第31話 石竹

 腕の中でふたりの赤子が泣いている。催したわけではないようなので、母の乳を求めているのだろう。子を産んだことのない石竹には、彼らの腹を満たしてやることはできない。


 ふたりともが、苔桃の子である。ひとり目の子を産んですぐに新たな子をもうけたわけではなく、双子なのだ。

 だから、出産のときは本当に大変だった。陣痛が始まったのは週の二日目の火曜日、朝食を終えてすぐの時間帯で、長い冬の短い昼に、皆が仕事に出かけた後だった。出産現場に立ち会ったことのある数少ない女のひとりである綿菅もその類に漏れず、狩りへ出かけてしまっていた。狩り場はある程度決まってはいるものの、獲物の位置とともに移動する綿菅を捕まえるのは楽なことではない。何より出産の場に呼び出しても何の役立たないかもしれない彼女を捕まえる時間が惜しく、石竹はとにかく村に残っていた女たちを掻き集めて出産に望んだ。

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。死にゃあしないって」

 と、痛みに耐えて、いちばん余裕ありそうに振舞っていたのは、当の本人であるところの苔桃であった。

 いざというときにはさ、わたしが自力で出すから気軽にやれば良いよ、ほら、動物も自力で産んで臍の緒噛み千切って胎盤食べちゃうんだし、などと言っていた彼女の言葉を無視し、石竹はどうにかして子を取り上げることに成功したのだが、その直後に腹の中にもうひとり子どもがいることが発覚した。

「道理で重いと思った」

 消えぬ陣痛で脂汗を流しつつも、そんなふうに彼女が冗談めかして言ったのを、石竹はよく覚えている。

 子どもは男の子と女の子の双子だった。最初に取り上げた子がどちらだったかわからなかったことから、そのときの石竹の慌てぶりがよくわかる。結局、苔桃の要望で男の子のほうを兄、女の子のほうを妹にした。

 冬に産まれた子どもたちの名は、待ち遠しい春の花から名づけられた。男の子のほうは清白すずしろ、女の子のほうが鈴奈すずなだ。

 子という、男女を結びつける存在も産まれ、確固とした夫婦となった苔桃とディーとは一緒に住み始めた。それまで苔桃と共に住んでいた綿菅は、夫婦水入らずのところに立ち入っては申し訳ないので、ということで石竹の家に住むようになった。母親が死んでからは幼い撫子とふたりきり、空間を持て余していた家だったのでちょうど良かった。


 清白と鈴奈、ふたりの子が産まれてから、オングルでの生活は大きく変わった。

 苔桃は子育てに集中するようになった。妊娠していて動きが鈍かった頃よりも、さらに家にいる時間は長くなり、観測機器の保全と気象予測という仕事をこなすことが難しくなった。代わりに、と、やはり走り回ることになったのは仕事のない撫子で、気象予測や計算そのものは、オングルの女たちよりもまだしも方程式と機械の扱いに関して知識のあるディーが行うことになった。既に無敵号の騎手と犬の世話を請け負っている彼が苔桃の仕事をも兼任するようになったので、一部の仕事が疎かになり、他の女たちに皺寄せが来ることもあった。

 しかし意外なほど、オングルの女たちは穏やかだった。

 苔桃が子育てのために仕事ができず、代わりに自分たちの仕事が増えたとしても、彼女らが苦言を呈することはほとんどなかった。子どもが産まれたのだから仕方がないと言い、むしろ積極的に苔桃とその子を気遣う様子を見せた。元はディーのことで苔桃に反目していた葉薊のような若い女でさえ、子どもを包む樹皮布を繕ってきたりしてくれた。

 石竹の気苦労も増えた。医者として、身体の弱い赤子が病気や怪我をしていないか毎日のように診察を行い、作る料理は乳の出が良くなるようなものになるように食材を選んでやった。産まれた双子を見たい、抱きたいと詰め寄ってくる女たちを食い止め、赤子に触れる前にはきちんと手や腕を洗うこと、髪が長い者はきちんと袋に包むことなどを義務付けた。頭がぶよぶよしている、便の色が変だ、なぜか赤ん坊の乳首から母乳のようなものが出てくる、などという苔桃の相談に際しては、まさか死んでしまうような病ではないかという恐れで、泣きながら母の遺してくれた覚え書きを読み漁った。

 そうした日々の苦労にも関わらず、まだ不安定に生きている幼いふたりの子どもを見ていると、自分の子でないにも関わらず、不思議と何もかも許せるような気分になれた。

「可愛い、可愛い」

 子どもが産まれて、いちばんの成長を見せたのは撫子かもしれない。これまでは自分より幼い人間がいなかったためだろう、初めての年下の、か弱い存在を前にして、率先して世話を買って出た。七歳になったばかりの子どもに子守りを任せられるわけではなかったが、それでも雑事を請け負ってくれるだけで助かった。

 何もかもが穏やかな日々だった。


 唯一、穏やかでない様相だったのは、当の子どもたちの父親であるディーだったように思う。

 穏やかならぬとはいっても、暴力を振るうわけではない。悪意のある言葉を投げかけるわけでもない。ただその顔には時として沈痛な色が浮かぶ。そして怒りか悲しみかはわからないが、どうにもならぬ情動は彼自身の裡に、裡にと向かっているように見えた。

「後悔があるのかな」

 ふとそんな呟きを漏らしてしまったことがある。そのときは幸いにも場所は石竹の家であり、傍にいたのは綿菅だけだった。

 そんなわけがない、と綿菅は反論した。後悔なんてあるわけない、と。彼女はディーを信頼するようになったらしい。

「ただ……子どもが産まれて戸惑っているだけじゃないのか」

 綿菅も迷う口調なので、ディーの変化を感じ取っていなかったわけではないだろう。不穏な空気を感じていたのかもしれない。

 騎手であり、さらに犬の世話と気象観測とを兼任するようになったディーの仕事は昼夜の区別なく多忙を極める。一部の仕事を他の女たちに肩代わりしてもらっているとはいえ、彼がオングルのほかの誰よりも働いていることは変わらない。彼がオングルにやってきて一年以上経ち、言葉や習慣にはかなり慣れたものの、それでも故郷が恋しくなることもあるだろう。何よりも騎手という、他の女たちの命を守るために最後の盾となるその仕事をたったひとりでこなしているのだから、疲弊の色を露にしてもおかしくはない。

 だが家に帰れば、可愛らしい妻と子が出迎えてくれるものではないのか。その笑顔を見れば、心も身体も癒されるのではないか。そういうものではないのか。家族とは。夫婦とは。愛とは。

 それなのに、なぜそんなに辛そうな顔をするのだ。

「まだ赤子だからな。夜泣きも酷いだろうし……」

 いろいろ大変なこともあるだろうさ、と綿菅は言った。

 なるほど、そうかもしれない。夫婦生活というのは、夢見がちな瞳で空想するほどに楽しいことばかりではないのかもしれない。ディーの場合は、子育てで忙しい妻に気を遣い、できるだけ辛い表情をしないようにしているが、妻子の傍を離れると疲弊が表に出てくるというだけなのだろう。

(それとも、怖くなったのかな)

 愛する女性を見つけた。子を生した。それは彼の心に大きな影響を与えたはずだ。

 オングルに来たばかりの頃とは違い、今や守るものがある身になった。今までは、どうせ本土へ戻れぬならと思って戦っていたのかもしれないが、傍らに愛する者がいる今となっては、騎手として戦い、死ぬことが怖くなったのかもしれない。騎手が怖いという心情は、石竹にもわかる。

 ディーは強い。だがあらゆる外来種を退けるほどに強いわけではない。無敵号が砲弾を受けたり、組み合って騎手席から放り出されたりすることもある。最後には勝つが、勝つまでに傷だらけになることも珍しくはなく、一歩間違えれば死んでいたという戦いも何度も経験している。死ねば、苔桃と子どもたちは父なしで残されてしまう。それが、怖くなったのか。


 外来種が村のすぐ近くに落ちてきたのは、出産から三ヶ月が経った夏の日のことだった。

 ディーがやってきてからしばらくして、外来種の落着位置がだんだんと変化し始めていた。集落に狙いを定めるかのように、赤道付近からだんだんと南よりに推移してきたのだ。オングルの周辺宙域のパワーバランスが崩れて、外来種がオングルに来易くなったのかもしれない。

 落下地点が既に集落の近くなら、無敵号とて集落の近くで戦わざるを得ない。家々の傍で戦った結果、家屋が崩れたり蔵に被害が出たりすることは珍しいことではない。今回も、ディーの駆る無敵号は、巨大な砲塔を持つ鯔型の砲撃を受けて吹っ飛び、家屋の上に落ちた。家屋は倒壊し、中にいた女が死んだ。その家はディー自身の家であり、死んだ女はディー自身の女だった。


 苔桃が死んだ。


 戦場があまりにも村に近く、無敵号が砲弾を受ければ家屋にまで吹っ飛んでくることがわかったのだろう。ふたりの赤子を胸に抱え、何処かに避難しようかとしていたであろうことは死体の様子を見るに予想ができた。

 彼女が身を挺して守ったというわけではないが、腕の中のふたりの赤ん坊は無事だった。

(良かった)

 赤ん坊が生きている。それは何よりのことだ。大人より、赤ん坊のほうが余命が長い。

 子どもが生き残った。しかもふたりとも。それは素晴らしい。それに、そう、ディーの妻となった苔桃が死んだのだから、ディーはまたひとり身になった。新しく他の女が妻になることができ、そうすればまた新しく子が作れる。自分も、ディーの妻になれるかもしれない。子を生せるかもしれない。

(あとは、あとは………)

 どんなにか無理矢理に物事を好意的に捉えようとしても、目の前の光景はただただ見る者を打ちのめすのみである。


 雨が降っていた。


 もはや家屋があったことすら覚束ない、焦げた木材と土塊と獣の皮が撒き散らされた空間の真ん中で、ディーが苔桃の遺体に縋り付いていた。ディーが泣いているのか、叫び声をあげているのか、どんな表情をしているのかさえわからぬような、激しい雨だった。

 いつの間にか、赤ん坊たちと同じように、石竹もぼろぼろと大粒の涙を零していた。幼い頃からの親友である苔桃が死んでしまったことへの喪失感や、愛する妻を失ったディーへの同情、そして母を失った子どもたちへの哀悼。それらの感情は確かにあったが、涙が止まらぬほどに溢れてきた理由は、それだけではなかった。

 もはや苔桃は死んでしまった。だから、彼女を失ったことそのものは、既に過去のことだ。それは、忘れられる。いつか。

 恐るべきは、苔桃の死によって気付かされたことだ。

(あんなに仲睦まじかったのに………)

 なのに、死んでしまった。幸せでも、愛し合っていても、死んでしまう。それが怖い。それが悲しい。


 騎手になって戦って死ぬかもしれない、騎手にならなくても戦いに巻き込まれて死ぬかもしれない。そんなふうに常々死は恐れているが、今このときに感じ始めた感情は、そうした蓋然性に対するものではなかった。

 生きていれば、いつか必ず死ぬ。そんな子ども心に抱いて恐怖と不安で眠れなくなるほどの、自然の摂理に対する恐怖だった。

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