第36話 石竹

 甲高い泣き声が聞こえる。頬を腫らした清白すずしろが泣いている。兄の泣き声に触発された鈴奈すずなも泣いている。

(折檻してしまった)

 ぶるぶると震える己の手を掴んでみれば、掌は真っ赤になっている。大人の自分の手の皮ですら、こうなのだ。殴られた清白は、どんなにか痛かっただろう。親代わりの人間に暴力を振るわれて、どんなにか辛かっただろう。

 こうなったのも撫子なでしこのせいだと思えば、今度は嗚咽を殺してすすり泣く彼女を掴んで手を振り上げていた。


「やめろ」

 振り上げた手を、季節一巡りまえに折られた手首を掴んだのは綿菅わたすげだった。

「触らないで」と無理矢理に引き剥がそうとするが、綿菅の手はしっかと掴んで離さない。なぜ、なぜ邪魔をするのだ。触るな、気持ちが悪い。「やめてよ」

「やめるのはおまえだ」

 咎めるというよりは、むしろ悲しそうなその表情を見た途端に、石竹せきちくは膝から崩れ落ちそうになった。見れば、みなが泣いている。鈴奈や清白だけではない、撫子も、そして石竹自身も大粒の涙が頬を伝っていた。


「ごめんなさい」

 頬を腫らして泣き喚く清白を抱きかかえ、身体を揺すってあやしながら謝罪の言葉を紡ぐ。ごめんなさい、ごめんなさい。その言葉の向かうる先は、言葉を理解できぬ幼児の清白や鈴奈であるはずがなく、撫子や綿菅に向けてのものだった。ごめんなさい、ごめんなさい。

 撫子は身体を震わせ、時々嗚咽を零しつつも、やはり泣いている鈴奈をその両手で取り上げてあやしていた。こんな小さな妹でさえ、文句のひとつも零さずに赤子の世話をしているというのに、いったい自分はどうしてしまったのだろう。

「そんなに気を散らしていると、腹に障るぞ」

 綿菅にそんなふうに言われれば、日毎に大きくなる自分の腹を意識せずにはいられない。


 言うまでもなく、腹の子の種の持ち主はディーだった。股座を無理矢理に開かれたのは一夜限りのことではあったが、その一夜だけで何度も何度も、泣こうが喚こうが容赦なく注ぎ込まれたのだから、身篭ることは不思議ではなかった。

 初め、石竹は懐胎したことに気づいたとき、様々な気持ちが渦巻いた。無理矢理に処女を奪われたことに対する喪失感、子どもを授かったということに対する期待、上手く育てられるだろうか、苔桃の遺児たちと区別なく平等の愛情を注げるだろうかという不安。恐怖。深い恐怖。ただひたすらの恐怖――だがどちらかといえば、不思議と穏やかな気持ちが大きかった。それは女として、母親としての本能なのかもしれないし、子種が死の恐怖に怯えていた自分に訪れた救済のように感じられたからかもしれない。子どもの存在は、あの夜にディーの家へと走ったときに求めていたものまさしくそれだった。

 が、日が経つにつれ、腹が大きくなるにつれ、それはつまり、身体が変化するにつれてということだが、体調がだんだんと悪くなり始めた。初めは軽い頭痛だとか眩暈程度だったが、悪阻が酷くて喉を物が通らない日もあり、貧血で立っていられないときもあった。妊娠時の症状については人からある程度聞き及んでいたが、歯茎が腫れたり、こむら返りを起こしたりなどはよく知らなかった。特に辛いのは便秘の頻度が増えたことだ。

 傍らに夫がいれば、辛い体調の妻を支えてくれたのかもしれない。物理的に力になってくれないとしても、心配してくれているのだと思えば、きっと心の励みになる。だが石竹の傍らにいたのは物語の理想的な家庭の愛する夫ではなく、妹と、最近とみに何を考えているのかわからなくなってきた友、そして自分がいなければ生きていけない手の掛かる幼児だけだったのだ。

 苔桃の遺児の離乳は進んでいたが、固形物が食べられるようになっても乳離れが完全にできたというわけではなかった。ときに乳房を吸いたがるときがあり、騒ぎ立てる。しかも決まって頭痛が酷いときに限り、泣き出すのだ。あるいは自分が、子どもが泣くことを予想して頭痛を発しているのかもしれない。

 元々子どもが好きなわけではなかった。愛しているわけでもなかった。憎らしくないというだけで、ただ、ただ心の底から突き上げてくるように溢れてくる本能で子どもたちに尽くしていた。体調不良でその本能が折れてからは、子どもたちがひどく醜悪なものに見えはじめてきた。食事を与え、排泄物で汚れた服を取り替え、湯浴みをさせ、手や脚を揉んでやり、眠るまで歌を歌ってやる、それらの行為がとても不快に感じるようになったのだ。


 今日の出来事の発端は、石竹が夕餉の準備のために家を空けている間に子どもが泣き出したことだった。妊娠中でも食事の準備という仕事を任せるわけにはいかない。代わりに世話のために家に残っていた撫子が泣き止ませようとしたようだが、上手く行かなかったらしい。石竹が帰ってきたときにも未だ泣き続けていて、不意に怒りが湧いた。撫子を怒鳴りつけて無理矢理に子どもを取り上げ、あやそうとしたが泣き止まなかった。それで、それで、思わず腹が立ち、手を振り上げてしまったのだ。

 同じく仕事から帰ってきた綿菅が止めてくれなければ、自分はどうしていただろう。清白を殴っただけでは飽き足らず、撫子をも殴り、そして泣き声の中でも安らかに眠っていた鈴奈さえもぶん殴っていたかもしれない。それだけではなく、髪を引っ掴んで地面に打ち倒し、踏みつけてさえいたかもしれない。囲炉裏の火に放り込んでいたかもしれない。

「もう駄目だ」

 とりあえず寝ろ、と言われて入った寝台の中で、石竹はすすり泣いた。思えばこれまでは、他人の子どもだからと思えば育てられたのかもしれない。ただひたすらに尽くせたのかもしれない。今となっては、子どもを傷つけるだけで、こんな自分が子を産むことなどできないような気がした。

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