左手の親指


 泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていた。


 目を覚ました響平が最初に感じたのは、胸の辺りの圧迫感あっぱくかんだった。うつ伏せで寝ていたので、豊乳が自分の体に押し潰される形になってしまっていたのだ。ブラジャーも着けていないので、床の感触が胸の先端部に伝わってくる。

 

 「俺の、胸……」

 

 そう呟くと、響平は少しだけ安堵あんどした。

 相変わらず翡翠美の幼げな声のままだったが、さっきまでの女言葉は、元に戻っている。響平は口元に手を添え、自分の思い通り言葉を話せる喜びを感じていた。

 

 「俺は響平だ……! 翡翠美なんかじゃないっ!」

 

 自分に言い聞かせる。


 「どれだけの時間、眠っていたんだ……?」


 響平は、のっそりと体を起こして床に座り、窓の外を眺めた。もう夕方を過ぎて、そろそろ夜になろうとしている。だいたい6時、7時ごろだろうと推測できる。

 時間の経過を体感し終えると、次に意識は、のどの方へと向いた。

 

 「水っ……。水が……飲みたい……」

 

 この体になってから現在まで、飲まず食わず。空腹ではなかったが、寝起きの体は激しく水分をほっしていた。

 立ち上がる気力はまだない。四つん這いのまま、のそのそとキッチンシンクのそばにある小さな冷蔵庫へと向かう。翡翠美の家のたくわえだが、今の響平の頭には冷たい水のことしかない。

 

 「あった……!」

 

 白い冷蔵庫を開くと、中には500ミリリットルの飲料水が3本あった。その中の一つを乱暴に掴み、ペットボトルのキャップを開け、急いで喉の奥まで流し込む。

 

 「んぐっ、んっ、んっ……。ぷはっ!」

 

 口からこぼれ、胸の谷間へと流れていく水も気にせずに、響平は豪快に飲んだ。五臓六腑ごぞうろっぷに水が染みわたるのを感じ、全身に力が戻ってくる。少し寝ぼけていた頭も、徐々にはっきりとしてきた。

 

 「はぁ、はぁ……。ふぅ……」

 

 ペットボトルの蓋を閉め、元の場所に戻す。改めて冷蔵庫の中を見ると、飲料水の他にはヨーグルトやゼリー、そして異様な数の保存用ビニール袋が入っていた。

 

 「ん……?」

 

 不思議に思って、響平はビニール袋を一つ取り出してみた。

 本来ならば、食材を密閉みっぺいして鮮度を保つために使うものだ。しかし、その中に入っていたのは……。

 

 「潰れた……紙パック……?」

 

 自販機で売っているような、リンゴジュースの紙パックだ。ストローが刺さったまま、握り潰されている。中にジュースが残っている様子はなく、明らかにゴミだ。

 

 「なんでこんな物が、冷蔵庫に保管ほかんしてあるんだ……?」

 

 よく見ると、ビニール袋には丁寧に日付ひづけまで書いてあった。書かれていた日付は、ちょうど昨日。


 「え……!?」


 突如、また嫌な予感がする。

 予感が外れるように願いながら、響平は他のビニール袋もいくつか取り出した。中に入っていたのは、空き缶、空のペットボトル、紙コップ、アイスの棒、使用済みの割り箸だ。そしてやっぱり、それぞれの袋には日付が書かれていた。


 「これ……もしかして、俺が捨てたゴミ!?」


 確かに昨日、響平はリンゴジュースを飲み、紙パックを公園のゴミ箱に捨てた。そして、ストローを刺したままそれを握り潰したことも覚えている。

 

 「うわぁっ!? 全部拾ってたのか、あいつ!」

 

 再び紙パックを拾いあげ、確認する。……間違いない。


 「何を考えて、こんなものを……」

 

 気味が悪くなって、響平はそれを部屋のゴミ箱に放り投げようとした。しかし、身体がそれに対してビクンと拒否反応を示した。

 

 「はぁっ、はぁっ……! う、ウソだろ!? 正気しょうきか!?」

 

 体の奥底から、フツフツと湧き上がる興奮。顔を紅潮させ、昨日自分が捨てたゴミに向けて発情している。心では拒否していても、『翡翠美』の体がそれを欲していた。

 

 「あぁっ、やめろ……!! ダメだっ!!」

 

 『翡翠美』はビニール袋を開け、中のゴミを取り出した。

 口では嫌がっているが、彼女の顔はもう、劣情が抑えきれていない。『翡翠美』は生唾なまつばをゴクリと飲み込むと、ストローの先を自分の口へと運んだ。


 「んむっ……。ずずっ……」


 当然、ストローを吸ってもジュースは出てこない。しかし、頭はフワフワと気持ちよくなって、一瞬にして意識が飛んだ。

 

 「はぁん……。俺……私……、キョウくんと……間接……きひゅ……」

 

 『翡翠美』は恍惚こうこつの表情をしながら、とろけるように甘い言葉をつむいだ。このまま、骨のずいまで『翡翠美』と同調してしまっても良いとさえ思えた。

 しかし、薄れゆく意識の中ギリギリのところで、響平は踏み止まった。

 

 「ち、違うっ……! 俺っ、俺は、響平だっ!」

 

 と、ストーカー女は叫んだ。そして、そばにあったゴミ箱に、手に持っている紙パックを放り投げた。

 

 「ふぅー……、ふぅー……! 危なかった……!!」

 

 響平は冷蔵庫から全てのゴミを取り出し、まとめてゴミ箱に押し込んだ。あまりの数に、許容量きょようりょうを超えたゴミ箱に山ができている。


 「こ、これでよし……!」


 ……勝ったと思った。

 『翡翠美』の体から湧き起こる欲求に、自分の強い心が打ち勝つことができた、と。この時は思っていた。

 立ち上がり、さっきの写真で埋め尽くされた壁のところへ向かう。響平は、ある決心をしていた。

 

 「全部捨ててやる! この部屋にある、俺に関するものを、全部!」

 

 しかし響平は、その道中にある姿見の前で立ち止まった。もちろん、そこには『翡翠美』が映っている。

 そして彼女は、今の自分が無意識でやっている行動に、愕然がくぜんとした。


 「……ちゅぱっ」


 自分の、左手の親指をしゃぶっている。

 二十歳はたちに近い女が、赤ん坊や小さな子供のように、物欲ものほしそうな目をして指をくわえている。

 

 「あ……! ああっ!? うわっ!!」

 

 慌てて、左手を口から離した。勢い良く口から出したので、唾液だえきが糸を引いている。

 すると、また心臓の鼓動が速くなって、さっき抑え込むことに成功した感情が戻ってきてしまった。


 (キョウくんと、また、間接きしゅ、したいよぅ……)


 視線は勝手に、ゴミ箱の方へと向いた。あそこから紙パックを掘り起こせば、またキョウくんと間接キスができる……。そんなイビツな欲求が、心の中からドロリと溢れ出てきた。

 

 「落ち着けっ! あれはただのゴミだ! 収まれっ……!」

 

 自分にそう言い聞かせるが、発情は収まらない。葛藤はだんだん身体に悪影響をもたらし、息が苦しくなっていった。

 

 「けほっ! ゲホゲホッ!!」

 

 体は心の制止に真っ向から反対し、気管支きかんし反旗はんきひるがえしてきた。苦しみに耐えながら、響平は苦肉の策として、また自分の口に左手の親指を入れた。


 「ちゅむっ……」


 すると、心の中のざわめきは、スッと消えていった。さっきまで暴走していた肉体は落ち着きを取り戻し、だんだん言うことを聞くようになっていく。鏡の中の自分は恥ずかしい姿だが、響平はもう、この指を咥えるという恥ずかしい行為にすがるしかなかった。


 (く、くそっ! 興奮を抑えるには、指を咥えてなくちゃいけないなんて……! 一体どうなってるんだよ、こいつの体は……!)


 *


 指を咥えたままフラフラと歩き、窓のそばへ向かう。見ているのは、『響平』の部屋の扉だ。

 

 (あいつ、もう帰ってきてるのかな……)

 

 元の自分の体も心配だったが、一番心配なのは芽衣子のことだった。翡翠美が響平に成り済まして、芽衣子に何をするつもりなのか。あらゆる嫌なイメージが、頭に浮かんだ。

 

 「やっぱり、あそこへ行くしかない……!」

 

 響平は、目が覚めたら『翡翠美』になっていたことを、芽衣子に話そうと決めた。事情を話せば、芽衣子ならきっと分かってくれるはずだと信じていた。元に戻るための協力をしてくれるかもしれない、と。


 「こんな姿になっても、芽衣子なら俺だって分かってくれるハズだ……!」


 響平は、芽衣子の家に行くための準備を始めた。

 クローゼットからブラジャーを取り出し、キャミソールワンピースを脱ぐ。『翡翠美』の胸は大きく、苦しくないように収めるのは手間が掛かった。鏡を見て、柔らかい胸をグイグイと押し込みながら、ようやくブラジャーを着け終えると、今度は洋服を調達しようと、そばにあったタンスの引き出しを開けた。

 

 「ん……? なんだ、これ」

 

 そこに洋服はなく、あったのは黒いトランシーバーのような機械だった。しっかりとイヤホンが繋いである。

 可愛い小物で統一してあるこの部屋では、それはなかなか異質な存在だった。

 

 「まさか、これって……」

 

 響平はイヤホンを耳に付け、その機械の電源を入れた。

 悲しくも、その「まさか」は的中してしまったようだ。


 「キョウくん、美味しかった?」

 「ああ、美味しかったよ。芽衣子は料理上手だなぁ」


 イヤホンの向こうから聞こえてきたのは、男女の会話だった。


 (俺と、芽衣子の声だ……!)

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