第52話 失われた名前

 矢倉は頭の中で、カルロスという名を何度も反芻した。ポルトガルのオンダアルタの村にいたカルロス。それと、今目の前にいる男は同一人物なのだろうか? だとすればこの男は、自分の祖父という事になる。


 矢倉は意を決して、その老人に訊ねてみる事にした。

「あなたは、ポルトガルのオンダアルタという村をご存知ですか?」

「何故――、その村の名を?」

 明らかにカルロスの顔つきが変化した。

「私はその村を訪ねたばかりです。村は廃れていましたが、まだ昔を知る老人が存命でした。カロリーナという女性です。少女の頃に、カルロスと言う人物に命を助けられたと言っていました」

「――いや、やはりその村は知らないな。聞き覚えがあった気がしたが、勘違いだ」


「そうですか。それでは矢倉邦仁という人物はご存知ありませんか?」

「矢――、倉――、邦――、仁――」

 カルロスはその名を噛みしめるように、一文字ずつ呟いて、天井を仰いだ。

「どうですか? 聞き覚えはありませんか?」

「君は――、一体――?」

「私の名前は矢倉雅樹。矢倉邦仁の孫です。私は祖父が残したセルロイド版に導かれて、ポルトガルで伊220を発見したのです」

 カルロスの両目は大きく見開かれた。矢倉はその表情を見逃さなかった。


 その時、突然廊下に靴音が響き、別の男が足早に部屋に入って来て、カルロスに耳打ちをした。

「ディータが? 今すぐにか?」

 カルロスが男に訊きかえした。男は黙って頷いた。

「すまないが、急用だ。また出直してくる」

 カルロスはそれだけを言うと、部屋を出て行った。



――2018年8月14日、10時00分、リスボン――


 リスボンの国立水中考古学研究所の蒸留水プールの中では、慎重な作業が続いていた。伊220から引き揚げられた金庫の開封作業だった。

 金庫の片隅に開けられた小さな穴を通し、ファイバースコープで内部を確認した後は、低振動の精密カッターで、何日も掛けて扉部分に切れ目が刻まれていた。

この日はようやくその切れ目が扉の厚みまで達し、ルイスの立会いの下で、扉が切り離される事になっていた。


 ロボットアームが水平に動くと、分厚い金属の板が、箱から離されていった。一瞬の間その開口部から、靄のような沈殿物が立ち上ったが、それはすぐに消えた。

 金庫の中には、4冊の冊子が保管されていた。1冊ずつそれは取り出され、表紙から切り離されて、1ページ目の文字のごく一部だけがサンプルで採取された。

 紙質とインクを分析した上で、最適な保存液の中に移し替えるためだ。


 ルイスが見たところ、1冊は日本語で書かれた航海日誌のようだった。2冊目は記号集のようで、恐らく暗号表だろうと思われた。3冊目と4冊目は表題に、それぞれ『Flüssig C』、『Flüssig D』と書かれていた。


 ルイスが研究所の研究員に訊ねると、それはドイツ語で『C液』、『D液』という意味だと知らされた。



――2018年8月14日、ノルウェー、トロムソ・Uボートブンカー――


 矢倉の部屋の鍵が開いて、再びカルロスが現れた。カルロスは護衛の男たちを廊下に待たせ、ドアを閉じさせた。

「先程は話の途中で申し訳なかった。急用ができてしまってな」

「ディータというのは、誰なんですか?」

「我々の組織の若きリーダーだ。私は彼の補佐役をしている」

「組織?」

「まずはそこからは話そう。君には伝えられる限りの話をしておく」

「その前に教えてください。あなたは矢倉邦仁なのですか?」

 カルロスは黙したままだった。


「どうなのですか? それを知ってからでないと、お話を聞く事ができません」

 カルロスは更に黙したままであったが、やがて口を開いた。

「――かつて」

「かつて?」

「かつて私は、矢倉邦仁という名を名乗っていた」

「やはりそうなのですね。あなたは私の――」


「しかし、今は違う。私の名はカルロス。それ以外の何者でもない」

「なぜなのですか? あなたに会うためにわたしはポルトガルに行き、そして今はここにいる。やっと会えたと言うのに」

「それ以上言うな。その名は捨てたものだ」

 カルロスのその言葉は決然とし、他の何事も受け入れない強い意志を秘めていた。矢倉はそこに、踏み込めない一線を感じた。

「わかりました、カルロス。これ以上は訊きません。どうか話の続きを聞かせてください」

 矢倉の言葉に安堵したのか、カルロスの瞳から険しさが消えた。


「今、我々がいるこの地下施設は、元々はナチスドイツが造ったものだ。第四帝国に必要な資金と資材、そして人員を送り出すための港だった。君は第四帝国についてはもう知っているのか?」

 矢倉は短く「はい」と言って頷いた。


「よかろう。では我々が第四帝国なのかというと、それはYESでもあり、NOでもある。ナチスドイツは第三帝国の終末を目前にして、第四帝国の建国を夢想した。しかしその夢は脆くも消えた。

 我々はナチスが画策した第四帝国ではない。しかし第三帝国の資産を引き継ぐ組織であり、その意味では我々こそが第四帝国と言えるのかもしれない。


 我々の組織の創始者はクサヴァー・リームという化学者で、私の親友であり同志だった。現在のリーダーであるディータ・リームはクサヴァーの息子だ。

 クサヴァーは自らが作り上げた組織をネオ・トゥーレと称した。トゥーレというのはゲルマン神話に登場する、北の果てにあった楽園の島だ。かつてドイツのミュンヘンには、ナチスの前身となったトゥーレ協会という秘密結社が存在しており、その名はこの島に由来していた。

 クサヴァーは、自分はナチスと同じ根を持ちながらも、ナチスの連中とは違うのだという意味を込め、ネオ・トゥーレを名乗ったのだ」


「あなたがたは、ここで何をやっていたのですか?」

「ネオ・トゥーレがこの場所で、これまでやってきた事はたったの2つだけ。伊404をモスボールする事と、金融工学による資産の利殖だ」

「聞きなれない言葉です。モスボールというのは何ですか? それと金融工学とは?」


「まずはモスボールを説明しよう。モスボールというのは、当面使わない軍艦や軍用機を、いつか時がくるまでコンディションを維持する措置だ。潜水艦の場合は、全ての開口部を塞いで密封し、艦内に窒素を充填する。

 我々はそれだけに止まらず、数年に一度の割合で、艦の装備を最新のものに改装してきた。内燃機関を廃し、小型の多極高出力モーターと燃料電池に積み替えを行った事で、今や伊404は、世界で最も静粛性の高い艦となった。


 艦体の表面を覆う塗布素材も、搭載された欺瞞装置も、ここで開発した最新のものだ。ソナーであろうが、レーダーであろうが怖いものはない。

 日本帝国海軍の誇った自動懸吊装置は、制御系をコンピュータ化し、慣性航法装置も導入した。各部の自動化によって、150名以上必要だった操船要員は24名まで減り、大西洋を一度も浮上せずに悠々往復できるばかりか、自動航行で目的地まで行くことができる。


 伊404は、どこにでも行けて、どこでも攻撃ができる艦だ。魚雷は積んでいない。軍用艦と闘うつもりもないし、その必要が無いからだ。しかし、ナチスから引き継いだV2ミサイルを2基搭載している。V2はこの施設に、60基ストックされており、内部のアナログコンピュータはデジタル化してある。


 ジャイロも最新のものだ。今の時代はアルミもチタンも潤沢に使えるので、V2は躯体の軽量化によって航続距離は倍以上に伸びた。残念ながらエンジンと燃料だけは当時のままだ。ここにはロケット工学の専門家がいないので、そこを触ると基本性能まで変わってしまうからだ。

 8か月前、ある目的のために、第二次大戦当時のV2をそのまま発射してみたが、ほぼ狙った通りの場所に着弾した。素晴らしい性能だった」


 カルロスは何の感慨も無いかのように、ただただ淡々と語り、そこで一旦言葉を区切った。まるで矢倉に「ここまでは理解できたか」と訊ねるように。

「モスボールについては分かりました」矢倉は頷いた。


「次に金融工学の話だな。金融工学は何も大袈裟なものでは無い。今の言葉でいうとデリバティブのようなものだ。今と違うのは、ネオ・トゥーレがそれを始めたのは第二次大戦後間もなくだったということだ。誰も同じことをやっておらず、競争相手もいない。幾らでも金は増えていったよ。


 金融の世界を海に例えれば分かりやすい。世界中の金融資産のほとんどは株券や債券などの実体のない紙切れだ。そして電子化の名のもとに、それらは最早紙切れでさえないただの数字になった。

 ネオ・トゥーレはそんな広大な数字の海の中に潜む潜水艦だ。駆逐艦もいなければ、機雷源も無い海で、潜水艦はどこにでも移動し、敵の領海の奥深くまで侵入して攻撃ができる。負ける訳がない。


 かねというのは全く不思議なものだ。一旦増え始めた金は減る事は無い。増える一方だ。難しいことなど考える必要は無い。

 1千万円の元手で、1千万円の利益を得るのは難しい。しかし1億円の元手で、1千万円の利益を得るのは容易たやすい事だ。

 年利10%の金融商品があるとしよう。もしもそれを50年運用したらどうなると思う? なんと金利だけで元金の120倍にもなる。


 もう一つ付け加えると、金は額が大きくなると、額面以上の働きをし始める。1千万円の金は1千万円の働きしかしないが、1億円の金には2億円、3億円に匹敵した働きをさせることができる。

 1千億円、1兆円と額面が増えるその程効率は良くなる。そして金はある一定の額――別の言い方をすれば、世界中の金に占める一定のシェア――を越えた途端に、力に変わる。


 かつてナチスは連合国側の経済を混乱させるために、精巧な偽札を作った。しかし最早そんなことなどする必要は無い。金融の海の中では、偽札よりもずっと効率よく経済の混乱を引き起こせる。コンピュータの数字の末尾に0を一つ足し引きするだけで、かねは10倍にも10分の1にもできるからだ。


 誰が金融の仕組みを作ったのかと言えば、それは他ならぬユダヤ資本だ。ナチスはかつてユダヤ人を迫害し、排斥した。それは経済の血液たる金融を握っている、ユダヤ資本の力を恐れていたからだ。しかしナチスのユダヤ人に対する認識は間違っていた。ユダヤ資本を司っているのは、ユダヤ人ではない。彼らは元の仕組みを考案しただけの発明者だ。


 ではユダヤ資本とは何なのか? 敢えて言えば世界中の人間の心の中にある、ユダヤ的思考の総体がそうだと言える。ナチスは自らもユダヤ資本の構成員であることに、気が付いていなかったのだ。


 最後にもう一度言っておこう。我々ネオ・トゥーレは第四帝国に代わる存在として、ここで伊404とV2をモスボールし、そして黙々と利殖を続けてきただけだ。これまでもそうだし、そしてこれからもずっとだ」


 話し終えたカルロスは矢倉と視線を交えた。それは、これで話は全てだという仕草に見えた。


「あなたはまだ私に、重要なことを隠している」

 矢倉は言った。

「何を隠しているというのだ?」

「ザビアという毒ガスも、ここに大事に保管されているのではないのですか?」

「――なぜ、お前がザビアの事を知っている?」

「一緒に捕えられた菅野から聞いたのです。伊220はナチスの奸計によって、毒ガスの運搬を手伝わされていた恐れがあると。あなた達が今、伊404とV2を維持しているのは、いつかそれを使ってザビアを撒こうとしているからではないのですか? 

 ネオ・トゥーレはナチスとは違うと言いながら、ナチスに取って代わって第四帝国を建国しようとしており、利殖はその軍資金を稼ぐ手段。違いますか?」


「それはネオ・トゥーレの根本思想に関わる話だ。私が答えるべき事ではない」

「誰なら答えてくれるのですか?」

「君には明日、ディータに会ってもらうつもりだ。彼からその答えを聞けば良いだろう」

 カルロスは矢倉に告げた。



――第十四章、終わり――

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