梟の夢見た構図

枕木きのこ

第1話

 待ち合わせた喫茶店に到着するや、早々にこちらに気付いた高科純は無表情のままに片手を上げた。僕もそれに応えるようにして、近づいていく。

 二人がけのテーブル席で、向かいの彼はエスプレッソを飲んでいるようだった。半ばほどまで減ったカップを眺め、少し待たせすぎたかと思いつつも、急に呼んだのは彼のほうだったから、謝罪はしない。ウエイトレスにホットココアを注文し、マフラーを解いた。

 煙草を吹かしながら、眼前の彼は何を言うでもなく、悠然と流れる午後のひと時を過ごしているかのような朗らかさがあった。いっそ矢継ぎ早に遅刻を責め立てられたり用件を話し始めてくれたほうがこちらの気も楽だったろう。

 ココアが届いてから、僕のほうでも煙草を咥える。煙は瞬時に空間に溶け、誰のものかわからなくなる。口から吐き出す全てがそうであれば良いのにと途方もないことを考えていると、

「悪いね」

 彼のほうから謝罪があった。

「いや」煙を吐いてから、「遅くなって悪い」

 結局言うと、彼は微笑んだ。

 ちょっと話をしないか。いつもの場所で。

 高科はそれだけを言い切ると通話を切った。それが半時間ほど前のことで、却って半時間で支度を済ませ到着したと言うのは評価されるべき点だと思わないことはない。ただ一方で、もっと単純に、彼の申し出のタイミングがたまたま良かっただけだとも思う。電話を受けたとき、僕は溜まりに溜まった洗濯物をようやっと干し終えたところだったのだ。寝巻きも何日同じものを着ていたのか判然とせず、合わせて洗濯していたために着替えも済んでいた。支度と言っても戸締りと必需品、つまり携帯電話や煙草の準備くらいなもので、半時間のうちのほとんどは実質移動時間だったと言っても過言ではなかった。

 ぷかぷかと煙を吐き出している高科を見て、ふいと、時間の流れの早さを感じる。彼と出会ったときは中学生で、煙草もコーヒーも口にすることなんてなかった。それがあっという間に十年近く経ち、いまや仕事に結婚にと、漠然としていたものを意識しなくてはならなくなって息苦しく、金魚のように口を開ければ、煙を吐いている。と言えばそれらしいが、今並べた二つに関しては、二人とも未だ確固とは手にしておらず、周囲の同年代を眺めては劣等感に溺れそうになっているだけだ。

 そんな思考を読み取ったわけではあるまいが、

「ミナコが死んで、もうひと月くらいか?」

 彼は煙草を揉み消しながらこちらを見ずに聞いてくる。

「そうだな」

 とはいえそれは恋人などではない。

 飼い猫に「ミナコ」と名付けた理由は高科と姉くらいしか知らない。それは余りに女々しく、酷く滑稽なものだから、憚らず公言できる後ろ盾など何もなかった。

 高校時代から大学時代へかけて四年付き合った恋人が「美奈子」だった。別れた直後、擦り寄ってきた野良猫を捕まえてそんなお遊戯をしていたのだから、馬鹿馬鹿しい。

 それでも三年生活をともにしたそのミナコがひと月前に亡くなってから、僕の生活は空虚なものに変容した。半ば勢いで飼い始めたこともあり、別れの準備はしていなかった。当然、それが唐突に訪れるものであることは、美奈子のほうで学習していたはずなのだが、まさか猫に限って、そんなに早いとは考えても居なかったのだ。

 恋人に振られ、就職も失敗し、フリーターに甘んじながら夢もなく生きてきた中で、意固地になって家族ともろくに連絡を取らず、迎えてくれるのは猫だけ。そうなれば、そこに依存していくのも仕方あるまい。

 ミナコが亡くなったとき、僕は大いに泣いた。涙自体、相当久々に流したものだったが、久々すぎて、止め方も忘れてしまっていた。泣いて、眠り、起きては泣いた。まるで思春期の子どものように、感受性に任せるまま、引きこもってミナコを想った。

 それ自体が良いことなのか悪いことなのかという判断は僕には出来ないが、それでもひと月弱あれば落ち着いてしまう自分の心というものを、時々僕は恐ろしくなる。頑なに留めた決心にも、愛していたはずの人間にも、いつの間にか無関心になる。感覚が鈍重になり、中心にあったはずのものも知らぬうちに混沌の中へ紛れ、一体何を考えていたのか誰を思っていたのか、それが不鮮明になり、やがて忘れていく。ある意味では便利だが、自分の意識しないところで移り変わっていくものが自分自身であるとすれば、やはりそれは僕には恐ろしいことだった。

「最近はどうだ?」高科は気遣うように漠然とした言葉で聞いた。「何か楽しいことはあるか?」

 それがあくまでも取っ掛かりに過ぎないものなのか、あるいはそれこそが僕を呼んだ件なのか、判然としない。エスプレッソを下手糞に啜り頬杖をついてこちらを見る彼は、いつだってそういう茫洋とした人物だった。

「楽しいことはあるよ」

「ほう」表情は変わらぬままで、何を考えているものかわからない。「例えば?」

「最近は映画をたくさん観てる」

 ミナコが亡くなり、泣き喚き、そこから脱却する気力も湧かず、僕はその日に仕事を辞める旨を連絡した。もとよりただのパートタイマーに過ぎないし、何か特別な仕事を任されているわけでもなかったので、向こうも無理に引き止めたり詮索したりということはしなかった。「寂しくなるなあ」という言葉の裏では僕の抜けた穴をどう埋めるか、今月のシフトをどうするか、そんなことを考えていたに違いない。

 布団から動くことも面倒で、しかし何も音のしない締め切った部屋に一人きりで閉じこもっていることにもどこか拒否感、あるいは畏怖があり、何かを流そうと手を伸ばした先にあったのが、奇しくも美奈子と付き合っているときに観た映画のDVDだった。感傷的になり腐ってそれを観ているうちに、物語をただ観ているだけならば何も考える必要はないし、様々に色の移り変わっていくテレビを観ているよりずっと気楽だと判明し、そのあとはひたすら家にあるDVDを代わる代わる流した。そうしているうちに何がどう作用し心が平坦に収まったのかは相も変わらず理解に至らないが、家にあるものに飽きて外に借りに行く程度には自分が復帰していることは自覚していた。そして物語それ自体を楽しめるレベルになったときには、あんなに号泣したミナコとの別れも「仕方のないことなのだ」と片付けることが出来ていた。

「映画ね」そんな腐敗した日々を悟ったかは知らないが、「ここのところで観た中で一番面白かったものは?」

 高科はそう聞いて、頬杖を止める。

「うーん、何かな」こちらも煙草の火を消し、ココアを一口飲んでから、「何も考えたくなくて、最初の頃はあえてアクションものの作品を選んでいたんだけど、なんと言ったかな、あの、ギリシア神話がモチーフになってる作品……、ちょっとたくさん観たからタイトルは忘れたけど、それはなかなか良かったよ」

「説得力のない推薦だな」背凭れに身を預けながら高科は笑う。笑った反動で身体が仰け反ったようにも見えなくはなかった。「まあでもある程度落ち着いたようで何よりだよ」

「話って、もしかしてこれだったのか?」

「これって?」

 男同士でするには少々気色の悪い話だとは思いつつも、

「ほら、心配して」

 そう言うと、

「まあそれもあるといえばあるかな」

 彼は明言せず、しかし否定もしなかった。とすると、気色悪いなどと、友情を皮肉った僕の卑屈さは、懲らしめておかなければならない。

 それはともかく、

「曖昧な物言いだな」

 数式ほどとは言わないまでもこちらの質問に対してはいつも厳然とした答えを言葉に含ませている彼には、今のような言い方は珍しいことだった。あるいはあえてそう思わせること、言わせることが彼の計算なのかもしれない。

 案の定、表情は仰々しく、わざとらしい。

「そうか?」

「そうだと思ったけど気のせいだったかもしれない」

「そう言うなよ」吸い終えたばかりにも関わらずまたしても煙草に火をつけると、緩慢にひとつ吸い込んでから、「いや実は、お前がもう平気そうなら、頼みたいことがあってね。もちろん心配していたことには変わりないんだけど」

「いいよ、付け加えなくても」

「いやいや」彼は笑って、煙をもくもくと吐きながら、それに言葉を乗せていく。「ミナコの話を切り出したときも、すぐに話を転換しても、お前に動揺はなかったから、多分本当にもう大丈夫なんだと思うよ。どういう手順を踏んだかはわからないが、俺も心配した甲斐があったよ」

「いいから。それで、頼みって?」

 このまま心配していたかどうかに固執していると話が進まないので促すと、彼は少し難しい表情をして腕を組んだ。唸り声を上げながら、どう説明したものか、あるいはどう頼んだらいいのかを思案しているように思われる。

「どこから話したら良いかな」

「どこからでも」

「俺に姉ちゃんがいるのは知ってたっけ?」

「確か、うちのと同い年だよね」今年二十七になる代で、僕たちから見れば三つ年上になる。「それが?」

「うん、それが最近失恋をしたみたいでね。それもかなり大きな」

「悲惨だね」

 だがそれがどう繋がるのかわからない。

「本当にね。見てられないんだよ。毎日泣いてばかりで飯もろくに食わなくて」その言い草でミナコを亡くしたばかりの自分を想起すると、まさしく、「お前もそんな感じだったろ? それよりも多分、少し酷いと思ってくれて構わない」

 高科は苦々しそうに煙草を吸った。

「そうまでなる失恋ってことは、結婚を視野に入れていたとか?」言いながら、自分の平常心に少し驚いた。「どれくらい付き合っていた相手なんだ?」

「それが」喉が渇いてしまったように言い難そうだ。「付き合っていたわけではないんだ」

「ああ、成就しなかったのか」

「そう。ただ、想っていた期間自体はかなり長くてね。何せ相手が、それこそ俺たちみたいな長さの時間、関わりを持っていた人だったから」

「ってことは、十年近く想い続けていたってこと?」

 ひとつ頷きをくれ、

「もちろん、何度かは挑戦してみたらしいんだよ。でも悉く駄目で、最悪なことにそれが最近になって向こうにも、自分が想っているような程度の対象が現れたみたいでね。それを理由にはっきりと断りを入れられて、もう立ち直れなさそうなくらい、落ち込んでる」

「大好きな人に大好きな人が出来たってことね」頭の中で関係図を整理するために簡素化する。しかし、「それがなんだって僕に関係してくるの?」

「そこなんだよ」と言葉では言いつつも、表情に変化はない。「申し訳ないんだが、俺にも良くわからないんだ」

 そう返されて、僕が何を理解できると言うのか。

 しかし彼のほうでも状況を十全に理解しているようには思われなかった。

「誰か男を紹介してくれ、と言われたほうがわかりやすかったよ」首を傾げながら、「あいつ、名指しでお前のことを紹介しろと言ってきたんだ」

「名指しで?」

 問うと、まだ長いままの煙草を折るように灰皿に押し付けて、

「俺の中では、多分自分の現状を重ねてみた結果だとは思ってる。お前の飼い猫が死んだことも、その後の様相も姉ちゃんには話したことがあったからね。お前が映画を拠り所にしたように、お前なら今の自分を立ち直してくれる術を知っているのではないかと姉ちゃんが考えた可能性はあると思ってはいるんだが、どうも明確に説明をしてくれなくて、申し訳ないが細かいところは本当に俺にも分からないんだ。ただ一度会ってくれるよう言ってみてと、それが頼みだよ」

 頭を下げられたが、困惑するほかにない。

 もちろん、現在仕事もしておらず学業に勤しんでいるわけでもない僕にとって、人一人と会う時間はいくらでも用意できる。それ自体を苦に感じることももうないし、お望みであれば何時間、何日だって話をしていてもいい。

 ただその理由が判然とせず、憶測でしかないのに頼まれても、

「正直少し困る」

 それが感想だった。

「そうだよな。いや、それが普通だと思うよ。俺だって逆の立場で、会ったこともないお前の姉ちゃんにそんなこと言われても、会わないと思う」

「申し訳ないけど」

「でも、そうは言わないでおいてくれよ」彼も困ったような顔をしてみせる。「もう少し考えてみてくれ。姉ちゃんから進言されたことだけど、これは一応俺からの頼みでもあるんだ。正直、化粧もろくにせず、飯もほとんど食わず、無為に腐っていく身内を見ているのは辛い。お前に会うことで何かを取り戻せるなら、そうなってくれることに越したことはないんだ。だからもう少し、考えてみてくれ」

 もう一度頭を下げられた。

 高科から頼みごとをされたことは、数えるほどしかない。こちらからの要望に彼が断ったことも僅かしかなかった。それを、無下にできるほど僕は数学的ではなく、

「わかったよ。ちょっと考えてみるよ」

 知らずそう返していた。

 高科はようやく肩の荷を下ろしたかのように、ほっと安堵の息を吐くと、

「ありがとう。助かるよ」

 そう言って軽く笑った。

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