「Boys don't cry」

 ボロボロのドアに寄りかかり、僕は上弦の月を見上げていた。何時の間にかその草原の上の空には薄く長い雲が出ていて、相変わらず、僕らが歩いてきた跡には白い砂がきらきらと輝いている。なんだか映画のワンシーンのようだった。

 ドアの向こうからはアカリと少女の楽しそうな声が聞こえてくる。

 あの後、アカリは徐ろにシャツを脱ぎだした。

 そこには、さっきの砂浜で男の子に借りた小さなシャツが、水着のように巻かれたままだった。

「……ごめん、カガミ。やっぱり恥ずかしいや。ちょっとだけ外に出てて貰える?」

 それまでキリッとした顔だったのに、我に返ったのかアカリに顔を赤くされながらそう頼まれてしまった。

 今、中では『あいつ』について、二人のアカリが必死に書き留めている。『銀河鉄道の夜』を片手に。


「……。」

 ぼーっと、空を見上げる。

 ドラゴンのものとは違う優しい風が吹いていた。その風は草原を波立たせて、その上の雲達も運んでいるようだった。

 次第にその雲が月にかかり始めて、辺りが少しだけ薄暗くなった。

 すると、草原の向こうに、ポツポツと、小さな灯りが浮かんできた。今までは月の光が強すぎて見えなかったらしい。それはここに来る時に見たものに似ていた。

 ふと思い立って、ズボンのポケットから借りたままのアカリのペンとルーズリーフを取り出す。そこに苦戦しながらも、下手くそな字で『望遠鏡』と書くと、丸めてその灯りの一つに向けて見た。

「……なるほど」

 そこには、ファンタジーの世界に出てきそうな街並みが広がっていた。いや、街並みだけじゃない。王様が住んでいそうな白くて大きな城や、逆に魔王でも住んでいそうな黒くて禍々しい城、火山、神殿……そう言った物が草原の向こうには、在った。

 きっと、あの少女が創った物なのだろう。でも、『あいつ』を思い出せない罪悪感で、ちょっとだけ遠くに創ったのかもしれない。或いは、小さく創ったのかもしれない。

「素直に、創れば良いのになあ」

 思わずそんな溜息が漏れる。

 今のアカリだったらどうだろう。

 迷わず自分用の城でも創ってしまいそうだ。

 そっちの方が、きっと僕は救われる。

 ……きっと、『あいつ』もそうだろう。

 胸のポケットからフィルムを取り出す。一番最初の、幼い僕ら……いや、幼いアカリと『あいつ』が夕暮れの草原を走っている、フィルムだ。

 これは、僕じゃなかった。

 僕の元になった、誰か、だ。

 じゃあ、僕は一体何なのだろう。

「……物語がフィルムに焼き付いた事を、記憶と同じ場所に、焼き付いている事を、どうか忘れないで下さい」

 カムパネルラと名乗った車掌の台詞を、呟く。

 アカリが、自分の中の記憶……フィルムの欠片を集めて、描いてきた『あいつ』の成れの果てが、僕だ。

 悲しくは、ない。今、存在する理由が、ちゃんとあるから。

「悲しくなんて、ない。アカリの為に、僕はここに居る」

 また雲から出てきた月にフィルムをかざしながら、もう一度、決意表明のように呟く。

 悲しくなんて、ない。



 一つだけ気がかりなことがあった。アカリがどうなったのか、ということだ。

 もう一枚のフィルムをポケットから取り出す。

 また、同じように、風に飛ばされないよう気をつけながら、それを月にかざしてみる。

 そこには、膝まで水に浸かったアカリの後ろ姿が写っていた。

 その背中は、僕には絶望に溢れているように見える。

 今にも、そのままずんずんと深みへと進んでいきそうだ。

 考えたくはないけれど、もしあのままアカリが死んでしまっていたら、それこそ銀河鉄道の夜になってしまう。ただ、その場合誰も帰ってこない。ジョバンニまで死んでしまう。

 でも、もしそうなら、終着駅でアカリがあの真っ黒なフィルムを受け取る必要もないんじゃないだろうか。ここが天国か地獄か分からないけれど、審判でもあるのだろうか。

 もう一つの可能性が、アカリはまだ生きていて、これが夢のような物かもしれない、ということだ。僕が夢のような、なんて言うのは皮肉だけれど。そっちの方であってほしい。

 そうなれば、僕はアカリが目を覚ましてしまえば、恐らく消えるだろう。

 でも、それでアカリが生きていけるのなら、構わない。

「生きてて……欲しいなあ」

 ドアの向こうからは、笑い声こそ無くなったけれど、まだ二人の声が聴こえる。

 随分と長い時間をかけて『あいつ』について書いているようだった。

 急に、『あいつ』を殴りたくなる。

 なんでここまで、アカリは『あいつ』に囚われていなきゃならないんだろう。僕のような代わりまで創って。

「……。」

 両手で、自分の頬をばちんと叩く。

 嫉妬だ、これは。

「……カガミ」

 確認するように、自分の名を口に出してみる。

 アカリとカガミ。

 自分達で付けた名前。

 僕は、アカリの光を跳ね返して存在しているのだ。

「悲しくなんて、ない」

 口ではそう言ってるのに、僕は何時の間にか座り込んで、じっと濡れた地面を見つめていた。




 ふいに目の前の草に光が差した。

 温かな、まるで、汽車の中の灯りのような橙色の光だった。

 その光に誘われるように、顔をあげる。

 そこには夕陽に照らされた、黄金色の草原が広がっていた。まるで海のように草が波打っている。

 その海の真ん中を走って行く二つの影があった。

 幼いアカリと、僕……いや、『あいつ』だった。

 二人はそれぞれ手に木の枝を持って、楽しそうに振り回しながら駆けて行く。

 その向かう先には、古い遊園地があった。

 風に乗って、二人の声がここまで飛んでくる。

 ――あそこが、どらごんのしろだー。ゆくぞー! ――

 ――ちがうよ。ぎんがすてーしょんだよ! まってよ――

「……っ!」

 思わず、駆け出していた。

 柵を乗り越えて、丘を転がるようにして、降りて行って……。

 何度も、何度も転んで、泥だらけになりながら必死に二人の背中を追う。

「待って……待ってくれ!」

 さっき扉に叩きつけられた箇所がギシギシと軋む。

 次第に、呼吸も辛くなってくる。

 それほど、全力で走っても、あともう少しという所で、届かない。

「くっそ……!」

 悔しさで、涙が溢れてくる。

 せめて泣き声だけはあげないように、必死に歯を食いしばる。

「お前がっ……お前さえ、居なくならなければ! アカリは絶望しなくてすんだのに! 僕みたいな、幻にすがらなくても、よかったのに!」


「ずるいよ」


 すっと、鼻先に木の枝を突きつけられた。

 何時の間にか、『あいつ』が目の前に居た。

 逆光で顔が影になっている中、その小さな目だけが灯りのように光って、僕のことを睨んでいる。

 四つん這いになって、肩で息をしながらも、僕はその目を睨み返す。

「ずるいよ」

 もう一度、『あいつ』が言った。

「……本当は自分が、アカリの側に居たかった、てか……」

 そう吐き捨てながら、呼吸を整えると、僕は立ち上がった。

 突きつけられている、その枝を右手で掴む。

 夕陽に照らされて、アカリに介抱してもらった、いつかの傷跡が光っていた。

「『アカリ』は、僕が守る。例えもうすぐ消えるとしても。だから、お前はその子を守れよ。例え直ぐに居なくなっちゃうとしても。……約束しただろう?」


 ――それは、おとこと、おとこの、やくそく?――


 ――そうだよ。約束さ――


 『あいつ』が、ニヤリと、笑った気がした。


 

「カガミ? 寝てるの?」

 気が付くと、僕はまたボロボロのドアに寄りかかっていた。

 アカリが少しだけドアを開けて、心配そうに見下ろしている。

「……そうかも」

 目の前の草原はまた夜に戻っていた。

 ただ、月だけは三日月に変わっていた。

「ごめん。寒かったよね。夢中になっちゃって……」

「いや、大丈夫」

 そう言って、立ち上がろうとした時、右手に違和感があった。

 ゆっくりとその手を開いてみる。

「……。」

 そこには、僕が右手に傷をつけながら掴んだ葉っぱがあった。

 すると、さっきの少女のブリキのロボットの時のように、何時の間にかその葉っぱが一枚のフィルムに変わっていた。ただ、真っ白でそこには何も写されていない。

「あれ、カガミもフィルムを見つけたの?」

「『も』って。アカリも?」

 アカリは部屋の中から出てくると、僕の隣に座って、一枚のフィルムを取り出す。

「アカリは、どこで見つけたの?」

「あの子のお気に入りの本があったでしょ? あの中に」

「何が写ってるか、もう見た?」

「見た。……一人で机に齧りついて、必死に何か書いてる私だった」

 アカリの手からフィルムを受け取り、三日月になってもまだ明るいその光にかざしてみる。

 そこには、一人で懸命に何かを書いているアカリの姿があった。

「……僕にも、そう見える」

「私が知っちゃったから、かしらね」

「……。」

「ねえ、隠してたの、この事だったんでしょ?」

 そういうことに、なるのかな。

「ねえ、カガミ。……さっきの、砂浜のフィルム、もう一度見せて」

 返事を待たずにアカリが右手を差し出してきた。

 一瞬悩んだけれど、結局僕はその白くて綺麗な手に、砂浜のフィルムを乗せた。

 僕と同じように、三日月にそのフィルムをかざす。一瞬だけ目を見開いて、そしてゆっくりとした動作で僕にフィルムを返した。

 アカリは、空を見上げて、一回だけ、ため息をついた。

「……泣くかと思った」

「泣くなら、さっき泣いてるわよ。……私、死んだのかしら」

「まだ、分からないよ」

「……死んでたら、カガミとずっと一緒に居れるのかしら」

「僕は、『あいつ』じゃないよ」

 僕の左手に、そっと重なる物があった。アカリの手だった。でも、顔はまだ空に向いている。

「……私が知ってるのは、今大切だと思ってるのは、カガミよ」

「……。」

「あの子と、『あいつ』の話をしてて思ったの。大体私が聞いてるだけだったんだけどね。なんだか、映画でも観てるような気分だなって。私、きっとあの浜辺に全部置いてきちゃったのかもしれない。記憶も、今部屋の中に居る『アタシ』も、全部。……ねえ、カガミも汽車に乗る前の記憶が無いんでしょ?」

「無いよ」

「それじゃあ、必死に創りあげた『あいつ』も、浜辺に置いてきちゃったのかもしれない。私は、真っ白になって、そして、貴方に出会ったの」

 そして、演技かかった声音でこう言った。

「君が来てくれて良かった。君と話して、やっと私は私を知れたのだから」

 視線を感じて、横を向くと、案の定、アカリが僕の顔を見ていた。

 それは、真っ直ぐな目だった。

 本当に、真っ直ぐな目だった。

 そして、その目は……。

 まるで、映写機のようだった。

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