送って、迎えて

 一人暮らしをしていると、正直、実家にいる時よりは余程快適に過ごせている、と常々思う。何しろ、生活リズムを全て自身のいいようにコントロール出来るわけだし、壁一枚向こうには見知らぬ他人がいるにせよ、幸いにも上下左右ともに不快な住人は入居していない、となれば、時折騒がしい弟が隣の部屋にいるよりは、余程落ち着くわけで。

 だから、残業がないのをいいことに、こうして部屋でのんびりと借りた本に没頭しようと思えるのだが、つい時間を忘れてしまうのも、良くある話となってしまって。

 「……もう、十一時過ぎか」

 漫然と、BGM代わりに流していたFMの時報を耳にして、僕はようやく顔を上げた。

 彼女が気に入った二人掛けのソファに、適当に足を投げ出して座っていた姿勢から腕を上げると、軽く伸びをする。手にしていたのは、シリーズ四冊目の『濃藍のうらんの宵』で、丁度佳境に入ってきたところなのだが、とりあえずセンターテーブルの上に開いたまま伏せて置いてしまった。続きより何より、少々気になることがあるからだ。

 いつ何が来ても、即座に反応できるように、フリースのジップジャケットのポケットに入れておいた携帯を取り出すと、音を立ててそれを開く。

 液晶には、当然ながらメールアイコンも着信履歴も表示されておらず、僕は息を吐いた。帰りには連絡をするように、と頼んでおいたのだが、まだお開きとはなっていないらしい。

 今日は二月十日、火曜日。明日が祝日だから、というので、市民税担当では例年通りに宴会が行われている。いよいよ申告の時期に入るということで、繁忙期に入る前に親睦会、というのが慣例なのだそうだ。

 それを聞いていたので、今朝、通勤の電車の中で、遅くなるようなら駅に着いた時点でメールなりをくれれば、帰りは送るから、と、かなり強めに言っておいたのだ。

 というのは、川名さんから聞いたところによると、彼女はことに酒に弱いらしく、ふと気付けば船を漕いでいることが多いらしい。一定時間で醒めはするらしいが。

 内野さんに、ちゃんと見とくから、と言われはしたものの、やはり心配で。

 そんな思考に反応したかのように、ふいに携帯が着信音を鳴らす。デフォルトのままにしてあるそれは、電話の着信音だ。

 すぐさま液晶画面を見ると、驚いたことに『倉田くらた孝人たかひと』と表示されている。嫌な予感に背中を撫でられつつも、僕は素早く通話ボタンを押した。

 「はい、森谷ですが」

 『あ、良かった起きてたー。倉田です、夜分にほんとごめんねー』

 「いえ、いつも日が変わる頃までは起きてますから。それより、何事ですか?」

 そう尋ねながら、倉田さんの声に重なるようにして、ごく聞き慣れたアナウンスが耳に入ってきた。どうやら、藤宮の駅にいるようだ。

 『ああ、それがねー、早瀬さんのことなんだけど』

 「やっぱりそうですか。どうしたんですか?」

 『うん、俺、同じ沿線だから、って一緒に来たのはいいんだけど、彼女油断するとまた眠っちゃいそうな状態でさー、一緒に上橋端までは行けるんだけど』

 それから、簡単に説明された状況とは、こういうことだった。

 普段飲み付けない日本酒を彼女が口にしたところ、案の定眠気に襲われたのだが、一旦醒めたようだったので、一緒に駅までやってきたところ、暖かさのせいか、またもや元の状態に、という次第らしい。……結構、難儀な体質なようだ。

 『それで、乗り継ぎの関係で出来れば次の準急に乗ったまま帰りたいんだよ。だから、凄く申し訳ないんだけど、駅で彼女を回収してもらって、送ってあげてくれないかな?』

 「ああ、構いませんよ。どのみち明日は休みですし、お安いご用です」

 ためらうことなくそう請け負ってから、乗る電車の時刻と乗車位置を聞いて、到着予定時刻を調べながら、寒いのにごめんねー、とすまなさそうに言ってくる倉田さんに、思いついたことを聞いてみることにした。

 「あの……早瀬さんに、誰かことさらに飲ませてませんでしたか?」

 『え?ああ、それが川名さんが途中で乱入してきてねー、それは全然構わないんだけど、あの子誰彼なく勧めるから、早瀬さんも巻き添え食らったんじゃないかなあ』

 ……なんてことをしてくれてるんだ、全く。

 市民税担当は良識派が多いから安心していたのに、そんな遊撃を食らっているとは。

 ともかく、倉田さんにお疲れ様です、と告げて通話を切ると、僕は早速迎えに出るため、手早く身支度を始めた。元よりそうするつもりだったから、ネルのシャツにジーンズ、というごく簡単な服装のままでいたので、羽織っていたジャケットを脱いで、黒のコートに変えてしまうと、定期と携帯、鍵、そして一応財布をポケットに突っ込めば、完了だ。

 僕の家からは駅まで徒歩六分、というところだから、ホームに降りる時間も考慮するともたもたはしていられない。スニーカーに足を突っ込むと、素早く施錠して家を出る。

 出る時に思いつきで掴んできたマフラーを適当に首に巻き付けながら、まだ肌に沁みるような冷気に、軽く肩を上下させる。こんな寒さでは、それでなくても心配だというのに。

 苦々しい思いを抱えながら、僕は今朝、早瀬さんと交わした会話を思い返していた。



 先日、内野さんが言い出した、『誤った噂の修正作業』については、あの通りの内容で、じわじわと全庁舎内に広まっていったらしい。そのおかげで、特に僕は住基担当において、しばらく生暖かい目で見守られるのに耐えなければならなかったが、それも慣れてきて。

 せっかく同じ駅から通勤しているのだから、僕は彼女と行動をともにすることにした。帰りはランダムになりがちだが、行きだけは確実に同じ電車に乗ることが出来る。

 それに、ここまで僕の彼女への想いが周囲にばれてしまっている以上、人目を気にする必要など、もう欠片もなくなってしまったわけで。

 だが、いざ彼女の傍に身を置いてみると、色々な意味で忍耐力を試される羽目になって。

 「す、すみません、ただでさえ混んでるのに……」

 「……いや、構わないけど」

 小さな声でそう言うのに、表面上はどうにか平静を保ちつつ、僕は短くそう応じた。

 とはいえ、触れそうなほどに近く、早瀬さんの顔があるのは、どうにも心臓に悪い。しかも、恥ずかしそうにほんのりと、頬を朱に染めているとなれば、余計に。

 ドアの脇に立っている彼女を、一応人波から守るためとはいえ、半ば腕の中にしているような今の体勢は、ラッシュ時の人波に彼女が流された結果、こうなったものだ。

 いつもなら、吊り革をきっちりと確保しつつ、片手で文庫本を読む、というスタンスで混雑をやり過ごしている彼女だが、今日は勝手が違った。

 途中の停車駅で、常ならぬ家族連れ(しかも、何やら大荷物をそれぞれ抱えていた)が、それこそ砕氷船のような勢いで車内に突っ込んできたのだ。そのあおりを食らった彼女を傍に引き寄せて、避難した先がここだった、というわけなのだが。

 「やっぱり、本は読まないの?」

 「え?はい。というか……この状態じゃ、鞄から取り出すことも出来ないですよね」

 気恥ずかしい沈黙に耐えかねてそう尋ねると、早瀬さんはそう言って、小さく笑った。

 その返事に、馬鹿なことを言ってしまった、と後悔したけれど、すぐに彼女は続けて、

 「森谷さん、もうお貸しした本、結構読み進まれました?」

 「え、ああ、四冊目にかかったところ。幸い、今のところ内容に外れはないね」

 「良かった。来月の頭に新刊が出るので、良ければまたお貸しします」

 「それは有難いんだけど……その時期、忙しいよね?」

 来月の頭、となると、まだ申告時期の真っ最中だ。今年は、二月の十六日から一か月間、庁内に申告会場を別途設置して対応するそうだが、一年に一度のことだから、来庁者数はいつもの比ではない。税務署から回付される資料の処理もあるから、ほぼ連日残業となる、と聞いているし、少しばかり心配で。

 慌てて読まなくてもいいから、と言うと、早瀬さんはふわりと笑って、

 「大丈夫ですよ、土日はきちんとお休みですし。初年度だから、ちょっと不安はあるんですけど、皆さん一緒に頑張ろう、って言ってくださってますし」

 それに、今日は皆で親睦会なんですよ、と、楽しそうに言ってくるのに、僕は少々嫉妬めいた感情を覚えた。食事には何度か一緒に行っているものの、まだ酒の席をともにしたことはない。自身がさほど弱いとは思っていないが、飲んでしまえば、感情も行動も箍が外れてしまいそうな気がして、一歩踏み出せずにいるのに。

 その、いささかねじれた感情が顔に出たのか、早瀬さんは慌てた様子になって、

 「あ、あの、そんなに飲みませんから!前に優理に飲まされて酷い目にあってから懲りましたから!」

 「……何されたの、いったい」

 「ええと、私の家で、社会人としては限界知っとかないと、って言われて、ワインを」

 「どのくらいの量?」

 「……白と赤両方で、気が付いたらフルボトルが二本、空になってました。でも、全部私が飲んだわけじゃないですよ!」

 自爆気味な発言に加えて、優理が強いですから!と必死になって言い訳をするものの、僕は不安が現実になりそうな気がして、抑えきれないため息を漏らすと、

 「今晩、宴会終わったら連絡して。駅まで迎えに行くから」

 「え、でも」

 「反論は却下で。ただでさえ、君は酒に弱いって聞いてるのに、余計に煽るようなこと言われちゃね」

 「そ、そんなつもりでは……じゃあ、早めに帰るようにします」

 「それも却下。適度に二次会とかも参加しておいで、そのへんも大事だから」

 傍から見ている限り、市民税担当は職員同士の仲も良好だし、上司連も悪くない。こういう時でなければ出来ない話、というのは、自分の経験上確かにあるから、嫌でなければ参加するにこしたことはない、と思うからだ。

 そう言うと、早瀬さんは素直に飲み込んだようで、小さく頷くと、

 「先輩としてのご意見、ですね。分かりました、けど……」

 納得はしたものの、まだ遠慮があるように(まあ、当然だろうが)語尾を濁して困っている様子に、僕はわざと口角を上げてみせると、

 「君は、気にしなくていいんだよ。僕がそうしたい、っていうただのわがままだから」

 まだ彼氏でもないというのに、甚だ差し出がましいことをしているのは、分かっている。けれど、こうしてどこか、ふいに付け込んでしまえるような隙が見えると、どうしても、手を伸ばして触れるような真似を、したくもなるというもので。

 「それに、これからの残業時の予行演習と思えばいいよ」

 「だめですよ、そんなの!何回あるか分からないんですから!」

 「それなら、とりあえずお試しに一回くらいなら、構わないだろう?」

 まあ、それでなくたって、適当な理由をつけて迎えには行くつもりなのだが。

 本意をわずかにぼかしつつ、丸め込むようにそう言うと、早瀬さんはしばし悩んだ挙句、観念したように僕を見上げてきた。

 「……風邪、引かないようにしてくださいね?寒いですから」

 「そっちこそ、酒のせいで暑いと勘違いしないように」

 「だから、そんなに飲みませんから!」

 頬を赤くして、さらに言い募って来ようとしているそのさまを、こうやって間近で見ていられることに、ささやかならぬ幸せを感じながら、僕は自然と唇に笑みを刻んでいた。



 振り返ると、半ば押し切って約束しておいて良かった、としみじみ思う。それに、幸い倉田さんという人の良い同僚がいたおかげで、寝過ごして終着駅、などという事態に陥らなくて済んだのだから。まあ、例えそうなったとしても、絶対に迎えには行くつもりだが。

 まだ酔客や、どう見ても高校生と見える集団が歩いている商店街を足早に抜けながら、僕は腕の時計を見やった。今は、午後十一時十二分、そして電車の到着時刻は二十分だ。

 確実に彼女を引き受けるために、より歩くスピードを速める。倉田さんの言っていた、乗り継ぎの関係上、かなりホームの奥の方に乗っているそうだからだ。

 急いたおかげでほどなくロータリーの脇を抜け、コンコースに向かうエスカレーターに乗る。のろのろとしたスピードに身を委ねながらなんとなく眼下に目をやると、客待ちのタクシーのハザードランプが明滅しているのが目に入った。

 徒歩十分なら、あれを使うかもしれないが、徒歩五分じゃなあ……

 ふらふらとした足取りで、一人夜道を帰る姿を想像してしまうと、放っておけるものか、とあらためて思いながら、僕はコンコースを突っ切ると、定期を出して改札を抜けた。

 上りの一番線、と電光掲示の発車標を念のため確認してから、階段を降りる。さすがにこの時間だから、入れ違いに登ってくる客はおらず、ホームには次の先発を待つ人たちがぽつぽつと並んでいる程度だ。

 何に遮られることもなく、倉田さんの言っていた降車位置にあっさりと到達する。と、ポケットに突っ込んでいた携帯が短く着信音を鳴らした。今度は、メールだ。



 From:倉田孝人

 Title:もうすぐ着きます。

 本文:

 ところで、早瀬さんだけど、今はほとんど

 目を覚ましてるから、安心してください。

 彼女、酔ってても意識はあるタイプだから、

 余計に恐縮されちゃって。


 ほんとに、面倒掛けてごめんね。

 俺も、川名さんには、今度釘刺しとくから。

 お詫びに、今度足立くんと、良かったら

 井沢くんも一緒に、飲み誘うね。



 「……お願いしますよ、ほんとに」

 もう時間がさほどないので、既に待機してます、とだけ急いで返信しつつ、僕は呟いた。

 今日のことは、十中八九、川名さんがわざとやったんじゃないか、という気がしてならないのだが、毎度毎度こう都合よく事が運ぶとは思えないだけに、不安が残る。

 それに、単なる独占欲とは自覚しているものの、そんな状態の彼女を誰かに委ねるなど、絶対にしたくないのだ。これが女子ならまだしも、だが。

 さらに深まっている恋心を思い知らされながら、じりじりと電車の到着を待っていると、ようやく聞き慣れた接近メロディが流れ、到着案内のアナウンスが辺りに響くのを聞いて、やっと肩の力を抜く。あとは、彼女を無事に引き受けるだけだ。

 ほどなく、ホームに滑り込んできた準急の動きを目で追いながら、徐々に近付いてくる目的の車両に目を凝らしていると、ドアの窓に張り付くようにしている、早瀬さんの姿が視界に飛び込んできた。向こうも気にしていたのか、こちらの姿を認めると、あ、というように唇が動いて、酷くすまなさそうな表情になるのが見える。


 だから、君が申し訳ないと思うことなんて、ひとつもないっていうのに。


 と、電車は見事なまでにぴたりと降車位置で止まり、音を立てて左右にドアが開く。

 軽く脇に避けた僕の横を、他の乗客が過ぎていく中、やや頼りない足取りで降りてきた早瀬さんは、僕に近付くなり俯き加減になって、消え入りそうな声で言ってきた。

 「……その、ごめんなさい、ご心配をお掛けして」

 「全くだよ。飲みすぎない、って言ったんじゃなかったっけ」

 「そ、そのつもりだったんです!でもあの、優理にちょっと味見してみろって言われて、でもそれが意外と強くてですね!」

 「あー、ごめんお話中。もう電車出ちゃうから悪いけど、彼女のこと頼むねー」

 そう横から掛けられた声に、二人揃って顔を向けると、倉田さんがドア付近に立って、ひらひらと手を振っている。さすがに慌てて礼を告げる間に、チャイムの音とともに扉がぴしゃりと閉まって、早瀬さんが大きく手を振って頭を下げる。

 電車の最後尾が、緩いカーブを曲がって視界から消えるまで見送ってから、僕は彼女に向き直った。思わず、頭の先から足の先までじっと見てしまうと、

 「見た目は大丈夫そうだけど、足元がちょっと怪しい」

 「……そんなに、酔ってないはずなんですけど」

 そう言いながらも、おぼつかなげな様子で何歩か歩いてみせる。予想よりはまともだが、一人で歩かせることなど思いも寄らないから、僕は無言で手を差し出した。

 すると、彼女はうろたえたように、視線をその手に向けたけれど、じっと見据えて促すように手招いてみせると、やがて諦めたのか、おずおずと小さなそれを乗せてきた。

 確かめるように握り締めると、僕は彼女の手を引いて、ゆっくりとホームを歩き始めた。

 何故か、お互いに言葉も出なくて、穏やかな沈黙のままエスカレーターに乗り、改札を抜けて、西口の階段を静かに降りる。手を繋いだままだから、多少ぎこちなくなりながら、それでも離すことなく、彼女はされるままになっていて。

 だが、そんな間にもじっと考えていたのか、駅前ロータリーの脇を抜けかけた時、早瀬さんは僕の方をそっと見上げてくると、窺うように話し出した。

 「あの、今日、皆さんにこれからの繁忙期のこと、色々聞いたんです」

 「……うん」

 「それで、二月はまだそれほどでもないけど、三月中旬になってきたら、ぐんと資料も増えちゃうから、残業が連日になることもある、って聞いて……だから、あの」

 「迎えに来なくていい、って言いたいんだろ?」

 その先を取るように言ってしまうと、彼女はう、と短く声を上げて、それからこくりと頷いた。……全く、そんなことだろうと思った。

 だが、こちらもそうですか、と引くわけにはいかない。僕は空いた手で、ポケットから携帯を取り出すと、すぐにスケジュール帳を開いてみせた。

 「昨年度の市民税担当の残業日数は、三月でおよそ十九日間。おまけに、サーバの稼働時間が午後八時までだから、入力作業もそこで終了せざるを得ない、そうだけど?」

 「……どうして、そこまでご存じなんですか?」

 「倉田さんに聞いた。君がきっと、なんだかんだと理由を付けて断りにかかってくるだろうから、先に端から潰しておこうと思って」

 毎日でもいい、と思っているから、日程も時間帯も何ひとつ苦にはならないし、無事に帰っているかな、と気を揉むよりは、ちゃんと姿を認めて安心する方が余程いい。

 そうこちらの意を伝えると、それでも早瀬さんはかぶりを振って、

 「でも、申し訳ないです、そんなの!森谷さんだって毎日お仕事で疲れてて、なのに」

 それでも一生懸命に翻意させようとしてくるのに、僕は苦笑を返してから、仕方ないな、と口を開いた。

 「そうだな……確実に僕が、お迎えを断念する方法は、あるにはあるよ」

 「え、それは、どんな」

 「君が、本当に嫌だ、と思ってるんなら、それを僕に伝えてくれればいい」

 

 口にしたあとの彼女の表情を認めて、自分でも卑怯だ、と思う。

 狼狽したその唇から、絶対の否定は決して出て来ないだろう、と確信しているから。


 「……嫌じゃ、ないですけど、嫌です」

 いつしか足を止めていた早瀬さんが、さんざん迷いを見せた挙句、零した言葉に、僕は喉を鳴らして笑った。

 「結局、どっち?」

 「だから……こうしてるのは嫌じゃない、って分かるんだけど、そのせいで森谷さんが大変になるのは嫌で。私は職務なんだから当然なのに、当然じゃないことをしてもらう、なんて、凄く身勝手な気がして……」

 「大変になんてならないよ。うちは知っての通り、イレギュラーな業務が入らない限りその場その場で完結しなければならない部署だから、残業になることはほぼないし」

 「……でも、って言っても、もう聞いてくれないんですか?」

 「僕の意思は、とっくに伝えただろう?」

 はっきりと言い切ってしまうと、彼女はふと、泣き出してしまいそうな表情を見せた。

 驚いて目を見張る間に、俯いてしまった早瀬さんが、ぽつりと弱い声を漏らす。

 「……どうして、そこまでしてくれるんですか。今日だって……」

 こんな寒いのに、と、繋いだ手を握り締めてくるのに、熱が灯った気がして。


 手を伸ばして、さらさらとした髪に触れると、宥めるように優しく撫でる。

 今、これ以上触れてしまったら、何もかも歯止めが効かなくなりそうだから。


 「もう、言わなくても分かってるって、思ってたけどね」

 「それなら、私の気持ちだって汲んでくれても、いいって思います」

 「うん、汲んではいるけど、それでも自分のやりたいようにさせてもらうから」

 「なにそれ。ほんとに、わがままじゃないですか」

 ちょっと怒ったようにそう言って、やっと顔を上げてきたのにほっとしながらも、僕は彼女の手を引いて、またゆっくりと歩き始めた。

 まだ、好きになって貰えたなどと、自惚れる気にはさすがになれない。

 けれど、こうして向けてくれる気持ちだけでも、十分過ぎるほどに嬉しくて。

 肌にまとわりつく冷気を逃がすように、白い息を、空に向かって細く吐き出しながら、僕は手の中の小さな温もりを守るように、預けられたその手を柔らかく握り込んだ。



 そして、翌日。

 昨日のお詫びに、と、モーニングを奢ります、と誘われるままに、駅前で待ち合わせて。

 泣き出しそうになっていたことが恥ずかしいのか、顔を合わせるなり挨拶もそこそこに、早瀬さんは勢いよく言い募ってきた。

 「あの、昨日は……酔ってたんです!酔ってたんですからね!」

 「でも、酔うと人間、素が出るとも言うよね」

 「……もう、遅くなったって連絡とかしないですから」

 「いいよ、帰ってくるまで延々、西口で待ち続けるからね」

 「わー!それだけはやめてください!」

 などと、昨夜の余韻も吹き飛ばしてしまうような、そんなやりとりをしたりして。

 ……結局、今の関係も、結構気に入ってるんだろうな、僕は。

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