第5話 オアシス

「でさ、宿題、どんなかんじ?」

「うん。半分くらい」

「えっ、もうそんなに? 俺、三分の一くらいだ。

 もうちょっと進めとけばよかった。すごいな、未織」


 手柄を褒められ、未織ははにかみ笑いを浮かべた。


「わたしは、部活とかないから。他にやることなくて」


 二人で手分けして宿題を進める約束をしていた。

 今日は答案を持ち寄って、互いに写しあう日だ。

 面倒くさい宿題も、未織と合う口実になる。

 こんなに宿題が嬉しい夏休みもはじめてだった。

 読書感想文の課題図書を買いに商店街の本屋を目指す。


「それにしてもさ、宿題、すごい量じゃない?

 数学の先生、量あればいいと思ってるよ」

「生徒がサボらないように、って言ってたね。採点する先生も大変そうだね」

「本当に、困るよなぁ……」


 今日の未織は、本日の気温のせいか、いつもより薄着だ。

 ノースリーブ、肩がむき出しのワンピース。

 腰に巻きついた赤い細いベルトが女の子っぽくて、ドキドキする。

 長い髪が暑いのか、今日はサイドでゆるく一つにまとめていた。

 俺が見ているのを知ってか知らずか、未織の指がふと指先に触れる。

 思い切って手を取ると、未織も応えて指を絡めてきた。

 これは――俗称・恋人繋ぎ。


「あのさ、いいの? 街中だけど……」

「うん」


 ぎゅっと、握る手に力を込めてくる。


「俺は、嬉しいけどさ。未織は恥ずかしくない?」

「へいき」


 うん、無理してるな。さっきから目を合わせてくれないし。

 うつむきがちで歩いていて、危なっかしい。

 無理に手を繋がなくてもいいのに。


「俺は……嬉しいけど。

 まだ恥ずかしいなら、今すぐじゃなくても……

 段々慣れていけばいいと思うけど……」

「……手、繋いで歩きたいの」

「うん。わかった」


 未織のかな、それともお互いのかな、掌に汗が滲んでいる。

 商店街のアーケードがありがたい。

 日差しがないだけ、暑さは幾分マシだ。


「本屋さん、こっち」

「うん。未織、ほんとにいいの? 地元の友達に見られたりとか……」

「いいのっ。恥ずかしいことじゃないもん」

「まあ、それもそうか」


 多分、理屈ではその通りなんだけど。


「……かなたと」

「ん? なに?」

「恋人っぽいこと、したいんだもん」


 そう、ちょっと拗ねたように言う。

 こうやって未織が示す仕草や言動から、俺が抱く不安は少しだけ軽くなる。

 二人の関係を成立させているものが、『未織は俺のことなんか好きじゃなくて、ただ絵を描いて欲しいだけ』ではなく、お互いの好意なのだと再確認させてくれる。


「だから」


 沈黙する俺に、重ねて言った。

 手を握り返して、それを返事に代える。

 未織も応えて、ぎゅっとしてくれた。

 ……恋人、かぁ。

 いまだに現実味がない。

 好き同士で、付き合ってるんだもんな。

 そういうのを恋人って言うだけど。

 ……『約束』のせいかな。

 思い切り、この状況を楽しめないでいる。



 クーラーの聞いた店内がオアシスに感じられた。

 ただ、未織の体が冷えてしまわないか心配だ。

 本屋は夏休みらしく、立ち読みの子供が多く居る。

 課題図書の売り場を探して、すぐに見つけた。


「あ、本、あるね」

「平積みだ。そっか、夏休みの定番課題か。名前も夏目漱石だしな」

「ほんとだ! 名前に夏が入ってる」


 素直に驚く未織が、かわいい。


「いや、今思いついたんだけどね」

「あははっ。レジ、行く? もうちょっと見てく?」

「せっかく来たし、涼みたいし、ひと回りしよっか」

「うん」


 未織の地元の本屋は、うちの近所の本屋より大きい。

 こぢんまりした商店街だから意外だった。

 ちゃんとコーナー分けも綺麗にされてるし、いいなぁ。


「漫画の新刊見て行っていい?」

「いいよ。どんなの読むの?」


 手は繋いだまま、狭い通路は立て並びになって歩く。

 流石にもう手を離してもいいんじゃないかと思う。

 でも、未織がぎゅっと握って離してくれない。


「あっ」

「え?」


 急に、手を離した。そのまま背中に隠している。


「未織? どうしたの? あ、知り合い居た?」


 頷いた。視線で位置を知らせる。

 そこに、新刊コーナーで立ち読みする女の子が一人。

 あれって……。あ、こっちに気づいた。


「あれ? 部長じゃん」

「伊藤……。おまえ、このへんに住んでんの?」

「そうだよ。そう言う香村はここじゃないでしょ。ん? あれ? ……未織?」


 本を畳んで、伊藤が早足でこっちへ来た。

 未織が迫り来る伊藤から身を隠そうと書架の裏へ回り、ちょっとだけ頭を出した。


「はるちゃん。こんにちは」

「未織じゃーん! ひさしぶりーっていうか夏休み入ってはじめましてだ!」


 テンションの高い挨拶に困ったように笑う。


「あれ? 地元一緒って、幼馴染?」

「そうだよ。未織とは、小学校から一緒だもん。ね」

「うん」

「うわ、知らなかった」


 二人にそんな接点があったなんて。


「で、あれ? なんなの二人は。そこらで偶然会った感じじゃなくない?

 えーっ、なに!? もしかして!?」

「はるちゃん、声、大きい……」

「えー! やだぁ! うそ! え、二人、付き合ってるの?

 いつから? いつから!?」


 場を憚らない大声にさすがに気が咎めた。

 無理やりに伊藤を店外へ引きずり出す。

 かなり注目を集めてしまった。恥ずかしい。お店の人に申し訳ない。


「えー、やだぁ。香村かぁ。えー」


 店の前で伊藤は無遠慮に俺を眺めまわした。

 あんまり知られたくなかった奴に一番に知られてしまうとは。


「うるせーな、お前と付き合ってるんじゃないんだ。いいだろ、別に」

「いいけどさー。未織を泣かすなよ」

「言われるまでもないよ」

「はるちゃんってば……」


 恥ずかしそうな、でもちょっぴり嬉しそうな様子から、二人が単なる友人ではなく、それよりも親しい仲なのだと分かる。

 学校で一緒にいる姿を見ることはあったけど、それはクラスが一緒だからだと、今日まで思っていた。


「んー、でも、そっかぁ。嬉しいよ、未織。なんか安心した。

 じゃあ、これ以上邪魔しても悪いし私はこれで。仲良くやれよ!」


 手を挙げて、颯爽と去っていく。


「おっさんか……」

「あはは」


 相変わらず元気な奴だ。

 この暑い中、早足でどんどん遠ざかっていく……、

 あれ、戻ってきた。


「ねえねえ、ねえねえ、もうチューしたっ?」

「早く帰れっ!」

「わ~! 部長が怒った~!」


 こっちを見ながら逃げ帰っていく。煽るような眼差しが腹立たしい。


「小学生か……」

「あはは……」



 未織の部屋へ戻って、宿題の写しあいを進めた。

 未織の絵を描くための時間を確保するために、宿題を溜め込まないようにと発案したのは未織だった。

 今日ここへ来たのだって、少しでもデッサンをして本番の絵の準備をするためだ。


「……よし。宿題はもう、今日の分はお終いにしよう。良い?」

「うん。飲み物、持って来るね」

「ありがとう」


 未織が部屋を去って、ようやく少しだけ緊張が解ける。

 伊藤の奴め。あんなこと言うから、お互い意識しちゃうじゃないか。

 外から帰ってから、ずっと落ち着かない心地で、宿題をただ機械的に写していた。


「……」


 能天気な伊藤の声が耳に張り付く。

 あれって……どんなタイミングでするんだろうなあ。

 世の中の恋人って、どうやってるんだろう。

 全く見当がつかない。漫画とか、ドラマとかでは、溢れかえってるけど。

 チュー……かぁ。


「お待たせ」

「あっ、う、うん」


 開け放したままのドアをくぐって、ローテーブルにトレーを載せる。

 それから改めてドアを閉める。

 そうすると部屋の、なにかの密度が濃くなったように思う。

 なんだろう。未織密度かな。


「ん? どうしたの?」

「いや、なんでもない。ちょっとぼうっとしてた」

「疲れた?」

「いや、平気。ううん、ちょっと」

「うん。わたしも、ちょっと。……お邪魔します」


 グラスを持って、未織が隣に腰掛ける。

 二人、ベッドを背もたれにして、並んでいる。

 なんか、近い。いつもよりずっと。

 部屋に満ちている、未織の残り香のようなものではなくて……

 未織自身の匂いがする。

 やばい、体熱くなってきた。

 体を冷ますために、貰ったお茶を一気飲みした。


「……ぷはぁ」

「彼方、そんなに喉渇いてたの?」

「う、うん」

「一気飲みしちゃうほど?」

「うん……」

「おかわり、持って来るね」

「うん、あ、いいよ、気にしないで」

「もういいの?」

「うん、もう、今ので充分」

「ん。わかりました」


 そう言って、未織も自分のグラスに唇をつけた。

 未織の喉の上下する音が聞こえる。一口ずつ、麦茶を飲む。

 なんとなく視界から外した。

 喉の動きが、なんか、色っぽかった。

 今まで、喉が色っぽいなんて思ったことないのに。


「ふぅ……」


 控え目な吐息。ちょっと唇が濡れている。

 好きだなあ、って。急にまた実感する。

 どこが、というか、全部が。

 傍にいると、ドキドキして、わくわくして、嬉しい。

 一緒に時間を過ごせることが、嬉しい。


「あ……」


 床に降ろした手に、未織が手を重ねる。熱い。未織の体温が高い。

 部屋はクーラーがかかっているのに。麦茶だって飲んだのに。

 伊藤め。伊藤の奴め。意識しちゃうじゃないか。

 ……もしかして、未織も意識してるのか?


「未織?」


 呼んで、はじめて、息を止めていたことに気づく。

 なぜか、息をしちゃ駄目な気がして、息、止めてた。

 未織に気づかれないように、静かに深呼吸を繰り返す。

 頭に酸素が回ったころ、俺は再び未織の言葉に息を止めた。


「今日は、デッサン、する?」

「あ、うん……」


 急に、頭が冷えた。

 いつか、そう遠くない先、俺と未織は恋人同士じゃなくなるんだ。

 そういう約束だった。

 あんまり浮かれると、あとで痛い目を見る。

 だめだな、俺。もう、なんか、痛いし。

 期待しすぎないほうがいいって思っても、無理だ。

 だって、未織が好きなんだから。


「かなた?」

「……。未織は」

「うん?」

「俺の絵が好きなの?」

「うん。好き」


 まるで前もって準備していたみたいに、淀みなく答える。

 それが、なんでもないときなら、きっと嬉しかった。


「俺の絵だけが?」

「えっ。ううん……」

「俺、あんまり、絵、上手くないよ」


 この前の部活でも、実感したことだ。


「絵の上手い奴ならさ、俺じゃなくても、ほら、たとえば伊藤とかさ。

 上手い奴はいっぱい居るよ。未織が、絵を描いてほしいだけなら、やっぱりさ――

 やっぱ、こういうの、駄目だと思う……」


 今、隣り合って座っていて良かったと思う。

 未織の表情を見ずに済む。

 視線がさまよっていることを、知られずに済む。


「うん、ええと、あのさ。

 もし、俺に絵を描いてほしいだけならさ、何も付き合ったりしなくても……

 俺でよければ何枚でも描くよ。

 だからさ、もし、好きでもないのに俺と付き合ってるなら、お互いに良くないことだと思うんだ、それは」


 これだけ言うのが精一杯だ。色々考えてるけど、言葉にならない。

 思えば、変な約束だよな。好き合ってるなら別れる必要なんてないのに。


「かなた。あのね。何枚もじゃなくて、いいの。

 ……一枚だけ。かなたに描いてほしい」


 重なる手の甲を、指先で未織が撫でた。


「うん……。でも、じゃあ……、どうして」

「聞かないで。答えられない。かなたのこと、好きだよ」


 未織が俺を覗き込む。まっすぐ見つめてくる。


「一年生のときから、ずっと、かなたが好きだった。

 ねえ、かなたはどうしてわたしを好きになったの?」

「それは……。気づくとさ、なんか、目で追ってたんだ。

 未織のこと、よく見るな、って思って。

 仕草とか、行動が、なんだか可愛くてさ……」


 思い出す。

 学校での未織の姿。

 ちょっとドジで危なっかしいところ。

 引っ込み思案で恥ずかしがりやなところ。

 でも授業ではきちんと受け答えができるところ。

 ひとに親切にできるところ。

 先生たちにも気に入られている優等生なところと、ときどき授業中に居眠りしちゃう隙のあるところ。


「気になってたんだよ。班行動もよく一緒になるし。

 それは、最初は名前の順のせいだけど。

 ……知り合ってみたら、すごく良い子だし、優しいし。

 未織と一緒に居ると、楽しくて。

 なんか、そしたら、気づいたら、もう……未織のこと、大好きになってたんだ」

「うん……わたしもだよ。優しかったのは、かなたのほうだよ」


 未織が体を寄せて、頭を俺の肩に預けてきた。

 柔らかい髪の感触が心地よい。

 こうして触れ合っていると、未織の声が直接、振動して体に響いた。


「わたし、かなたの傍に居られるように、頑張った。選択授業も、同じにしたの。

 委員会も、図書委員、人気だったけど、じゃんけん、勝ったよ。

 二年で、また同じクラスになれて、嬉しかった。初詣でお祈りまでしたんだよ?」

「初詣で?」

「そうだよ。お賽銭、投げたもん」

「俺も祈った」

「ほんと?」

「うん」

「嬉しいな……」


 重なる未織の手が、俺の手をひっくり返して、指と指を絡めてきた。

 細い指、白亜の珊瑚の……、今は熱を持った指先が、俺の指の間に入り込む。

 くすぐったくて、嬉しい感触。


「あのね、だからね、もちろん、かなたの絵、大好き。

 でもね、それ以上にかなたのこと、好きだよ」

「でも、じゃあ……」

「勝手な事言ってるよね、ごめんね。

 でも、お願い、聞かないで。……約束、したでしょ?」


 その言い方は、ずるいと思う。

 でも、好きな人の言葉だから、許してしまう。惚れた弱みだ。


「……分からないよ。どうしてなのか」

「うん……どうしても」

「……」


 結局、何も分からない。でも、これ以上、何も聞けない。

 聞いたら、せっかく結んだ関係が壊れてしまいそうで――

 せっかく、未織と居られる時間を、失いそうで、怖かった。


「未織」

「うん」

「キスしていい?」

「……うん」


 俯く顔を上げて、未織が目を閉じる。

 無防備に待っている。

 でも、肩が緊張してる。

 肩に手を置くと、ぴくっと震えた。

 でもすぐに力が抜けて、俺を待ち受けてくれる。

 もう、顔が近い。息がかかるほど。


「ん……」


 口付けた唇が柔らかい。本当に、柔らかい。

 ふんわりした感触を、もっと感じていたくなる。

 温かくて、優しい感じがする。

 唇を離した瞬間、名残惜しさに胸が痛んだ。

 でも、今、もう一度する勇気はない。


「……」


 あれ。キスした後どうしたらいいんだろう。

 じゃあこれで、って言って帰るのかな。

 いや、そうじゃない。次の段階は……。


「えっと、未織……」


 未織は俯いて、垂れた前髪で表情が隠れている。

 でも、耳が赤くなっているのは丸見えだ。


「う、えと……。も、もうだめ。今日はこれ以上だめ」

「えっ」


 拒絶された……。

 しかし未織は己の態度を省みたのか、慌てて取り繕うように言った。


「わわ、わたしが、ばくはつしちゃうから」

「ば、爆発?」

「うん。ばくはつ……」

「――あははっ」


 未織から爆発って言葉が出ると、なんか面白い。思わず噴出していた。


「もう……わ、笑わないでよ~」

「ううん、無理、あはは」

「もう……」


 未織もつられて笑い出す。

 そうだ。なんとなく、わかった。

 俺が未織の考えを変えられるようになればいいんだ。これから、少しずつ。

 まだ猶予はある。絵は描きはじめてもいないのだから。

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