第8話 石竹

 はぁと溜め息を吐いてしまうのは、単に毛布が汚れてしまったからだとか、そんな単純な理由のためではない。

「考えれば解るはずなのに………」

 と、独り言さえも自虐的になってしまうのは、己の料理の腕前を過信して愚かしいことをしてしまったからだ。あまつさえ、妹のほうは自分よりもきちんとしていたというのだから、情けない。


 海豹アザラシのシチューを食べたディーは、しばらくしてからそれを全て嘔吐してしまった。

 彼の口の中や鼻の穴を拭い、顎を拭き、衣服や毛布を取り替えてやったところで、「さっきは大丈夫だったのに」という撫子の呟きが聞こえた。

 何か変な物でも食わせたのでは、と問い詰めてみれば、泣きじゃくりながら撫子が指し示したのは、おやつの瓶であった。中身は刳り貫いたサケの目玉だ。口の中でころころと転がして食べる。撫子はこれが好きで、いつも勝手に食べてしまうので、何も書いていない瓶の中に入れておいたのだが、見つけ出してしまったらしい。おそらくは石竹が夜にでも食べているところを見たのだろう。

 生きてきた環境が違えど、同じ人間だ。オングルの食べ物が駄目ということはなかろう。だいいち、鮭は元々本土の生き物だ。ならば撫子が与えた鮭の目玉が原因では有り得ない。

 何のことは無い。原因は石竹の拵えた海豹のシチューであった。一週間もの間、胃に何も入れていなかったのだ。そこに海豹肉がごろんと入ったシチューなどを入れたものだから、胃が吃驚しても不思議ではない。もっと軽いものを食べさせるべきだった。でなければ、鮭の目玉のように舐めていられるようなものを与えれば良かったのだ。その点、妹は正しかった。たとえ無邪気に、何も考えずにとった行動だとしても。動揺する撫子の頭を撫でて、謝った。


「せっかく自己紹介もできたのに………」

 名前を伝え合い、絵で情報交換をして、だいぶん打ち解けたような気がするのだが、人前で嘔吐する姿を見せてしまった恥ずかしさのためか、あるいは作ってもらった料理を目の前ですぐ吐き出してしまったことによる申し訳なさのためか、ディーの表情は陰鬱なものに戻ってしまった。石竹としては、喘ぎながら謝罪の言葉を述べるディーを見て、美形だと嘔吐する姿もなかなか悪くないな、と感心したのだが、もちろんそんなことは言えない。

 いつまでも落ち込んではいられない。炊事場のある集会場に来たのは、ディーに元気になってもらうためだ。ディーに快復してもらうため、食べやすく、なおかつ栄養のあるものを食べさせてあげなければならない。海豹の脂肪なんかではなく。

 でなくても、夕餉の量が心許無かった。石竹はディーのための夕餉を作るため、集会場で朝に作った料理の残りを確認していたところだった。


「朝飯を食べたら、あとは食べなくても良い」という言葉がオングルにはある。石竹の場合、この大事な言葉を母親から教わった。「だから朝食はちゃんと食べなさい」と続く。

 この言葉は朝餉の重要性を示している。実際のところ、オングルでの食習慣は基本的に朝、昼、晩と三食だが、朝作った残りを昼、昼の残りを夜に食べることが多い。特に水や燃料を大量に使う汁物は、朝に作って夕餉まで食べ尽くす。一方でご飯ものは、そのときそのときの食糧事情や皆の食べ具合によって食事前に作ったりもする。主菜はその都度に作ることが多い。しかし冬場の夜、特に吹雪が酷く、外出に苦労する日などは、ご飯物も汁物も一気に作り、それで一日を乗り切ってもらうことにしている。それに、みんなが揃って集会場に来て、囲炉裏を囲んで車座に食事をすることになっているのは、朝だけだ。ほかは個々人の仕事具合に合わせて、めいめいの時間に食事をとる。朝だけは別格で、それだけ大事なのだ。

 今日は風も天候も悪く、でなくとも、ここのところ凍傷を負ったディーの身体を揉み解してやったり、汚れを拭いてやったりするのに時間を使おうと、できるだけ朝に多めに作って昼食と夕餉の手間を省いていたため、今日の食事分としては余裕がある。だが身体の弱っているディーのことを考えれば、新たに何か作り直さなくてはならない。


 集会場は炊事場、食堂、倉庫などの機能が組み合わさった、集落では最も大きな建築物だが、いちばん奥にある炊事場の機能はその中でも特に重要だ。炊事場には煮炊きをするための竃や鍋が並び、近くに置かれた甕や瓶の中には海豹肉や雑穀、野菜などさまざまな食材が蓄えられている。石竹はその中のひとつひとつを見ていきながら、何を作るか考える。

 体調が悪ければ、定番は粥だろうと思うのだが、食べてもらうには少し工夫が必要だろう。稗粥に薙刀香薷ナギナタコウジュの葉と実を加えることにする。この植物は集落の周辺には春から秋にかけて生えるもので、葉は乾燥させるとお茶になるのだが、食事の香り付けにも使える。きつい匂いではなく、すっとするような、清涼感のある匂いなので、食べやすくなるはずだ。一度炙ってから、砕いて稗粥に入れる。薙刀香薷の実は、お湯に浸かると透明な膜を作るのだが、これが喉越しを良くしてくれる。

 ディーのためには薙刀香薷の葉の粥で良いとして、問題は他の女たちへの料理である。粥だけでは、他の女たちに文句を言われてしまうかもしれない。保存庫の中を見て、とりあえず粥に団子を入れることにする。団子は大姥百合オオウバユリの球根を擂り潰して乾燥させ、澱粉を除いた繊維から作る。乾燥させておいた大姥百合の根の繊維に水を加え、そこに細かく切った野菜を加えてから丸めていく。

 粥に団子を入れれば、汁物として朝に作った若布ワカメのお吸い物があるので、後は鮭の丸干しでも有ればちょうど良かろう。

 毎日の献立を考えるのは、楽なことではない。特に冬場は、きちんと栄養を取らなければ、いざというときに動けなくなってしまう。病気にならないためには、食事こそが何よりも重要だ。だから医者が料理を作る。


「団子粥か」

 と声が聞こえたので振り返ってみれば、そこに居たのは石竹と同じく、年長組に属する綿菅が鍋の中を覗き込んでいた。

「厭なら、食べなくても良いんだけど」と石竹は言ってやる。

「そんなことは言ってないだろ」

 と言い返す綿菅は、雪のついた上着を抱えている以外に何も持っていなかった。どうやら今日は何も獲れなかったらしい。というよりも、獲物が獲れる場所まで行けなかったのか。石竹が医者であり、毎日の食事を作るという仕事があるように、綿菅は狩人であり、獲物を狩るという仕事がある。獲物は様々だが、冬は企鵝ペンギンや鮭、馴鹿、海豹などが多い。冬はあまり活発に動く動物がいないので、狩り自体はそう難しくはないのだが、悪天候に見舞われると狩りどころではなくなる。

「吹雪いてきたんだ。もうすぐ春だってのに」と、綿菅は石竹の視線の意味するところに気付いてか、肩を竦める。「吹雪が止んだら働くから、それまでは勘弁してくれ」

 天候ばかりは神のみぞ知るところだ。気象観測を行っている苔桃に言わせれば、天気は予想できるらしいが、残念ながらその予報精度は良くないし、天候を変えることはできない。おかげで未だに南緯六〇度地点まで向かうことはできず、ディー以外の生存者がいないかどうかを確かめることはできていない。


「そういえば、そろそろあの男は何処か別の場所に移したほうが良いんじゃないか? 怪我やら凍傷やらは概ね良くなったんだろう」

 などと綿菅が言い出した。あの男、という表現に該当する人間はひとりしか居ない。ディーである。

「どうして?」

「どうしてって……、あいつは男だろ。目ぇ覚まして何かあったら、危ないだろうに」

 そんなふうに言って、綿菅が眉根を寄せる理由はよく解る。

 ディーは大柄で、体重だけ比べても、石竹の二倍はあるかもしれない。彼を発見したとき、石竹と一華だけで橇に載せるのには苦労したが、そのときは馴鹿の背から無理矢理ずり降ろせば良かっただけなので、二人がかりなら何とかなったが、集落に戻って橇から降ろし、石竹の家の寝台まで持ち上げるのは苦労した。

 それだけ身体の大きな男性だ。いくら隻腕とはいえ、病床とはいえ、何かされたら、女である石竹たちには抵抗のしようがない。思春期を過ぎてからというもの、男性というものに直に触れた経験が無い石竹にとっても、男が女に手を出す、という行為の意味は本や物語などを通して知っている。だから、綿菅が心から心配してくれているというのは理解できた。特に石竹の家は、幼い撫子とふたり暮らしなのだから、なおさら心配ということだろう。

 だがディーは、優しげな男だった。笑えば可愛らしい青年に見えた。酷いことなどするはずがないと思った。だから、「ディーさんは、大丈夫だよ」と言ってやった。 


「あの人、起きたの?」

 という声は石竹でも綿菅でもなく、集会場に入ってきた苔桃が発したものだった。彼女は綿菅にも増して、雪に塗れていて、炊事場に近づくにつれて床が濡れた。

「ちゃんと雪、払ってから入ってきてよ」と言いながら石竹は小柄な彼女の身体から手で雪を除けてやる。苔桃は為されるがままにしていた。

 苔桃の仕事は観測機器の保全と天気予報だ。獲物を貯めておくことができる狩りとは違い、観測機器の保全は毎日やらなければ、いざというとき使えなくなるかもしれない。特に地震計は、外来種が何処に、どれくらいの距離の場所に落ちてきたかを知るための重要な手がかりを齎してくれる、貴重な道具なので、点検は欠かせず、今日のような吹雪の日でも、集落中を周らなければいけないのだ。

「で、なに、さっきディーさんって言ったでしょ。ああ、お腹が減った。それ、あの男の人の名前なんでしょ。じゃあやっぱり、起きたんだね。ご飯、なに?」

 と器用にふたつの話題を交互に行き来させながら、苔桃は問いかけてくる。

「ご飯は、お粥と鮭の丸干し、若布のお吸い物。あと海豹シチューの残りをかけてもいいよ」

「で、ディーさんは? いま、起きてる? 見に行って、触ったりしてもいい?」

 興味津々な様子の苔桃を前にして、石竹は目を逸らしてしまった。


 石竹と苔桃は二十六歳で、綿菅が二十五歳。この三人が集落での年長組だ。その下の年齢は、急に十八歳まで落ちる。石竹たちの世代は、それまで集落を外来種から守り続けていた男がすべて死んだ、ちょうどその頃に大人の仲間入りをした世代である。大人になる、というのは、女の場合は月のものが来るということで、そうすると仕事を割り当てられ、また騎手の当番に入ることになる。当番の日に外来種と戦って、負けた人間が死んでいった。運良く石竹たちは生き残った。淘汰選別されたようなものかもしれない。

 数少ない幼馴染ということで、互いのことは知り抜いている。それだけに、石竹には苔桃の好奇心が気になった。彼女は遠慮の無い性格は、言葉が不自由で、肉体的にも疲弊しきっているディーにはきついだろう。


「まだ、会うのは駄目だよ。面会謝絶」

 えぇ、と苔桃が声をあげる。「けち。ご飯とかあげてみたいのに」

「犬じゃないんだから………」

 一方で綿菅は難しい表情である。「起きたんだったら、なおさら移動させたほうが良いんじゃないか?」

「移動って、どこに?」と石竹は言い返す。

 ひとつの家屋にはたいてい三人から五人が住んでいるのだが、いまある建物の中では、この集会場のような公共のものを除けば、幼い子どもとふたり暮らしの石竹の家がいちばん余裕があるのだ。亡くなった母のぶんの寝台もある。

「だいたい、怪我したばかりで、完全に治ってもいないし、体力も戻って無いんだよ。それにあの人、喋れないんだから……、きっと不便だよ」

「喋れない?」と苔桃が口を挟む。「喉とか怪我してたの?」

「じゃなくて、言葉が違うの。たぶん、本土の言葉だと思うけど………」

「本土の言葉って、英語とか、そういうの?」

「言葉が全然通じないなら、やっぱり危ないだろ」と言うのは綿菅である。「ちゃんと意思疎通はできてるのか?」

「大丈夫だよ。名前を伝えるくらいは大丈夫だったし、絵を描いて意思疎通したりもできるし」

 絵ねぇ、と綿菅が訝しげな表情になったので、なにか問題でも有るのか、と石竹は問うた。

「いや、おまえ、絵が下手だろ。ちゃんと伝わってるのか」

 幼い頃からの友人である綿菅の言葉は的を射ているだけに、う、と石竹は声を漏らしてしまった。すぐさま「撫子に描いてもらうから大丈夫だもん」と言い返す。しかし自身の絵が下手なことに対しては何も言い返せなかった。ふたりとの会話を打ち切って、料理に集中することにする。


 料理に関しては、ひとつ心配事があった。というのは、料理の味付けについてである。

 ディーが嘔吐してしまったのは、海豹肉のシチューなどというこってりとした料理が胃に障ったからだろう。柔らかくした粥ならばなんとか食べられるだろうというのは予想できるが、味まではどうか。シチューだって、実は美味くなかったかもしれない。

 オングルでは、基本の味付けといえば、海で採れる塩、昆布などによる出汁、豆から作る味噌、タラや海豹などの脂、それに馴鹿トナカイを初めとした動物の血だ。他に野草などで味付けをすることもあるが、塩や血が基本の調味料であることは間違いない。醤油だとか、砂糖だとかの本土の調味料については、知識はあるが、具体的にどんなものかは知らない。オングルには存在していないからだ。そして石竹の作る料理はオングルで採れる材料を用いた、オングルの人間の舌に合わせた料理である。本土のほうからやって来たディーの舌には合わないかもしれない。幼い頃から毎日大人数の食事を作ってきた石竹であるが、本土の人間に食べさせると思うと、自信がない。正直なところ、ディーに食べさせるのが怖い。

 そういうわけで、粥が出来上がったところで、いつもはさせない味見をふたりにしてもらう。


「美味いよ」

 とすぐさま応じる綿菅に、ほんとにほんとか、と石竹は重ねて問う。

「本当だよ。おまえの料理は、いつも美味いだろ。なに、どうした?」

「いや、美味しいなら、それで良いんだけど………」

 よく考えれば、綿菅がそう鋭敏な舌を持っているわけがない。オングル生まれ、オングル育ちの舌だ。でなくとも、彼女はいつもいつも、石竹の料理には、美味しいとしか言ってくれないのだ。批評には期待できない。

 一方で苔桃といえば、あ、薙刀香薷を入れたんだね、などと細かいところにもよく気が付く。「ちょっと薄味。ディーさんって人のためかな?」などと、気付かなくても良いところにまで気が付く。「なんか、下心がありそうだなぁ。治療にかこつけて、なんかいやらしいこととかしてない?」

「してるわけ、ないでしょ」

 顔が赤くはなっていないだろうか。石竹は心配になりながらも言い返した。ああ、してない。してないとも。いや、したかもしれない、が、しかし、べつにいやらしい気持ちでディーの服を脱がせたり、身体を揉んだりしていたわけではないのだ。本当だ。嘘じゃない。いやらしい気持ちが無いわけではなかったが、そういった気持ちが主導していたわけではないのだ。


 早く夕餉をディーのところに持っていきたい。腕によりをかけてご飯を作って、それを食べてディーが喜んでくれれば、否、これでは下心丸出しではないか、自分は、ええい、こんなに尻の軽い女だったのか、知らなかった。なにせ男性に会ったのは子どものとき以来、久しぶりで、しかもそれが若い男性となれば初めて、いや、もしかして自分は若い男性だったら誰でも良いのか。そんなはずがない。自分がディーに美味しいご飯を作ってあげたいのは、彼が素敵な男性だからで、やはり下心だ、もう否定できない。

 考えれば考えるほどに袋小路に陥っていく己の考えに見切りをつけ、石竹は手早く完成した粥を三人分、手持ち鍋によそう。集会場で食事をとらずに持ち出す場合、零下の気温ですぐに冷めてしまうので、厚手の布で包んだ鍋に入れて持ち運ぶのが普通だ。こうすれば家に戻ってから、囲炉裏で温め直すことができる。

(あの子はちゃんとやってるのかな………)

 外に出ると、先ほどまで吹雪いていた雪はありがたいことに止んでいた。集会場からの帰路、固まりつつある雪道を歩きながら、心配なのはディーのもとに残した妹、撫子のことである。まだ六歳とはいえ、いろいろと手伝いはさせた経験はあるが、これまでの彼に対する言動を考えると、とても不安だ。家に戻るまでの道も、駆け足になってしまう。

「あ……」

 鍋を揺らし揺らし家に戻る途中、小さく呟くような声が聞こえた。振り返ると、二頭の犬を連れた一華の姿があった。

「石竹さん」犬と共に彼女は駆け寄ってくる。「あの男の人は、どうですか? 今日で、一週間ですけど………」

「今日、意識も取り戻したよ。まだ体力が戻ったってわけではないけれど、凍傷も進行しなかったし、とりあえず後遺症もないみたい。名前はディーさんっていうんだって」

「そうですか………」

 一華はほっと息を吐いた。いつもは表情の乏しい彼女であるが、どうやらずっとディーの容態を心配し続けてくれたらしい。

「ご飯、さっき出来上がったから、食べていくと良いよ」

 と石竹は声をかけたが、一華はこのまま連れてきた二匹の犬、リリーとアーニーを散歩させるということで、一緒に歩くことになった。

「珍しいね」と石竹は言ってみる。「二匹だけ散歩させてるなんて」

 集落には現在、約三〇匹、つまり人間の数以上の犬がいる。犬の世話を担当している一華は犬を使う用事がなくとも、毎日その犬たちを何匹かの集団に分けて散歩させたり、橇を引かせる練習をさせたりしている。しかし二匹だけで散歩をさせているというのは、珍しいことだ。

「そうなんですよ」と一華は頷く。「いつもの散歩は終わったんですけど、この子たちだけ興奮していて……、仕方がないから散歩させてるんです」

「ふむ」

 石竹の脚の匂いをふんふんと嗅いでいる二匹の犬の様子を見る。特に顔面の、鼻だとか口の様子を。特に汚れている様子はない。犬たちは人間の糞が大の好物で、たまに肥の中に頭を突っ込んでいることがある。一華が躾けてあるのだから大丈夫なはずなのだが、幼い頃に糞だらけの犬に追い掛け回された経験のある石竹としては、どうしても警戒してしまうのだ。

 リリーもアーニーも年長の犬である。生きてきた時間が長いということは、それだけ多くの経験を積んでいるということである。おまけに犬は人間よりも嗅覚や聴覚といった感覚が鋭い。何かの予兆を感じ取っているのかもしれない。

 このオングルで、何か事件が起きるとすれば、それは外来種の襲撃に他ならない。襲撃は日常茶飯事になっていることであるが、できれば起こらない欲しいことではある。

 そんなふうに思ったものの、まだ年若く、戦いをまだ未経験の一華を怖がらせたくはない。


「この子たちも、ディーさんのことが心配なのかもね」

 と石竹は冗談めかして言ってやった。

「なるほど、そうですね」と一華も笑んでくれた。「確かにリリーもアーニーも、あの人のことを助けたときに、一緒にいましたから」

「そうそう、特にリリーはいちばん最初に気付いてお手柄だったから、その分だけ、自分のやったことが無駄にならないように心配だったんだよ。あの男の人は大丈夫だったかな、ってさ」

 えらい、えらい、と石竹は歩きながらリリーを撫でてやると、ふふん、と彼女はぴんと耳を立てて鼻を鳴らした。

「あのディーさんという人、金髪で、青い目で……」

「うん」

「お話の王子さまみたいなかんじで………」

「うん」

「ちょっと、なんていうか……」一華は一度、白い息を吐いてから言った。「かっこいいかんじでしたね」

「うん」

 そうだね、と同意しかけて、石竹は一瞬、言葉に詰まった。


 なんということはない。ただ、ふとディーの持っていたペンダントのことを思い浮かべたのだ。

 ディーが意思疎通を図るため、二言めに発した単語は、ペンダントだった。それだけ大事なものなのだろう。その中身を、石竹は見てしまった。血が付着していたので、それを拭おうとしていたときだ。自分自身に言い訳するなら、仕方がないことだった。金属製の物品はそれだけで珍しかったし、貴重な品だからこそ綺麗にしてやらねばという思いがあったのだ。


「そうだね」

 と単なる応答として、若い少女の言葉に相槌を打ちながら、石竹はペンダントの中に入っていたものを思い出していた。

 ペンダントの中に入っていたのは、写真だった。女性の写った、写真。

 オーロラのように柔らかそうな髪と、新雪のような肌理細やかな肌。骨細工のように整った容姿の綺麗な女性だった。

 石竹は己の手を眺める。傷ついた、硬い、浅黒く焼けた手だ。傷ついているのは冬の冷たい水で作業してあか切れ、霜焼けになるからだ。黒くなるのは、雪が太陽の光を反射し、肌を焼くからだ。

 写真の女性の手は、この手とは全然違うのだろう。ディーもそれを感じたに違いない。

 リリヤ、というのが、写真の女性の名だろう。眠っている間、ディーは何度かその名を呟いていた。言語の違いがあっても、そういったことは解る。

 ああ、だから忘れるんだ。あの男は、ただの男だ。ただオングルにやってきただけの、男だ。来て、そして去っていくだけの男だ。もともと、恋人になりたいというわけではないではないか。ただ、かっこいいな、と思っただけだ。それだけだ。石竹は自分の胸に、心に、そう刻もうと努めた。

 家の前で、一華と別れる。

 別れる前に、リリーとアーニーの背を撫で、耳の裏を掻いてやる。ディーを助けられたのは、彼ら犬たちのおかげだ。犬たちがいなければ、ディーが居るところに辿り着けなかっただろうし、重い彼の身体を運ぶこともできなかっただろう。特にリリーは、ディーを乗せた馴鹿の存在をいち早く嗅ぎ取った。おかげで彼は助かった。それで良いではないか。元より、出会う機会などなかった相手である。出会えて、助けられて、それで良かった。石竹はそう思いたかった。

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