第24話 石竹

 ディーがオングルにやってきたばかりの頃は、オングルの南緯四〇度周辺領域は雪と氷に包まれていた。無敵号が鎮座する「壁の穴」付近を除いては、僅かに針葉樹や背の低い潅木、苔が生えている以外にはほとんど植物もなかった。地軸の傾きが大きく、ときに太陽が殆ど地平線すれすれにしか昇らぬ週もあるのだから、当然である。

 しかし、オングルにも夏がある。

 大気組成が安定した惑星において、気温や降水量、植生の変化である季節を作り出す要素は幾つかある。温度を決定するのは、放射だ。基本的には恒星が出す可視領域の放射を受け取る量と、惑星が出す赤外線領域の放射を射出する量による均衡点が、惑星の平均温度となる。

 公転面に対する自転軸の傾きによる恒星放射量の増減、公転の楕円周期軌道が作り出す長軸と短軸における恒星惑星距離の変化、恒星の放射量そのものの変動などであり、たとえば本土ではこの中で特に公転面に対する自転軸の傾きの影響が大きい。本土の惑星は自転軸、つまり自転するときの軸になる線が、公転面、つまり太陽の周囲を回るときに地球が太陽と自身を結ぶ線によって描かれる面から、二十三度強傾いている。ようは傾いた独楽なのだ。そしてこの傾きによって、地球と太陽の距離そのものはほとんど変わらないものの、本土の表面と太陽は位置関係によって距離が変わり、結果として地表面が受け取る太陽放射の量が変化する。つまり受け取るエネルギー量が変化するので、それが気温などの地表面状態に影響を与え、それが季節となる。

 オングルも本土同様に自転軸が公転面から傾いているため、季節がある。また本土に比べて大きな公転半径は、より大きな公転軌道を作り出しており、これが公転面である楕円の長軸と短軸の差を大きくしている。本土でも楕円が公転軌道であるために、惑星そのものが太陽の近くにあるか、それとも遠くにあるかで受け取る放射の絶対量に差があるのだが、この変化は本土では自転軸の傾きによる変化に比べれば小さいため、地表面では実感できない。しかしオングルではこの影響が大きく、暖かい夏と激しい冬に一役買っている。冬では夜間に零下二〇度を下回ることもあったこの集落だが、この夏の時期は、昼間の気温は二〇度を越える。

 本土と比べるとゆっくりとした自転速度に対して、オングルでは公転が早い。公転周期は本土時間でいうと約半年で、つまり本土で季節がひと廻りする間に、オングルでは季節がふた廻りする。年齢の数え方は本土に準拠するオングルではあるため、一年、という表現はあまりせず、季節ひと廻り、ふた廻り、というふうに数える。


 夏と冬、どちらが忙しいかといえば、それは己が就いている職種に依る。たとえば狩りを生業とする綿菅わたすげであれば、冬のほうが楽だと言うかもしれない。夏の狩りはクマだのオオカミだのを警戒する必要があるし、薮蚊はうっとおしい。しかし冬はそうした獣や虫の心配をする必要はない。追う獣も、海豹アザラシにしろ企鵝ペンギンにしろ、いずれも人間を見るや否や逃げるというようなことはなく、むしろこちらがじっとしてさえいれば、物珍しがって近づいてくるようなところがあるため、狩り自体は難しくはなく、吹雪く日に狩りに出なければ楽なものだ。とはいえ一転吹雪ともなれば、生死が危うい。でなくとも、寒さとはそれだけで辛く、苦しいものだ。夏には夏の、冬には冬の苦労がある。

 石竹せきちくの場合はといえば、夏場は医者としての仕事のうち、凍傷の治療をしなくて良くなるため、だいぶん生活に余裕ができる。だからといって怠けていられるわけではなく、食料を採るのを手伝ったり、獲物を加工して保存食や燃料にしたり、また裁縫をしたり、仕事は幾らでもある。

 食料の調達は、特に重要な夏の仕事だ。オングルでの食糧生産の主は、狩猟でも農業でもなく、採取であるが、ほとんどの野菜や果物は春から秋にかけてしか採れない。そのため、日常の仕事として採取作業を行っているのは歳若い葉薊はあざみだが、この時期に比較的手が空いている部類の石竹は、いつも彼女の採取作業を手伝っている。

 男が女と同数いた時代は、狩りといえば男の仕事であった。しかし採取作業は、もともと女の仕事であり、石竹も幼い頃から親や周囲の大人の仕事を手伝っていたため、慣れている。


 森に入ると、様々な植物が取れる。

 例えば地中だ。山刀の柄で土を掘り出すと出てくる焦げ茶色の土豆ツチマメは、真夏になるともう取れない。春先や秋の終わり頃には土を掘り返してよく採った。夏のこの時期では、既に生長し、地上にさやを作っているのだが、これは食べられないのだ。土に埋まっている状態を掘り返すと、美味い。春先に採った土豆は十分な量が保存してある。

 例えば土の上だ。地面からくるりと丸まった芽を伸ばすゼンマイや、掌型の葉から真っ直ぐに天へ天へと伸びる茎を持つアザミは、夏でも採れる。湯掻いてから干しておき、好きな時期に飯と一緒に炊けば良いし、汁物にも入れられる。団子に入れても美味い。団子を作るためには澱粉が必要で、これには葉と同じ鮮やかな緑色の太い茎を持つ、大姥百合オオウバユリの球根を用いる。大姥百合は葉が枯れ気味のものが採れどきなので、茎ごと葉ごと引き抜く。ここから潰したり、水に漬けたりと澱粉を作る作業は苦労するわけだが、とりあえず元となる材料が採れるのは嬉しい。行者大蒜ギョウジャニンニクは香りが強く、葉や茎を切ってご飯と一緒に炊いて食べたりすると、甘くて美味しい。また煮汁は風邪によく効くので、医者の石竹としては最優先で採りたい野草のひとつだ。

 例えば木々に巻きつく蔓の先だ。木の実や果実の類も味の変化をつけるためには大事だ。妹の撫子は蔓に房に生る山葡萄ヤマブドウが好きで、採ってくるとすぐに手を出そうとするのだが、石竹としてもタレやソースを作るために重要なので、困りものだ。

 忘れてはいけないのはアワヒエ、そしてコメだ。オングルでは本土のように整備された田園があるわけではないが、種籾だけを蒔いて自然のままに育ている場所はある。前季節に蒔かれた場所には、ふさふさとした稲穂が群生していて、それを無造作に抜いてから岩に叩きつけて、穂を落とす。収穫時期さえ見誤らなければ、けっこうな量が収穫できる。いちばん多いのが稗で、次が粟とキビ。米の収穫量は多くはなく、基本的には祭日にだけ食べる。

 夏場は食料だけではなく、日用品の材料になったり、薪の原料になる木材も調達できる。また食器を作るために用いる粘土や、刃物を作るための鉱石は、雪のない、いまの時期にしか採れない。


「石竹」

 と声をかけてくるのは、採取ついでの狩りのために同行していた綿菅である。どうやら彼女のほうは、既に狩りを終えたらしい。

「何が獲れたの?」

雷鳥ライチョウウサギ」と綿菅は籠の中を示してみせる。「あとマムシも」

「え、蝮が獲れたの?」

 と思わず石竹は目を輝かせて、籠の中を見れば、確かに白、黄土、焦げ茶色の段々に変化する模様を持った、太い胴体の蛇の姿があった。蝮は匂いはあまり良くないものの、ぶつ切りにしてご飯と一緒に炊くと、滋養強壮がつくのだ。石竹の好物である。

「こっちはとりあえずこれで十分だけど、そっちは終わった?」

「こっちも、だいたい」

 狩りの獲物や採取した野菜などは、採って終わりというわけではない。たとえば獣なら血抜きをして、爪だの牙だのを日用品として扱うために外す必要がある。毛皮は縫い合わせて衣服にしたり、なめしたりする。果実の類は、生でそのまま食べることもあるが、多くは全季節を通して食べられるよう、干したりソースを作ったりをする。


「葉薊ちゃん」

 と帰るために採取担当の少女の名を呼びながら歩くが、なかなか返事がない。叫び声が聞こえなかったので、まさか獣に食われてしまったわけでもあるまいし、さて何処へ行ったのか探し回っていると、ついに森の外周、木々の間隔が薄くなっているところで葉薊の姿を見つけた。

「石竹さん」

 と葉薊も気付いた様子で振り返ったが、しかし心無い様子である。何かあったのか、と問い質す必要はなかった。遠く、集落の方角から響く地響きと共に、無敵号が動き出していた。

「無敵号が………」 

 葉薊が不安そうな声で呟くのに対し、石竹は頷いて返してやる。屋外で活動していた石竹たちが振動を感じなかったのだから、敵はそう近くに落ちたわけではない。集落の周辺が戦場になることはないだろう。だから心配はあるまい。とりあえずは集落に戻って状況を確かめよう。石竹はそう言ってやった。

「不安ではないのですか?」と葉薊が問いかけてくる。

「何が?」

「ディーさんのことです」

 石竹は無敵号の背を視線で追う。緑に満ち満ちている夏でも目立つ、橙と黒の警戒色は既に遠く、見えなくなっていた。


 無敵号の騎手はディーである。昨日もそうだった。一昨日も。その前も。その前も前も。彼は一華いちげが死んだ日以来、たったひとりで騎手の務めを果たしている。

 反対する者はいなかった。否、正確なところを述べれば、最初は反対していた者もいないではなかったが、一華が死んだ日、ディーが実際に戦って見せ続けることで無言の説得を行った結果、納得するようになったというところだろうか。

 あの日、オングルに落着した外来種の三機、石竹たちが今まで見たこともなかったような人とも熊ともとれる形状の多脚戦車は、ディーの駆る無敵号によってすべて破壊された。無敵号はその名称の元となった強靭さゆえに傷一つないのはいつものことであったが、その騎手だったディーは、至近距離で戦いすぎたがために爆風によって生じた熱波や飛び交う破片によって、火傷や切り傷を負った。だが彼は、あの得体の知れない敵相手に、一度として膝をつくことなく戦い抜いたのだ。

 無敵号の騎手に要求される操作は、複雑とは程遠い。ただ騎手席に存在している握りに手を乗せ、敵機のいる方向に圧力をかけてやれば良いだけだ。

 操作が単純ということは、逆にいえば、騎手による差が生じにくいということだ。ただ正しく道を指し示してやるだけ、叩きのめすべき敵を教えてやるだけ。

 そんな単純な行為ではあったが、しかし騎手の生存率は男女で差があり、また歴代の騎手の中には特に生存率の高い人間がいたことも確かだ。過去の人間だと、たとえば苔桃の伯父である。ディーの戦いぶりは、彼に似ていた。

 苔桃が懸念していたように、騎手の座に着こうとするディーを女の手で押し留めようとするのは不可能に近かった。男女の差以上に、体格差がありすぎる。ディーの背はこれまで石竹が見たオングルの男性の誰よりも大きく、腕は誰よりも太いのだ。

 ディーを腕力で止めようとするのは無理だと解りきっていたことだ。言葉の説得は通用せず、おまけに、彼は自分が初めて騎手として戦ったとき、無敵号の騎手として熟練している石竹や綿菅さえも不安を感じるほどの兵力に対し、簡単に撃退して見せたことから、自分の騎手としての適性が他の者よりも高いということを自覚してしまったらしい。実際に戦ってみせる以前は、自身が騎手になったら、無敵号を上手く操りきれずに迷惑をかけてしまうかもしれないという遠慮もあったのだろうが、実戦を経験した後はそんな懸念は無用となっていた。

 また、彼は本土の軍に在籍しているため、外来種に対する知識も豊富であった。彼が初めて戦った相手である、年長の石竹でさえ見たことがなかった多脚戦車、これは熊型と呼ぶことに決めたのだが、その存在をディーは知っていた。


 力では敵わぬディーを押し留めるために、石竹たちはいろいろと道具を使った。綱で縛ってみたり、家の戸を塞いでみたりしたのだが、すべてが無駄なのだ。敵がやってきたと知るや、拘束などまるで存在しないかのように引き千切り、無敵号に乗ってしまうのだ。こうなったら最終手段とばかりに、石竹はオングルの医者に伝わる麻酔薬を使ってディーを戦場に出さないようにしたのだが、それさえも無駄だった。外来種による地震が来た瞬間に打ち込んだのだが、ディーはそれでも無敵号に乗り込んだのだ。あまつさえ、そのまま戦って、勝利を掴んでみせた。さすがに麻酔が効かなかったわけではなかったのか、戦いが終わってすぐに昏倒してしまったが。

 そうして身体を張って戦う様を見せられては、このまま守って欲しいと思わないはずもない。歳若い女たちは、すぐさまディーの側に寝返った。もとより彼女らは石竹が説得しただけで、元は彼が騎手を務めることには賛成だったのだから、仕方がない。だがそれだけではなく、中立の立場だった者や、彼が騎手を勤めることに反対だった者も、男だけが騎手を務めるという体制に賛成するようになった。

 石竹もそのひとりだ。


 守ってくれたのだ。それだけではなく、きみを守るよと、そんなふうに拙いながらも逞しい言葉をかけてくれるのだ。おまけに力尽くでも止められぬとなれば、では仕方がないと、そう自分に言い聞かせて首を縦に振るのも仕方のないことだった。

 最後まで反対していたのは、意外なことに苔桃こけももだった。

 いや、意外ともいえない。思えば、前の話し合いのときも、彼女は直接は言葉にしないまでも、ディーが騎手にならぬように議論を誘導していたように思う。彼女の伯父は、最強の騎手と呼ばれた男だったから、無敵号に関しては誰よりも思い入れがあるのだろう。

 とはいえ、彼女ひとりが反対したとしても、ディーが騎手を続けることは止めようのないことであり、結局彼女も最後には、折れた。ディーはたったひとりで騎手を行うことになった。十数年前、まだ男たちが生きていた頃と同じように。

「不安ではないのですか」

 先ほど葉薊は、そう問うてきた。

「不安なわけ、ない」

 ああ、不安などない。戦いが始まってからは。

 昔からそうだった。男たちが戦いに赴くときは、どうしようもない不安に駆られる。敵を察知し、無敵号にその行く先を示してやるために、騎手席は外に対して開かれている。弾丸が騎手を襲うのではないか、激しい戦闘機動で放り出されるのではないか、倒れた拍子に無敵号に押しつぶされるのではないか、そんな不安のために縋り付いて、押し留めたくなるのだ。最初にディーが騎手席に着いたときは、だからどんな手段を使ってでも止めようとした。

 だが、その騎手が本当に強い騎手なのであれば、戦いが始まるや否や、不思議な安堵感が胸から溢れ出て、不安は消し飛んでしまうのだ。そうして、守られているという安心感に包まれるのだ。


 ディーは大丈夫だろう。かつての最強の騎手と呼ばれた男と同じだ。外来種との戦いでは、負けない。そんな実感が得られるのは、年長であるが故の経験からだった。かつての最強の騎手、苔桃の伯父が生きていた頃、まだ産まれていなかったか物心つかぬ幼児だった葉薊にはわかるまい。

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