第5話 ディー

 何も無い。

 そう感じるのは、見渡す限りにひたすら白い雪原が続くからではない。

 遠くに山脈が見える以外には、起伏の少ない大地のおかげで、視界は開けている。その開けた視界の中は、確かに何も無い。

 だが空を見上げてみれば、雪原の照り返しで眩しいほどに月が輝いている。大小さまざまな星が瞬いている。空に浮かぶ緑に輝くオーロラは、何か巨大な生き物が薄衣を靡かせているかのようだ。

 雪原が続く大地にも、ときたま流氷が浮かぶ海が見えたり、海豹だのペンギンだのが現れることがある。そうした生き物が現れたとき、ディーはそれを殺した。殺した血で暖を取り、殺した肉で腹を満たし、殺した脂で火を焚いた。

 だから、そう、何も見えないわけではない。目に見える世界は、夜だというのに明るく、華やで、血腥い。

 だが目を瞑ってみればどうだろう。

 聞こえるのは己の足音のみになる。

 脚を止めると、今度はとくとくと、規則正しい音が聞こえ始める。それは己の心臓の音だった。

 自分の音しかしない。

 音を発するようなものは、何も、何もいない。もし音を察知すれば、それは暖かさを持つ生き物がいるということで、ディーはその生き物を殺した。そしてまた静かになる。何もいなくなる。

 死んでいるものか、これから死ぬようなものしかいない世界。

「もう厭だ」

 厭だ、もう、駄目だ。

「リリヤ、助けてくれ」

 幾度この言葉を発しただろう。どれだけの距離を歩いただろう。何匹の生き物を殺しただろう。幾つのデポを回っただろう。オングルに落ちてから、幾日が経ったのだろう。ディーにはもはや、数を数えることが出来なくなっていた。

 その実、日は僅かに二日しか経っていなかった。しかし、一日二日と経過日数を、一つ目二つ目とデポを、一体二体と殺した生き物の数を数えていたら、きっと今頃は脚も心も動かなくなっていたことだろう。陽昇らぬオングルでのただ独りきりでの行軍は、あまりに辛すぎた。


 明日には陽が昇る。明日からは、オングルの新たな一週間が始まるのだ。だが、ディーにとっては、もはや全てが終わりにしか感じられなかった。

 薬が切れた。

「リリヤ………」

 右腕を切り落とした痛みを紛らわせ、熱を冷やし、失った血液を誤魔化して極寒と戦うために、薬の存在は必要不可欠であった。それが切れた。今や震えが止まらない。吐息が凍るほどに寒いのに、衣服を脱ぎ捨ててしまいたいほどに身体が熱く感じる。火に当たろうが、蟹喰い海豹や他の野生動物の腹を引き裂いて、その血から臓腑から熱い命を啜ろうが、身体の震えは抑えようが無かった。

 幾つか目のコンテナの中で倒れたまま、もはや動けない。このまま死ぬと思うと、ぼろぼろ涙が毀れて凍った。


 殺さなければ良かった。


 海豹アザラシを殺した。企鵝ペンギンを殺した。どうせ死ぬなら、無駄に朽ち果てるだけなら、この冷たいだけの大地で凍りつくだけなら、あんな可愛らしい生き物を殺してまで生きながらえなければ良かった。何も殺さずに死ねば良かった。

 だがディーは殺した。好奇心で近寄ってくるだけの小さなふわふわした生き物を殺した。だから、どうにかして生き延びなければならない。皮膚に張り付いた氷を拭い、ほとんどすっからかんになった雑嚢を引っ繰り返す。聖書は捨てた。薬は無くなった。燃料も。


 あらゆるものを失った雑嚢の中に、最後の希望が残っていた。


 リリヤへの、大量の手紙だ。帰ったところで投函するというよりは、あとあと手渡して思い出話でもしようと書き溜めていた手紙だ。多少嵩張りはするが、重さは無いも同然だと、道中心を励ましてくれるやもと、大事に大事に底の底へと押し込んでおいた物だ。

 濡れぬよう、破れぬようにと防水性のシートで包んでいただけあって、手紙には染み一つ無かった。オングルから帰還したあとの夢を語ったその内容を読んでいるうちに染みが出来た。もはや戻れないと思えば、濡れた染みは増えるばかりだった。

 震える手で、手紙を全て雑嚢に戻す。死ねば、この手紙は風でばら撒かれ、雪に埋もれてしまうだろう。そうなれば、リリヤには届くまい。だが防水性のシートで包み直し、雑嚢の中にしっかりと入れておけば、誰かが発見してくれるかもしれない。本土まで届けてくれるかもしれない。いつか、いつか……リリヤに届くかもしれない。たとえ自分が死んでも、想いは届く。

「リリヤ」

 ディーはいつも身に着けているロケットペンダントを取り出した。中にはリリヤの写真が入っている。

 これを握り締めていれば、死んだあとにもリリヤを忘れないでいられるだろうか。天国で、彼女がやがて死ぬのを待つことができるだろうか。彼女がディーの死を知って、他の男と結婚して、子を産んで、育て、そして死ぬのを待つ。そんなのは厭だ。そんなのは。やはり、死にたくない。


 死にたくない。


 ディーは顔を持ち上げた。気力を奮い立たせたわけではない。何かの気配を感じたのだ。自分以外の生命の音を聞いたのだった。

 がつがつと、何者かがディーの殺した蟹喰い海豹の肉を貪っていた。野生動物だ。四つ足のしなやかな身体は全身長い毛で覆われていて、頭には見事な角を携えている。

馴鹿カリブーか……?)

 唖然として、ディーは毛だらけの巨体を見上げた。これまでディーが遭遇し、殺してきたのは小さな企鵝か海豹ばかりで、こんな立派な体格の馴鹿を目にしたのは初めてだ。

 馬なので草食なのかと思っていたが、肉も食べるのか。しかも海豹の死肉を。あるいはオングルに放たれてから、生活環境の変化と共に餌も変わったのか。立派な角をしているが、馴鹿の雄は冬に角を落とすらしいので、この個体は雌だろう。もっともやはり生活環境の変化が影響している可能性は有るが。


 じぃと見ていると、馴鹿は食事を止め、その精悍な顔で見つめ返してきた。長く逞しい脚を交互に動かし、ゆっくりと近づいてくる。まさか、ディーを食べる気だろうか。

 その思いつきは、恐ろしいと同時に、不思議な安心感も感じるものであった。ここで寒さのために死ねば、このオングルの地に永久に取り残されることになるかもしれない。だがもしこの馴鹿に喰われて死ねば、ディーの心は、ディーを成していた魂のような物は、馴鹿に宿り、その馴鹿がまた他の動物に喰われ、そうして何度も何度も循環して、いつかは本土に戻れるやも知れない。そんな何の根拠もない妄想に、全てを委ねてしまいたくなる。

 だが馴鹿はディーの妄想など無視して、傍まで歩み寄って側面を見せるや、そのまま停止した。何を意図しての動きなのか解らず、初めは存在を無視されているのではないかとさえ感じた。

「乗せて……」

 乾いた喉が詰まって、噎せる。

 馴鹿が人語を解するわけがないと思いつつも、ディーは掠れる声で問い直した。

「乗せてくれるのか?」

 馴鹿の返事は無く、ただただ佇むことでその心意を表明しようとしているだけである。


 馬鹿な。この馴鹿には、引き綱だとか焼き印だとか、人の所有を示すような物は何も無い。野生の動物だ。野生の馴鹿が人を乗せてくれるだなんてことがあるものか。そもそも、乗ったところで、一体何処へ行くというのだ。先程まで、この馴鹿は蟹喰い海豹の死肉を貪っていたのだ。ディーが乗ったところで、また餌を探しに歩き出すのではないか。そうなったら、ディーは極寒と地吹雪を避けるに足る障害物も無しに、馴鹿の背で連れ回されることになるのだ。すぐに死んでしまう。


 だがここで何もしなくても死ぬ。


 それは己の腕を切断したときにも考えたことだった。ここに立ち止まって何もしなければ、結局は終わりだ。死んでしまう。

 ディーは隻腕を雪面に着いて立ち上がる。雑嚢を背負い直し、馴鹿の身体に寄り掛かる。あとは身体を持ち上げて乗れば良いだけなのだが、それだけの力が無い。どうにもならないかと諦めかけたとき、馴鹿が首を擡げて下から持ち上げようとしてくれていることに気付いた。角を使った、やや乱暴ともいえるやり方に感謝しつつ、ほとんど倒れ込むようにして馴鹿の背中に乗った。

 馴鹿がコンテナの外へと向かって歩き出す。ディーを何処かへ連れて行こうとしているに違いなかった。だがその目的地が何処なのかはさっぱり解らない。

 それでも、この背中から離れるわけにはいかない。ディーは背嚢のベルトで己と馴鹿の身体を繋ぐ。消えそうな意識の中、隻腕で結び目を作るのには苦労したが、何とか達成できた。

 これで。

 これで……、これでどうなるのだろう。このまま何処へ連れて行かれるのだろう。そんな思いは無いではなかったが、馴鹿の背の上、規則的に揺れる不思議な安堵感のために、ディーは気を失った。


 ディー。


 ディー。


 女がディーの名を呼んでいる。リリヤだ。

 場所は見渡す限りの花畑だった。子どもの頃に住んでいた教会の裏手に花畑があり、幼い頃は彼女とよくここで駆け回ったものだが、こんなにも広くはなかった。襤褸教会の花畑に相応しい粗末なもので、育てている植物も観賞用の花というよりは、食べられる野菜が多かった。

 ディー、ねぇ、ディー、と彼女が手を振る。こっちだよ、と。駆け寄っていく。リリヤの姿は子どものそれではなかった。成熟した、大人の女性だ。傍まで駆け寄ると、リリヤの腕が伸びてきてディーの顔に触れた。顔を拭うように撫で擦る。

 彼女の身体を抱きしめようとして、腕がないことに気付いた。よくある、荒唐無稽な夢だ。だが夢にしろ、ないものはないのだ。どうしようもない。目の前の彼女に、何もできない。


 夢から覚めたのは、ぱち、と何かが弾けるような音がしたからだった。


 暗い。

 いやに視界が暗かったのは、血が巡っていないせいだけではなかろう。薄暗い空間の中、見えるのは天井である。屋内だ。家か、何らかの施設の中だ。

 天井は木組みに草葺きがしてあり、三角形を作るように組み上げられている。所々、やはり萱か藁か何かを編んで作ったのであろう、ハンモックのような形状の物がぶら提げてあった。だいぶん大きいが、以前見たことのある、納豆作りのために豆を入れておく包みに似ている。三角形の最も高くなった所には穴が開いており、細い煙突の筒が出ていた。煙突の真下へと視線を降ろすと、天井から釣られた黒い鍋が有り、その下で四角く組まれた砂場のような空間で火が焚かれている。囲炉裏というやつで、暖房と照明、調理器具を兼ね備えた東洋の家具の一種だ。その家具のことを教えてくれたのは大学で東洋文化を専攻しているリリヤだ。ねぇ、ディー、凄いでしょ、日本って、結婚したらおうちにも、囲炉裏が欲しいね。あと、炬燵こたつも。リリヤはそう言っていたことを思い出す。先ほどの音は、この単純ながら存在感のある焚き火の薪が弾けた音だろう。

 何とか動かせる首と視線とを巡らせて、いま居る場所を改めて確認する。一言で言えば、旧時代の家屋だ。天井と同様、床も木造りに草葺きで、その上には茣蓙が敷かれている。壁には所々に縄で、短い刀や、狩猟で使う弓、何に使うか解らない細長い筒、それに網などの雑多な物が掛けられており、藍色の生地に白で鮮やかな刺繍が施された半纏のような上着もある。壁の傍に並んだテーブルには、急須や茶碗、箸のような、ディーでも用途を知っている東方の道具の他に、乳白色の不透明な瓶だとか、乾燥した草花、大きな乳鉢など何に使うのかよく解らない物も置かれている。

(まるで魔女の家みたいだ)

 目を引くのは、鍋や藁包みと同じく天井から吊るされている魚である。鮭であろうその魚は、腹の所で開かれ、目は刳り貫かれて縄を通されて干されていた。

 ここはどこだろう。いったい自分はどういった状況に居るのだろう。全く検討がつかなかったのは、これまた血の巡りが悪いからというだけの理由ではなかった。


 ディーのすぐ傍らに動く人の姿があった。若い女性だ。


 反射的に身体を仰け反らせかけたが、身体は動かなかった。拘束されているというわけではない。手足も顔もじんじん痛むのだから、色濃い疲労と凍傷のためだろう。口を開こうとしても億劫で、声を出そうとしても喉が震えない。

 だからディーにはただ、彼女の動きを観察することしかできなかった。

 若い女である。特徴的なのは、焚かれている火による僅かな明かりでも美しく映える、艶やかな長い黒髪だった。長い髪をひとつに編み、肩から垂らしているその女性の顔立ちは東洋系で、亜細亜人の血を引いているに違いない。前で合わせて帯を結ぶ形の、見事な刺繍がなされた着物のようなものを着ていた。

 彼女は黒々とした大きな瞳と柔らかそうな両の手をディーの身体に向けていた。どうやら凍傷になったディーの身体をマッサージしてくれているようだ。揉み解したあとには、お湯で絞った手拭いで、手首の窪みや、指の間まで拭いてくれた。

 あまりに体力が無く、ディーの瞼がほとんど開かぬためだろうか。あるいはそれだけ彼女がマッサージに集中しているのかもしれない。目の前の女性がディーに気付く様子は無い。一生懸命な様子で揉み解し、拭い上げる間、目に入るのは彼女の胸元である。

 ほとんど馬乗りの姿勢で、寝台に乗っている。囲炉裏の暖房機能が高いのか、でなければ動きやすくするためであろう、そう厚着はしておらず、動いて着物がずれると、陽に焼けて浅黒くなっている肌のみならず、平時の生活では淫らゆえに布に纏われて隠蔽されている白い場所が見え隠れした。


「なぁディーよ、オングルの開拓民は大半が、元は日本だとか中国だとか、東方の人間だっていうじゃねぇか。おれは残念でならねぇ」

 なにがって、おっぱいだよ、おっぱい。作戦前夜にそんなことを言っていたのはワースリー伍長だったな、と思い出す。


 ほかの惑星へと移り住むようになったこの時代だが、未だに人種だとか、民族だとかの概念は存在している。その認識や対応は地域によるが、少なくとも本土では、数百年、数千年前と変わらず、人種と民族の融和は行われていない。

「あの辺の女は、まぁ可愛らしいんだな、これが。小さくて、甲斐甲斐しくて、まぁ、悪くない。だが残念なことに、おっぱいが小さい。酷く、小さいんだ。お、いけるかな、と思っても、脱がせてみてがっかりする。たまにでかいのがいても、これが酷く垂れてるって具合だ。東方ってのは、そういう場所だ。おれは米国に帰ってきたら、ああ、吃驚したよ、あんまりにも本国がおっぱい天国だったんでな。おっぱいはどこにも行ってなかった。いつでもすぐ近くにあったんだよ」

 そんなふうに熱く語っていたものだが、成る程、ワースリーが言っていた小柄で可愛らしいという点は、目の前の女性に合致する。しかし胸が小さいというのは、まったく当て嵌まらなかった。布一枚向こうにあるふたつの膨らみの大きさは、仄かな灯りの中でもよく解る。少なくともリリヤよりは、大きい。それは、間違いない。間違いないのだ。


 どうしよう。いったい、自分はなにをしてしまったのか。本当に彼女はディーを看病してくれていたのか。もしや自分は、とてつもなく淫らな行いをしてしまったのでは。だいたい、この体調の悪さは何だ。相手の無防備さは何だ。己の格好はどうなっているだろうと自身の身体に目をやってみると、一糸纏わぬというわけではないが、ほとんど裸だった。これは、恥ずかしい。


 服だけではなく、腕が無い。


 右腕が無い。


(そうだ………)

 おっぱいおっぱい言っていたワースリー伍長は、もう死んだのだ。冷ややかな視線をおっぱい談義に向けていたマッキルロイ一等兵も、おっぱいの大きさの重要性に静かに同意していたハドソン少尉も、誰も彼もみな、死んだのだ。

 頭が重い。痛い。全身が焼けるように熱い。特に右腕の肘、切り落とした部分からは、骨の中身の髄を捻られているかのような痛みが響いている。

(ここは………)

 オングルだ。間違いない。本土の病院でも、救助艇や軍艦の医務室でもない。こんな設備の整っていない病院など、あるはずがない。

(そうだ、オングルだ………)

 覚醒と云うには程遠かったが、それでも自分を取り戻し、何があったのかを思い出した。物資のないデポで体力を使い果たしたディーは、野生の馴鹿の背に乗ったのだ。立派な角を携えた、不思議な雌の馴鹿に。そして運ばれる安心感と、揺られる心地良さで、すぐに気を失ってしまったのだ。


 五体満足とはいかないが、己の手によって切り落とした右腕を除けば、手足はとりあえず付いている。己の顔は見えないが、鼻や耳も付いているように思う。これから凍傷のために腐り落ちるということも考えられなくもないが、少なくともいまは傷みも熱もあり、まだ生きていることを主張している。

 こうして無事に人の家に辿り着けたということは、あの馴鹿がここまで運んでくれたということだろう。

 まったく、不思議な馴鹿だった。目の前で眠っているこの女性が、あの馴鹿の飼い主だったのだろうか。あるいはこの女性こそが、あの馴鹿に化けていたのかもしれない、と幻想的な考えを描いてしまう。目の前の女性は、人間というにはあまりに可愛らしく、しなやかで、そして淫らに見える。


 女性はディーの右腕のマッサージが終わったのか、今度は開いた胸元へとお湯で絞った手拭いを向けてきた。恥ずかしいのか、僅かに頬を赤らめて、ほとんどディーの身体は見ずに拭いていく。

 温かい手拭いといい、胸をなぞる柔らかな指先といい、彼女の行為は心地良い。だがこちらがあまりに無防備だというのが不安である。

 目を覚ます前に、顔を触れられていたような気がする。さっぱりと湿ったような感覚があるので、おそらく顔も拭いてくれたのだろう。リリヤに顔を触れられているような気がするのも、そのせいだったのかもしれない。

 成る程、顔、腕、胸と来て、彼女の視線と腕とは今や腹に向いているわけだ。

 まさかと思ったが、さすがに下は服を着ていた。元々着ていたサバイバルウェアのズボンではなく、女性が着ている着物と同じような材質で出来ている薄いズボンであったが、それでも完全に無防備よりはましだ。

 腹として、次には、と思ったが、幸い彼女は下腹部は飛ばして足に向かった。二つの足を指先や足首の横の窪みまで、綺麗に拭き上げた後にマッサージをしてくれた。あまりにも心地良く、ディーは瞳を閉じた。このまままた眠ってしまいそうだ。

 だが安らかに眠るというわけにいかなかったのは、足のマッサージを終えた女性が、ディーのズボンに手を掛けたからだった。思わず目を開くと、彼女は躊躇いがちな視線を足先に向け、真っ赤な表情でズボンを足元までずり下げた。

 視線はあくまでディーの爪先へと向けたまま、彼女は手拭いでディーの腿を拭う。そして、次には下腹部へと伸びる。羞恥で染まったその表情は真剣で、しかしちらちらと己が拭いている部位に動いたが、あくまで何所を拭いているかを確認するためで、破廉恥な気持ちというわけではないだろう。ディーが偏見を持って見るところでは、これだけ可愛らしい女性がそういった破廉恥なことをするはずがないのだ。そのはずだ。

 だとしても、目の前の女性が破廉恥な気持ちを抱いているかどうかと、ディーがその指の動きをどう感じるかは、別の話である。


「う」


 その手があまりに心地良く、ディーは声をあげてしまった。

 ディーの覚醒に漸く気付いた女性の顔色が、さっと変わった。赤くなり、青くなった。黒々としたその瞳がうろうろと動き、口は何か言いたげにぱくぱくと動く。彼女もディーと同じく、何を言えば良いのか、どう行動をすれば良いのか分からないようである。



 と、ディーの思考を遮ったのは、高い声だった。

 声の発生源は目の前の女性ではなかった。壁とほとんど同じ色の草葺きの木枠の扉の辺りから、より正確に言えばその扉を僅かに開いて室内に入ってきた人物から発せられていた。

 小さい。東洋人としても大人と考えるには小柄すぎる身の丈は一メートルほど。明らかに子どもだ。フードつきの毛皮の上着に、こちらも毛皮から作ったのであろう長いズボン。裾から見える靴は獣の毛皮で作ったもののようだ。フードを外して現れる栗色の短い髪と琥珀色の丸い瞳は、ディーのマッサージをしている女性とは違う人種に見えた。

 その子どもは、全裸で寝台に横たわっているディーと、そのすぐ傍らで口をぱくぱくさせている女性とを見て言った。


「おきた」


 おきた。

 子どもが発したその言葉が、ディーの頭にはすぐに入ってこなかった。理解できない。なんと言ったのか、さっぱり解らない。

 考え込み、しばらくして思い当たる。きっと言語が違うのだ。たぶん、これは日本語だ。

 恋人、リリヤが大学で東方、主に日本の風俗文化を専攻しており、ほんの僅かにだが、ディーは日本語を知っている。聞いたのは短い言葉のみで、知っているとはいっても、会話ができるほどではなく、事実、今子どもが発した言葉の意味さえ解らないのだが、しかし直感的にそう思った。

 子どもが何か大声で言いながら、ディーたちのほうへと歩み寄ってくる。泥棒だとか、強姦魔だとか、そういったことを言われているのではないかと、初めは身構えかけたものの、子どもの動きと声には、慌てた様子や恐怖の色は全く無かった。

 真っ赤な表情で震えていた女性が、漸く動いた。あ、え、と慌てふためきつつも、傍にあった毛布をディーに被せて寝台からさっと離れる。そうして「ごめんなさい」と発せられた言葉が謝罪の意を示すものであるということは、言語を共有しないディーにとっても容易に理解できた。

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