空の高さが沁みるまで(老人と晩秋)

 川辺の広場は静かではなかった。サッカーの練習をしている子供達が、声を上げながらボールの取り合いをしている。そうしてそれに混じる大人の叱咤の大きな声。――人々のにぎやかな声。

「ここに来るべきではなかったかな」

 小声でぼそっと呟く。けれども、そんなことは広場に近づく前からわかっていたことだった。人々の声は、本当に遠くから聞こえていたのだから。――ではどこに――? 行けばいいのだろうか。彼は不審がる。歩いて行ける距離で静かで空が見える場所など彼は知らなかった。彼はもう老いていて、遠くまで行けないのだ。彼はそれは最早不幸なことだとは思ってはいなかったし、幼い子供の歓声も嫌いではなかったが(大人の大声はまた別ではあるが)、こうして静かな場所を探すときに、どうしても愚痴がこぼれるのは仕方のないことなのだった。

「昔はどこにでもあったような気もするし、やっぱりどこにも無かったような気もする」

 彼はぼんやりと思いながら、杖で大地を突きながら歩く。――少し、疲れた。少し先にあるベンチには子供達の荷物が置いてあって腰掛けられない。……困ったものだ。彼は苦笑し、杖を突いて立ち止まった。彼には全く関係のない歓声の中、空を見上げる。秋空は高い。風が僅かに冷たい。冬が近い。冬になればそうそう外に出かけられなくなるだろう。毎年毎年体の節々が寒さで痛み出すのだ。結果家に引きこもることになる。子供達は冬もサッカーをし続けるのだろうか。大人達は大きな声で叱咤を続けるのだろうか。まあいずれにせよ元気なのは良いことだ。元気をすでに無くしている彼はそう思い、その思いに満足した。

「まあ、こういうのもわるくないよ」

 彼はいちいち小声に出していった。なぜなら孤独だったからだ。孤独でないときもあったことが彼を一層孤独にさせた。だから、こういうすれ違いのような人とのふれあいは実のところ割と嫌いではなかった。遊歩道で立ち止まりぼんやりとし続ける。後ろからランニングをしている若者が彼を追い抜いてゆく。大きな犬の散歩をしているおばさんが軽く頭を下げ、彼の前を通り過ぎてゆく。彼も軽く会釈し、また空を見上げ続けた。河原では、まだ魚釣りをしている人間が二、三人いて、長い長い釣り竿をそれぞれに振っている。釣り竿と釣り糸が秋の日差しと河面の光を受けてきら、きらと輝く。鳥が鳴いているのがわずかに聞こえる。そんな中、空は高く。彼の老いた眼差しはそれを見上げ続けている。

「……」

 どれくらい彼はそうしていただろう。またゆっくりと杖を突いて歩き出した。立ち止まったせいで体が少し寒くなってきたのだ。足を動かさなくては。歓声は大きく叱咤の声もまた大きく。空は高く。心に沁みる。彼はやがて死に、今は大声を出している大人が彼の代わりを務めるだろう。子供達はそれぞれに育ち、何人かは今の大人の代わりを務めるかもしれない。生は移り変わり、季節もまた遷うつろう。彼の老いた目は空の高さを本当に見られただろうか。けれども見られなかったとしても彼にとっては何も変らないだろう。なぜなら空の高さは、視力で測るものでは決してないのだから。

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