

 まあそれも良いだろうと思う。俺の話を聞いて旅に出るようなお調子者が、どうなるか知らないが、その生が少しでも幸せであるようにと俺は何者かに祈った。


「……」

 歌は続いている。やむことは無かった。歌は俺を、いや全ての死んだもの達を優しく呼び続けていた。生きて死んだ俺たちに帰るように促していた。俺は立ち上がり本を片手に歩き出す。さあ、帰ろう。俺は生きた! そうして旅を終えたのだ。俺は本を輩(ともがら)に歌の聞こえる方へと歩き出す。光が優しく俺を迎え入れてくれた。全ては終わり、そうして何事もなく始まる。



……。

……。

……。


 ガシャリ。汗まみれの男がベンチから崩れ落ちる。その薄汚い体は冷え切っていて、生の熱一つ残っていなかった。

 それを見下ろす町の中央にある時計は止まることなく動いている。死の間際に男の見た光景は全て幻覚であった。

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