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 ぎーごぎーご、ぎーごぎーご。錆び付いたチェーンが軋み、足が軋み、されど進む速度は変わらない。誠二郎が、家族の誰も使わなくなった自転車を引っ張り出してまで遠出をしている理由は、特筆すべきものでもない。本を買いに行くのだ。うだるような暑さの中、背中に、額に、じわりと浮かぶ汗は不快感を増徴させ、先日感じたばかりの爽快感はどこかへと消え去ってしまう。だと言うのに、誠二郎は自転車を走らせる。見上げれば、雲はほとんど動かず、なのに漕げば漕ぐほど、前方から風が押し寄せてくる。すぐ隣を軽トラックが走り抜けた。ごぅごぅごぅごぅ。すれ違った瞬間、頬を切る涼しげな風。それは傾いていた重心をさらに傾かせ、ついには足をついてしまった。こんなことなら、バイクでも良い、免許を取っておくのだった。兄に頼めば付き合ってくれただろうか。

 先日、喫茶店で、読書が好きなのであろう女性と出会った。祭りで浮かれていたからだろう。がらにもなく話しかけ、あろうことか会話が弾んでしまった。女性の語る言葉は一つ一つが耳に新しいもので、おそらく家にいる間は聞くことのない、壮麗で、透き通ったものばかり。さらに、よく思い返せば美人であった。前髪で目元は隠れていたが、時折笑顔を覗かせた。その際、前髪が揺れ、ほんの少しだけれど素顔が顕わになる。ああ、綺麗だった。女性が笑顔をこぼす瞬間。質素な喫茶店の一席には、確かに花が咲いていた。そして誠二郎は、その、笑顔の素晴らしい女性に恋をした。今こうして自転車を走らせているのも、元を辿ればその女性との出会いが理由である。

 『盲獣』。江戸川乱歩が世に残した小説。誠二郎は、自らが口にした「自分で探す」という発言を忘れぬ内に、この手に収めてしまおうとしたのだ。しかし、これがなかなか難しいもので、古過ぎるのか、近場の書店ではどれだけ探しても見つからなかった。ならばと隣町を目指すのだが、自転車は錆びていて思ったように漕げず、己の運動不足を呪った。こんなことならバスや電車を使えば良かった。隣町でも見つからない可能性があるからと、ある程度動き回れる自転車を用いる。その考えは間違ってはいない。だが、誠二郎の体力を計算に入れていなかった。いいや、それだけではないだろう。おそらく、ここでも浮かれていたのだ。誠二郎は読書を嗜まぬ身。常と異なる行動を起こせば、少なからず気分が高揚するものだ。それも、美人との約束となればなおさらである。

 なんて単純で、阿呆なのか。

 立ち止まるのもほどほどに、誠二郎は再び自転車を漕ぎ始めた。ぶろろろろ。その横を、バイクが走り抜けた。



 早めに行動を起こしたのが功を奏し、隣町の書店に着いたのは昼前だった。家からであれば、隣町においてここが最も近い書店である。ここで見つかるのが最善だが、近場四箇所で見つからなかったことを考えると、ここにも無いモノとして考えた方が精神衛生上、よろしいだろう。

 サドルから腰を下ろし、周囲を見渡しても駐輪場が無いことを確認する。こんなおんぼろ自転車、盗む者もいまい。鍵をかけるのが面倒で、道端に立てかけるだけにした。かごの中に放っておいた財布を手に、自動ドアの前に立つ。自動ドアだ。その前に立てば開くはずなのだが、向こう側が透けて見えるそのドアは、一向に開く気配を見せない。こういう時はどうするのが良いのだったか。うさぎのように跳ねるか。そこそこ歩行者がいる場で、そんな真似、恥ずかしさが極まるのだが。

 誠二郎が立ち往生していたのはほんの数秒のことであったが、その内に人がやってきた。歳は十五、六くらいの女の子であった。

「この自動ドア、開かないんじゃろ。ほいで立ちっぱなン、目立っちゃる」

 随分と訛りがキツい。じじいのような語尾から、広島辺りの方言か。ここからはかなり離れた場所のモノだが、親の都合で引っ越してきた、なんて事情があるのだろうか。

「これなァ、跳ねるんよ。ぴょん、ぴょーんって。うさぎみたいに。ほれ、せーの」

 ぴょん、ぴょん。女の子はセーラー服であるのに、勢い良く跳ねるものだから、いろいろと落ち着かない。今も落ちる瞬間、スカートの端がふわりと浮かび上がる。

「何しとる、お兄さんも」

 急かされるが、先ほども思ったとおりに恥ずかしい。だが既に往来の目は集まっている。ならば同じことか、と思い直し、脚に力を入れ跳ねた。すると、センサーが反応したのか、それまで開かなかったドアが無機質な音を立てて開いた。

「ほォ、よかったねえ」

「ああ、ありがとう。だけど、女の子なのに無闇やたらと飛び跳ねるのは良くないと思います」

「下に短パン履いとるけえ、お兄さんみたいな助平はこんなんでも興奮するんか」

 ぴらり、とその端を持ち上げる。不意打ちに面食らい、誠二郎は思わず顔を赤くし、それを悟られまいと背ける。ちらと見れば、確かに短パンを履いていた。

「見るとこは見る、助平の鑑じゃねえ」

「なんてはしたない」

「元気、って言うんよ。ほいじゃあ」

 嵐と形容するに相応しい女の子は、踵を返し駆けて行く。その際にもまた、ふわりとスカートが持ち上がる。きっと慣れているのだろう。見えるか見えないか、素足が目端に映ったかと思えば、紺色の布がそれを遮る。その奥にあるのはただの短パンだというのに、いったい何を期待しているのだろうか。これでは本当に助平だ。

「あ」

 そんなやり取りの間に、自動ドアは閉じている。誠二郎は、今度は一人で飛び跳ねた。うさぎのように、あるいは蛙のように。



 家に着いたのは夕餉も近い頃。自転車を車庫の奥にしまい、玄関ではなく縁側から家の中へ。居間では、ご飯やおかず、味噌汁が並べられているにも関わらず、アイスキャンディーを口にする兄が寝転んでいた。

「おかえり、朝からどこ行ってたん」

「少し、本を買いに。そこらの書店では売ってなかったから、隣町まで行って来た」

「そんで自転車か。阿呆め、言えば連れてったぞ」

 やはり兄を頼るべきだったか。兄ならば、普通自動車の免許を取得しているのだから、車で楽に連れて行ってもらえただろうに。やはり、朝の誠二郎は浮かれていた。それを素直に認めるのが悔しくて、つまらない意地を張った。

「車を留めるところなんて無いんだ」

 嘘ではない。

「で、目当ての本は」

 居間に虫が入らないようにと、網戸だけ閉める。エアコンなんてものが無い誠二郎の家は、夏はいつも網戸一枚しか閉めない。網戸にかけていた手と逆の手には、隣町に幾つかある書店のうち、最も遠い場所の名前が印字された袋があった。

「何買ったんか教えてくれ」

 袋から取り出し、その表紙を見せる。兄は、口の中で溶け切ったのであろう、何も残っていない木の棒板をかじりながら、表紙に目を走らせた。

「『芋虫』ってえのが、お前の読みたかった本なんか」

「本当は違うんだ。『盲獣』、っていうのを探してた。でも、見つからなくて。代わりに、同じ著者の別作品を見つけたから、買ってきた」

 江戸川乱歩著、『芋虫』。誠二郎が手にしたそれは、どうやら短編集のようで、他にも『指』、『踊る一寸法師』、『赤い部屋』などがラインナップにある。これならば、読書に慣れ親しんでいない誠二郎でも、気軽に読むことができるだろう。そんな妥協の結果である。

「そんなに置いてないもんか。なら、諦めてしまえ。本じゃなくても、読むことはできる」

 兄は、立つのでさえ横着し、膝をついたままずりずりと絨毯の上を這いずる。して、固定電話の横に立てかけられていたソレを手に取った。

「最近はな、電子書籍ってもんがある」



 ちりーん。喫茶店内に充満する、厳かな雰囲気を壊さない、控えめなベルの音。それはよく聞けば、風鈴の音に似ていた。以前来た時には特に気にしなかった、外と店内での空気の差異、視線の数、そして何より、誠二郎自身の気の引き締まりよう。ファミレスではこうはならない。喫茶店の持つ独特な世界観が、鼻の、そして口の、目の、耳の、ありとあらゆる穴から内へと入り込んでくる。そして、外を歩いている時は曇っていた視界がくっきりと晴れ、その席に、その姿を見つけた。

「こんにちは、相席、よろしいでしょうか」

 先に四人席に座っていたその女性は、本に落としていた視線をゆっくりと上げ、誠二郎と目を合わせた。

「あら、こんにちは。お久しぶりですね」

 口元に小さく笑みを浮かべ、相席を快く迎え入れる。まず何よりも、誠二郎のことを覚えていてもらえたことにほっとした。たった四時間、向かい合わせの席で言葉を交わした程度の関係だ。その出来事を覚えていても、顔は覚えていない可能性が高い。しかし、そんな不安は女性の一声で霧散してしまう。

「約束どおり、『盲獣』、読み終わりました。お読みになりますか」

「いいえ、それには及びません。僕も、読むことができたので。それにしても、作品自体古いのか、なかなか見つからないものですね」

「そうだと思って、お貸ししようかと思っていたのですが。もしかして、結構お店を回られたのでは」

「はい。近場で四件、隣町まで行って三件ほど」

「ふふ、そこまでしなくてもよろしかったのに。でも、見つけることができて、良かったですね」

 前回に比べ、随分と笑顔が増えた。誠二郎は、この笑顔に惚れたに違いない。

「いいえ、実は、結局見つけることはできなかったのです」

 しかし、その笑顔は一瞬で失せた。代わりに、その表情は疑問符で埋め尽くされる。

「はて、でしたら、どのようにしてお読みになられたのでしょう」

「兄に教えてもらったのですが、最近だと、電子書籍というものがあるのだとか」

 兄に借りたタブレットを、脇に置いた鞄から取り出す。随分と薄く、女性が持つバッグのように大きなものでなくても、多くの書籍を持ち運ぶことができる。兄に教えられた時には、なんて画期的なものが現代に生まれたのかと、夕食に埃がかかると怒られるまで飛び跳ねたものだ。

「これで『盲獣』を購入して、一日で読んでしまいました」

「そう、ですか。電子書籍。そのように便利なものが」

 きっと、女性も興奮しているに違いない。何せ、これを知っていれば、これからは重くかさばる本を、何冊も持ち歩かなくて済むのだ。女にとってそれは、かなりの負担であろう。男である誠二郎でさえ怪しい。だからきっと、女性は笑顔を浮かべるはずだ。しかし、

「残念ですね」

 女性は憂いを口にした。

「ああ、いえ、別に、電子書籍なるモノを否定したわけではありません。しかし、私は『本』という形で読むことの良さを知ってしまったもので。加えて言えば、それを貴方にも知って欲しかった。どうでしょうか。一度読んだのなら、内容はすんなりと理解できるはずです。こちらをお貸ししますので、もう一度、今度は『本』で」

 それは、女性の厚意であろう。丁寧に、両手で持たれた本の題名は『盲獣』。たった一冊であれば軽いそれも、数冊重なれば、こうして支えている白く綺麗な指は負担を強いられる。利便性で考えれば、これからは電子書籍であろう。だが、『本』という形で読むことの良さ、と女性は口にした。ならば、その申し出を無碍にはできない。

 誠二郎はその本を受け取り、結局長居することもなく後にした。



 静かな夜だ。諸々の用事を済ませ、あとは寝るだけとなった状態で、誠二郎は部屋の壁に背中を預け本のページを開いた。初めは気になっていた虫の羽音も、読んでいくうちに気にならなくなる。

 初め、数ページは挿絵と共に、それを抽象する一文がある。それが一〇ページほど続けば、ようやく本編だ。さすがに一度読んだもの、内容の理解に、詰まるところはない。

 読み進め、数十分経った頃か。まずひとつ、電子書籍と紙媒体での違いに気付く。目が疲れにくいのだ。常に光を目に受ける電子書籍とは違い、紙媒体はまだ優しいと言える。それでも長時間読み続ければ疲れるのだろうが、その負担は電子書籍と比べるべくもない。さらに読み進めて行けば、妙に開きやすいページを見つけた。

「たぶん、ここはじっくりと読んだ」

 思い浮かべるは、この本を読んでいる女性の姿。そのページは複雑で、難解な言い回しが多く、理解に一苦労だ。そのため、一度ページを繰る手が止まったのだろう。他のページよりも開きやすいのはそのためか。そういったページは、その先にも何度かあった。

 浮かぶ、浮かぶ。女性がこの本を読む情景。どういった気持ちでこのページを読んだのか。端の方にしわがあるように思えるこのページは、その描写に興奮したのか、あるいは恐怖したのか。あの女性の心身が、誠二郎に重なる錯覚さえ起こす。

 ページを繰る速度、その際にページに触れる指先の感覚、折らないようにと繊細に。このページは読みたくない、早く次のページへ。焦る指先はほんの少しだけ折り目をつけた。生々しい性描写が描かれれば、その度に一度手が止まる。顔を赤くしつつも、まじまじと読み込んでしまうあの女性を想像できた。

 本を通じて、女性と繋がっているのがわかる。きっとこれは、電子書籍では共有できない感覚。きっとこれは、彼女が伝えたかった『本』の良さとは、少々異なる。しかし、それでも、誠二郎は『本』で読むことの良さを、自分なりに理解したのだった。

 重なる、重なる、重なる、重なる。体が、心が、ひとつに、ひとつに。一度読んだはずなのに、読み終えた後、誠二郎はまったく別の世界を歩いた気がした。



「これ、ありがとうございました」

 誠二郎に貸した時のように、両の手で差し出す。話自体は短いもので、一晩あれば読み終わってしまうものだ。次の日、逸る気持ちを抑えつつ、彼女が来るであろう時間まで家で何度も読み返した。

「『本』でしか味わえない良さ、わかりました」

 心から思ったことを告げる。それが通じたのだろうか、女性は今まで見たことのない、飛び切りの笑顔を咲かせ、

「そうですか。それは、良かったです」

 誠二郎もまた思う。その笑顔を見るためではなく、心から本を楽しむことができて良かった、と。誰かの為に。それは本来、素晴らしい思想である。しかし、こと本を楽しむことにおいては、それに限らない。誠二郎はこれまで、この女性のために本を読もうとしていた節がある。それが昨日、完全に払拭されたのだ。これでこそ、本当に本の世界に足を踏み入れたと言えよう。

「また何か、お勧めの本があれば貸していただけますか」

「ええ、もちろん、構いません」

 次は、誠二郎が読んだ本を勧められるように。お茶の勉強ではなく、本の勉強でもしようか。そんなことを考えつつ、今日もまた、名も知らぬ女性との談笑に興じる。語る中身は当然、『盲獣』に関するもの。

 この日の誠二郎は、まるで目の前に座る女性を写したかのように、よく笑った。


          『喫茶店の一席』 了

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