第38話 綿菅

 オングルの女の願いは生物として単純なものだった、とディーは語った。

 生きたい、増やしたい。繁栄したい。子を産みたい。


 なぜここまで複雑な機構の生物がこの宇宙に誕生したかといえば、それだけ機構がなければ辛い外的環境に押し潰されて死んでしまうからだ。

 なぜ死ぬのが怖いのかというと、死ぬのが怖くなかった生き物は生き続けることができなかったからだ。

 なぜ辛い想いや苦労をしてまで家庭を作り、子を産み、育てるのは、子を産むということをしてこなかった生物は途切れてしまったからだ。


 人間はそうして産まれた。そうして生きてきた。そうして死んできた。

「おじいちゃんが守ったこの星を、守りたい」

 苔桃はそう言ったという。

 ディーは初めの頃、リリヤを想って苔桃を抱いていたという。リリヤ、愛していた女。故郷に残してきた恋人。忘れえぬ、優しく、美しく、聡明な人物。

 ディーは後ろめたかった。ただひとりの男であるがゆえに愛されているだろうに、自分は抱いている女のことを見ていなかったから。


 だが目の前の相手を見ていなかったのはディーだけではなかった。女、苔桃も同じだった。言うことには、ただ「おじいちゃん」という男に関してのみ。一度として敗北せず、ただひたすらに戦い続け、女たちを守り続けた男のみ。

 そのうちに、ディーは苔桃を愛するようになった。彼女が愛するのが死した男であろうとも、それでも良かろうと、仕方がないと、そう思うようになった。せめて自分が強くなろうと、彼女が愛したという人物の代わりに守り続けてやろうと、そう決意した矢先に女は死んだ。

 遺された子と、己とを見て、ディーは呆然とした。愛する女は死んだ。遺してくれた子はいる。だがその子が愛した女の代わりになるだろうか。なりはしない。女と同じように子どもを愛することはできない。ディーは子への愛し方を知らない。親の愛というものを受けたことがないから。だから石竹と綿菅が双子を引き取ると言い出しても、反対しなかった。

 残ったのは己、そして愛する女が遺した夢だった。

 すなわち、オングルを人で満たすこと。無敵と呼ばれた彼女の伯父が生きていれば実現したであろう世界の実現。そのためには女を孕ませ、子を産ませることが必要なのだ。


「そんな理由があるか」

 話は聞くに堪えず、綿菅は叫んだ。倉庫を改造し直したディーの家の囲炉裏の火が弾けて音を立てた。

 ディーの面を張り飛ばしてやりたかった。だが身体は動かなかった。

 ひとつには、石竹や他の女たちのことを思えば、ただ感情のままに行動するのではなく、冷静にならなければという思いがあったからだが、もうひとつの理由はただディーが恐ろしかったからだ。彼が女を襲っていた理由が、その獣欲を満たすためではなく、本当に子を孕ませるため、人口を増やすためなのだとすれば、当然ながら綿菅もその対象となりえる。どころか、まだ幼い撫子でも、月のものが始まったらその股座を無理矢理に開かせようとするのだろう。

 綿菅は己の腰の鞘に手を伸ばしていた。流石に銃は持ってはこなかったが、狩った獲物をその場で解体するための鉈はいつでも持っている。

 綿菅はオングルの中では体格の良い部類だ。上背は、現在は二番目。ディーを除けばいちばんで、つまり彼が来る前は誰よりも背が高かった。そして上背があるというだけで、綿菅は自分が、周りにいる小柄な女たちよりも男性的な存在であるかのように感じていた。その根源には、女性である石竹に性愛を抱いていることも関係していたかもしれない。理由はともあれ、己が女とはややかけ離れた存在であるかのような自覚があったのは確かだ。

 しかし改めてディーを目の当たりにするとそんな幻想は吹っ飛び、自分は弱い女なのだということを改めて自覚させられた。


 怖かった。

 ただひたすらに怖かったのは、ディーがの腕は綿菅の身体に簡単に届くだろうし、手を広げれば頭を簡単に掴めるだろうということで、肉体的に弱者の立場に立たされることへの恐怖であった。突き詰めれば、その恐怖の根源は、幼い頃に父親に虐待された体験だろう。

 父親は、怖かった。綿菅がどんなに抵抗しても、敵わなかった。あらゆる言葉、あらゆる行動、すべてが意味を為さなかった。すべての抵抗が無駄だということは、自分の生きる意味そのものが無駄そのものであるかのように感じられて、それが一層厭だった。いつも力づくの男で、ちょっとしたことで殴ってきた。


 今のディーの目は、幼い頃に見た父親のそれとまったく同じように見えた。なのに、なのに、ディーはその拳を握り締め、その頭を垂れ、おんおんと泣いた。声をあげて嘆いた。

「おれだって、おれだって、こんなのは間違っているんだって、わかってます」

 でも、だから、どうしろっていうんだ。ディーはすすり泣く。リリヤ、リリヤ、と故郷に残してきたという恋人の名を呼んで。

 女の名を聞いた途端に、綿菅は水を浴びせかけられたかのように冷静になった。

 もし、もし本当にオングルのことを、死んだ苔桃のことを想って女たちを犯したのだとすれば、彼が縋るべきなのは苔桃であるべきだ。呼ぶのはいまは亡き、愛しているはずの妻の名であるべきなのだ。 

 結局は、肉欲に駆られて仕出かしたことに対する言い訳に過ぎない。

 そうは思いながらも、彼をぶん殴ったり、鉈で腰のものを断ち切る気にはならない、その理由はもはや恐怖ではなかった。


 彼の言葉が嘘偽りならば、苔桃もそうだったのかもしれない。ディーは、苔桃は最後まで伯父のことを愛していたと言ったが、それは苔桃の嘘であり、心の底からディーを愛していたのかもしれない。少なくとも、あのときはそうだったじゃないか。転びそうな苔桃を抱きとめたときのふたりは、まるきり夫婦だったじゃないか。優しげに、指を絡ませていたじゃあないか。ああ、おまえだけじゃないんだ。嘘を吐いているのは、本当のことを言えないのは、おまえだけじゃなかったはずなんだ。

「ディーはどうしたの? ディーはどうしたいの?」

 すすり泣くディーと、立ち尽くす綿菅の間に割り込んできたのは、今まで黙って子どもをあやしていた撫子だった。

 びくとディーが反応し、顔をあげる。

「本土に残してきた恋人と結婚したいの? それともオングルで他の誰かとまた結婚したいの?」

 ディーは顔を覆い、呻いた。

 彼は独り言のように言う。幸せな家庭を作りたかった。幼い頃、孤児だった自分のような子どもを生み出さぬように、愛する女と一緒になり、子を育み、幸せに生きたかった。だが本土で愛した女との結婚は許されず、手柄を立てるためにオングルにやってくると戻れなくなった。オングルで新たな愛すべき女を見つけて愛し合った。子を成した。しかし女は死んだ。それから死んだ女の夢を叶えるという言葉を笠に、オングルの女を孕ませ続けた。結局、子を孕ませるばかりで良い父親にはなれなかった。どころか、名前をつけることさえしてやれなかった。名前だけつけて孤児院の前に捨てた親以下だった。


 結局、何がしたかったのかわからなかった。


「何がしたいのか、なんで生きるのか、わからないんだね」そう言って撫子は清白を抱っこしたままディーに近づいた。「じゃあ、おねえちゃんと同じだ」

 そうかもしれない。石竹は、どうやって生きれば良いのかわからなくなっている。だから子どもを育てるのも辛い。

 いや、石竹だけではない。綿菅とて、この生まれ育ったオングルで、何故生きるのかなどということはわからない。他の女たちも、そうだろう。

「でもおねえちゃんは、何をすれば良いのかは知ってるよ」

 そうだ。石竹は己が何をすべきか知っている。何をすれば清白と鈴奈が喜ぶかを知っている。常に正しいことをしてやれるわけではない。今日も子どもたちを泣かせた。我慢しきれずに折檻した。

 それでも、笑顔が見たいと、喜ぶ様が嬉しいと、未来を守りたいと、そうして一生懸命に努力をしている。だから背を撫でる。だから歌を歌う。なぜ生きるのかはわからないが、どうすれば良いのかは知っているのだ。


 ディーは、知らない。


 ぐらと地面が揺れた。

 綿菅は転びそうになった撫子を支えてやる。清白は揺れによる家の軋む音で泣き出したが、撫子がしっかり抱き締めていたため怪我はない。綿菅が負ぶっていた鈴奈は未だ安らかな寝息を立てている。みな無事だ。

 地面の揺れに綿菅も撫子も姿勢を低くしている中、ディーだけがただ一人、真っ直ぐに立っていた。この揺れは、外来種の襲来を告げるもので間違いない。そしてこの揺れの大きさからして、落着した地点はこの場所にかなり近く、数は多数だろう。


 それでもディーは、己が何をすべきかすべてわかっているというように、家を飛び出すと、無敵号へと走っていった。

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