第29話 綿菅

 昨今は自分の家に帰るだけでも気を遣う。綿菅は苔桃とともに暮らしているからだ。

 もちろん苔桃のことそのものを厭うているわけではない。昔は辛いこともあったが、今では良い友人だ。身重であることもあって、自分が助けてやらなければという気にもなる。

 が、ディーの存在が重くのしかかるのである。


 もともとディーのことは好きではなかった。男であるという、ただ一点その理由だけで。いや、己以上に身体が大きくて威圧感があるというのも、嫌悪感を助長させる要因だったやもしれない。

 だが最近の彼を見ていると、よく働く。

 悪い人間ではなかろう。それに友人と恋仲になったのだ。それだけ愛するに足る人間性があるということだろう。そんなふうに思えば、ディーのことも嫌いではなくなってきていた。

 では何が厭なのかと、そう問われて返す答えはひとつしかない。ディーと苔桃は恋仲だ。まだ腹の中にいるとはいえ、子を持つ身なのだから夫婦といっても差支えがない。だからこそ気になるのが、夫婦の営みに出くわしてしまいやしないか、ということである。

 ありがたいことに、今までには一度として、狩りから戻ってきたら家が情事の現場になっていたということはないが、これまでにないからといって、これからもないとは限らない。おかげで家に帰り、何もないという、ただそのことに感謝する癖がついてしまった。


「それは良いことだね」

 そんなふうに応じたのは石竹であった。生きているっていう、それだけで幸せなんだから、感謝しないとね、などと呆とした顔で言い始めるのだから、綿菅の話を断片的にしか聞いていなかったことは明白である。

 ここのところ、彼女は考え事をしていることが多い。包丁を握って料理しているときなどは非常に危なっかしくみえるのだが、手つきはしっかりしているのだから大したものだ。今も肉を目の前にして、包丁一本で器用に切れ込みを入れ、刺身用にと笹身を切り分け、心臓を刳り抜いている。

 最近の石竹の頭の中を支配しているのは、個人的な色恋沙汰に関するものではなく、来月を予定日に控えた出産に関することのようだ。今も捌いている鳥のすぐ傍には、同じく医者であった彼女の母親によって書かれた、赤子を取り上げるための手引書を広げている。

 綿菅は笹身を薄く切り取ったものを皿の中からひとつ摘んで、口に入れた。芯のあるこりこりとした生の肉を味わいつつ、ちらと手引書に視線をやる。書いてある内容だけを見ればそこまで凄惨というわけではないが、文章から実際に起きる事態を想像しようとすると、血の気が引く。狩りで山刀と銃を扱い、獲物を持ち帰ってからは内臓を取り出したり、皮を剥いだりと血腥さいことに関しては日常茶飯事の綿菅であるが、怖いものは怖い。生きているものを殺すわけでも、死んでいるものを加工するわけでもない。生きているか死んでいるか曖昧な存在を、生かさなければならないのだから。


 もうひとつ笹身の刺身を摘もうと伸ばした手が空を切る。皿を移動させていた石竹に、手を叩かれた。

「綿菅も摘み食いなんてしてないで、ちゃんと今のうちに何をやるか確認しておいてよね」

「何を?」

「決まってるでしょ」と石竹は可愛らしく唇を尖らせる。「苔桃の出産のときのこと。わたしひとりじゃ、大変なんだから」

「おまえがしっかりしてれば大丈夫だよ」

「そりゃあ、ちゃんとやるつもりだけど………」

「じゃあおまえ、いま自分が何捌いているのかとか、気付いているのか?」

「鳥?」

「何の?」

「えっと……」

 そう口篭りながら、ちらと視線を捌いているものに向けたのを、綿菅は見逃さなかった。どうやら本当に、自分が何を相手しているのか気付かないままに調理していたらしい。羽は剥がれ、頭は取られて生前の容姿は元々判然とはしないとはいえ、何を捌いているのかわからずに調理できるのだから、流石だ。

 蝦夷梟エゾフクロウだよね、と石竹は言ってから、もう一度まじまじと捌いていたものを見つめなおし、驚いた顔をした。「よく獲れたね……。ちゃんと羽とか爪とか取っておいてある?」

「今さら訊いても遅いぞ」

「取っておいてないの?」

 石竹の慌てた様子に思わず噴き出して、綿菅は蝦夷梟から取り外した爪を見せてやった。「あるに決まってるだろ。もうすぐあいつの子どもが産まれるんだから」

 由来は知らないが、熊、狼、そして梟はオングルでは縁起が良い動物ということになっている。子どもが産まれた年に獲れたそれらの動物の爪や牙から装飾品を作ってやると、その動物の霊魂がその子を守るといわれている。もちろんそんな伝説なんて誰も信じてはいないが、誰もが知っているお話しだ。オングルの伝承というよりは、外来種との戦争が始まって、オングル各地の生き残りが集い、本土出身の人間が知っていた伝承が流入、ごった煮にされた結果だろう。

 それぞれの動物が象徴するものは決まっていて、熊は勇気、狼は友や家族だ。梟の場合は、穏やかな心である。熊や狼はときに力強く、ときに恐ろしく、ときに暴力的な存在であるが、梟は違う。夜は熊や狼でさえも怯えるような夜の帝王でありながら、昼はただただ穏やかだ。強く、それでいてその強さを振り翳さぬような穏やかな心に育って欲しい。梟の爪や嘴を用いた装飾品には、そうした願いが篭められる。ただのお話、迷信とはわかっていても、産まれてくる子に願掛けをすることは悪くない。既に夏が終わり、秋の冷たさが漂う時期である。冬になれば梟も狼も獲れなくなるため、この時期に獲れて幸いであった。もともと梟は珍しいのだ。


「そう」良かった、と石竹はほっと息を吐く。「綿菅が作ってあげるの?」

「まぁ、たぶん」

「それは良いことだね」と笑顔になってから、改めて捌いている対象に向き直り、悩ましげな表情になる。「うぅん、どうしよう。梟って、あんまり料理したことないんだけど………」

「他と同じで良いんじゃないの。刺身にしろよ」

 と言いながら、綿菅はその場で蝦夷梟の爪の装飾品を作り始めることにした。もっとも苦労する、爪に穴を開ける作業は既に終わっているので、後は糸で爪や羽を通し、編み上げれば良い。言うのは簡単で、しかし日頃こんな繊細な作業はしないので、苦労する。

 だいぶん苦労して梟の爪の首飾りが出来上がったのは、石竹が蝦夷梟を捌き終えた頃だった。

 出来たぞ、と言って、料理をしながらもときどき助言をくれた石竹に見せると、うん、良いねと言ってくれた。

「ぶきっちょな綿菅にしては、かっこよくできた」

「一言余計」

 見本に使った熊の牙の首飾りを胸元に収める。いつも身に着けているこれは、石竹の母親から譲り受けたものだ。その年に獲れた獲物から作ったわけではなく、元々は彼女の夫、つまりは石竹の父親の遺品だったそうだが、他の子どもたちが皆持っている動物飾りを持っていない綿菅を憐れに思い、譲ってくれたのだ。今では手放すことはないほどの宝物である。


「もう持っていく?」

 綿菅が梟の爪の飾りを取って甕から立ち上がると、石竹が声をかけてきた。

「まぁ……持っていくのなら早いほうが良いし……」言葉を紡ぎながら、ふと心配になり、改めて自分の作った飾りを見つめる。「これ、ほんとに大丈夫だよな? 変じゃないよな?」

「よく出来ていると思うよ」と石竹が苦笑する。「きっと苔桃も喜ぶから、そんなに心配することなんてないって」

 そうだよな、と飾りを仕舞いなおす。自信がついたわけではないが、一先ず第三者から太鼓判を押してもらえたため、差し出すだけの勇気だけは湧いた。胸元の熊の飾りに服の上から触れる。勇気の象徴だ。この飾りが、自分の欠けた勇気を補ってくれる気がする。


 穏和の象徴を握り締め、綿菅は集会場を出て苔桃と自身の暮らす家へと向かう。軽い足取りでとはいはいかないが、撫子が苔桃のところへ行ったと聞いているため、いつもの心配をしないで良いだけ気分は楽だ。

「苔桃のお腹を触りに行くって言ってたんだけど、迷惑かけないか心配だから、家に帰るんだったら、あの子が何か仕出かさないかちゃんと見ててね」

 石竹はそんなふうに言っていた。幼い撫子が家にいるならば、ふしだらな事態が起きることはないだろう。安全である。

 家に戻ると、苔桃と撫子が囲炉裏の傍で、布団の上に並んで座っていた。撫子は苔桃の腹に手を当てて、もうすぐ産まれてくる腹の子に興味津々という様子である。

「あ、おかえり」

 家に帰ってきた綿菅を見とめて、苔桃が言う。撫子も気付き、おかえりぃ、と大きく手を挙げる。

「いまね、いまね、赤ちゃん返事してたの」

「お腹蹴ってたんだよね」と苔桃が撫子の発言に補足する。

 それは元気で良いな、と応じながら綿菅は家の中を見渡す。苔桃と撫子以外の人間の姿は見えない。本土では台所だの便所だのが家の中にあって、部屋も幾つかに分かれているそうだが、オングルの家は基本的にひとつきりの空間で構成されているので、他の人間がいれば見逃しようがない。

「なにきょろきょろしてんの」と目ざとく撫子が言う。「あ、何か持ってる? お土産があるんでしょ」

「え? お土産?」と苔桃も反応する。

「いや………」

 本当のことを言えば、ふたりだけのときに渡したかった。というのも、苔桃本人に送るわけではないとはいえ、贈り物をするというのは、なんだか非常に恥ずかしいことをしているような気がしたからだ。


 梟の爪と羽の飾りを苔桃に渡す。彼女の顔を見ることができず、撫子へと視線を逸らす。無邪気な撫子は、わぁ、良いなぁ、梟だよね、かっこいい、などと言っている。ぼくにくれるの、え、違うの、けち、と。

「蝦夷梟が撃てたから……もうすぐ生まれるだろう? それで」だから、作ったんだ、と綿菅は回らない頭で必死に言葉を考えて紡いだ。「縁起が良いしな。梟は。穏やかで、良い子に育つっていうし」

「綿菅、ぼくには無いの?」

「無い」

「けち」

 と撫子が膨れるが、仕方が無い。梟の細工をしているときには、撫子のことまで気を回す余裕は無かったのだ。今日ばかりではない。いつでも、苔桃が関わると、子どものときから、そうだった。

 その理由は、苔桃の大切な人だった伯父が、無敵号のかつての騎手だった男が死んだのは、ほとんど綿菅のせいだったからだ。

 綿菅は、苔桃のもっとも大切な伯父が死ぬ原因となった。父親に虐待されていた綿菅を助けようとして、彼女の伯父は死んだのだ。綿菅がいなければ、死ななかったのに、死んでしまった。綿菅が自分の力で逃げ出していれば良かったのに、最初からあんな男は殺しておけば良かったのに、助けを求めたから、友人が大切にしていた人が、誰よりも強い騎手が、綿菅など比べものにならないほど貴重な命がぶつんと切れてしまった。


 そして多くの人間が死んだ。


 誰かが糾弾したわけではない。誰からも非難されたわけでもない。

 だがその事実は、ずっと罪の錨になっていた。

 贖罪しなければいけないと思っていた。

 そもそもが、仕事に狩りを志望したというのもそうした延長からだった。基本が肉体労働なのはどんな仕事で同じだが、危険が発生するのは狩人だけだ。それに狩りは生き物を殺さなければいけない。皮を剥ぎ、骨を除き、内臓を取り出すことは日常茶飯事に行っていることではあるが、それらは常に死んだ生き物に対して行われる行為だ。誰しもが厭う、生き物を殺すことを実行するのは、狩人だけだ。

 だからこそ、綿菅は銃を手にし、狩人の道を選んだ。

 なぜならオングルの人間が幸せに暮らすことが、綿菅のために犠牲になった苔桃の伯父の願いだったからだ。オングルの人間が平和に生活し、愛し合い、子を作り、増えていくこと、それこそが彼の望みだったからだ。女だけになってからは、子を作ることはできなくなったから、せめて女たちを守ってやろうと思った。彼の遺志を継いでやろうと思った。それが彼の死の原因になった自分のできる贖罪のひとつだと思ったから。


 だが、苔桃は笑うのだ。


「ありがとう」

 そう礼を言うのだ。嬉しいな。そう言ってはにかむのだ。


「綿ちゃんも赤ちゃん、触ってみる?」

 恨みなど何処にもないかのように、そんなことを言うのだ。


 大きくなった腹に触れてみても、そこに命があることなどわかりはしない。だがここに赤子が入っているのだと言われれば、とても大事に感じられる。

 苔桃は綿菅のことを、もう恨んでいないのかもしれない。

 家族を亡くしたもの同士、綿菅と苔桃は一緒の家で暮らしたが、いつも笑顔で溢れていて、一度たりとも恨みをぶつけられた覚えなどない。

 だから最初から、そうだったのかもしれない。恨みなどなかったのかもしれない。

 そうした推測は、しかしこの手で直に触れなければ確信にならなかったに違いなかった。

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