散髪したら893に似てるって言われたから

mk-2

第1話 髪切ったら恐くなったって言われたら傷つくよね

――あれは、もう何年も前の夏の日のことだ。


 現在の著述関係の仕事の傍ら……日々に忙殺されようとも、すぐにあの日の有り様は思い出せばこのまぶたの裏の闇に鮮明に、昨日のことのように蘇る。


 あの日の出来事で全てが変わったのだ。



 確かに、あの頃から何らかの著述関係を生業とすることをぼんやりと思い描いていた。そして、それは思いもよらない経緯で今に至る。


 将来の目標自体が叶ったか、と問えば是だ。


 だが、それすなわちなりたい自分だとか、人間の幸福だとかそういう基準で語れば――非だろう。


 僕は仕事場のソファーに腰掛け、天井を仰いでまぶたを閉じた。


――あの日。あのうだるような暑い、暑い夏の日がまぶたの裏の闇に、映画のスクリーンのように蘇る――――


――――

――――――

――――――――

 僕はあの日、ごく普通の高校生だった。



 西暦二〇一六年の七月。



 蝉の鳴き声が木々からけたたましく鳴り響き、日本の夏特有の……時に日本の気候帯とは温帯ではなく亜熱帯だったか? などと嘆きたくなるような日照りが激しく蒸し暑い時期だった。


 僕は、街中のアスファルトを踏みしめながら床屋に向かっていた。無論、散髪しに行くためだ。


 うちの家庭の経済状況は中の下と言ったところだろうか。学生の身分、親から貰える小遣いは月に五千円程度。


 ちょっと日用品と週刊の漫画誌でも買っていればすぐに財布からイチヨウとヒデヨはクールに飛び去っていく。


 ましてやユキチなんて、誕生日のプレゼントの代わりか、クリスマスプレゼントの代わりか、元旦に親戚から貰えるお年玉ぐらいでしかお目にかかれない。


 クリスマスは彼女と過ごすのかって?



 馬鹿を言っちゃいけない。


 図体だけは大きいが、それが何のセックスアピールにもなっちゃいなくて小心者の僕には恋人なんて居やしない。


 見飽きた両親の顔をテーブル越しに見て、ちょっと美味しい夕食でも食べて、他はゲームでもして過ごす程度だ。


 ともかく、僕はあまりお金を使いたくなかった。だから、散髪をする時は前髪が目にかかるほど……自分でも鬱陶しく感じるほど目いっぱい髪を伸ばし放題にしてから、一気にスポーツ刈りにしてもらう。そう、丸坊主に近いあの飾り気のない髪型だ。



 つまり、そうやって極力床屋に行く頻度を減らせば、散髪代をケチることが出来る。そこそこ貧乏な我が家では結構肝要な話だ。



――行きつけの床屋が見えてきた。散髪代が安く、スピーディなのが取り柄だ。



 また、いかにもローカルな店らしく、安い材質のスタンプカードを発行していて、ある程度スタンプが貯まると金券となる。金券に替えられるせいか、自前でバリカンを買って坊主頭にするのに抵抗がある。本来なら毎回スポーツ刈りなら自前でバリカンを使う方が安上がりなのだろうが……。



 カードには、僕の名前と貯まったスタンプ、そして毎回細かく指定するのが面倒なのであらかじめカットする内容が図解で描かれている。




 髪は何ミリ程度、眉毛は何ミリ剃る、洗顔はするのか、など。




 それにしても、今日は暑い。既に汗だくになっている。店内は空調が効いててさぞ涼しいだろう。


 僕はスタンプカードを――

「お客様名:荒川光(あらかわひかる)」と書かれた紙切れを財布から取り出し、床屋の扉を開けた――――。

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