最初と最後さえ聞けばわかる、現代社会論。




さて、次の日。晴れ。


夏は暑いもの。そう相場は決まっているけれど、その日は特にムシムシとしていた。


ニュースに依ると、どうやら台風が接近中らしい。梅雨明けも間もないというのに、まったく――乾燥機も車も無いロートルなライフスタイルを実施している我が家にとっては、どうにも歓迎しづらい。瓦が飛ぶ危険性もあるし。台風が過ぎると、オンボロな我が家に眼を付けた業者が、屋根張り替えの案内をしにくるのも鬱陶しい。


そんなどこかしこりのある朝だったが、私は午前中の殆どを戦士と過ごした。日曜日に出勤する代わりに、今日がオフらしい。作業着を着ていない戦士は、ヨレヨレのティーシャツにジーパンというラフな出で立ちで、香辛料とココナッツミルクの匂いをプンプンさせていた。永久さんご所望の、一連の摩訶不思議なレコード探しを手伝ってくれているのであまり恩知らずなことは言えないが、エスニック料理全般が苦手な、コチコチの虚弱な胃袋を誇る私からしたら、ちょっとした拷問だった。


戦士が操るパソコン画面を眺めながら、その異国の文字に大いなる混乱を覚えた。ウネウネとしていて、どこが切れ目なのか、果たして何文字並んでいるのか、まるで判断が付かない。国際人を便宜上気取っているが、日本語の他は二十六文字を使い回しているヨーロッパの諸言語しか知らない私は、己の卑小さと世界の広大さを痛感した。


まあお陰で、黒江さんがわざわざ昼食のサンドイッチを部屋まで運んできてくれた時には、ガムラン関係の注文という当初の目的は殆ど果たせていた。


文明開化以前の装いそのままな黒江さんだが、意外と食に関してはバタ臭いところもあり、タマゴサンドにはディジョン産マスタードのピリッとした辛みが利いていた。訊けばおふくろの味らしい。和服を四六時中着る娘を育て上げておきながら、銀座辺りで有閑マダムがお友達とお紅茶とお話を楽しみながらお召し上がりになるような代物を、日常的に出すとは一体どんなおふくろさんなのだろう。黒江さんの謎がまた一つ増えた。


「進捗はどんな感じですか?」


黒江さんが、慎ましく正座しながら言った。


「一つ除いて全部終了」


私はタマゴサンドをほうじ茶で流し込みながら返す。


「ただし、このワールド・ミュージックのカタログみたいなリストの東南アジア部門だけだけどね。残りはラテン系と、まあ英語が公用語の国ばかりだから何とかなる」


「幾つかとてもマニアックな物があってビックリしました」


と戦士。


「故郷では結構熱心にガムランをやっていた、ボクですら余り知らないのがありました。『とわさん』って人は何者なんですか?」


「それはむしろ俺が訊きたいよ」


私は難しい顔をして言った。


「何者かって、真相は本人のみぞ知る。誰も、彼女がいつこの街にやってきたかすら知らないんだ。この商店街の奥まったところに住んでいて、周囲からはほんの数センチばかり浮いていて、それでいて一番心の奥深くに入り込む才がある。民族音楽だって、別にその筋の専門家でも積年のマニアでもありゃしないんだ。とにかく多趣味で、人が作為を以ってこねくり出した物だったら、何だってハマる可能性がある。ただ、うちの商売柄、舞い込んでくるのは音楽関係の依頼ってだけでね」


「思い出しますねえ」


黒江さんが懐かしむ様子で言った。


「私が最初に取り次いだご注文は――たしか津軽三味線でしたっけ」


「和楽器は専門外なんだがな。でも、どこをどうしたらあんな一棹二百万もする、最高級の紅木でトチも一級品の物をポンと買えるだけの財力があるのやら。呑み屋のママさんの買い物じゃないぞ、あれは」


ええい、やめたやめた。


黒江さんも十二分に謎だが、永久さんの素性は考えただけでも頭がおかしくなる。世の中、あるがまま寄り添っておいた方が良いものも、きっとある。


「まあ、兎にも角にも謎だらけの人な訳だが――金曜日になったら判るよ。仕事帰りにここへ寄ってくれたら、連れて行くから」


「楽しみにしておきます」


戦士が大きな目をクリクリさせながら答える。とても五児のパパさんとは思えない。その子供、一人でいいから分けてほしい。親に見せたらきちんと返すから。


「で、時に黒江さん――午後はどうなってたっけね?」


スーパー秘書でもある黒江さんは、スケジュールを諳んじた。


「レッスンが四組ですね。縄田さん、大和さんところの双子、楢崎君――そして、モモちゃん」


水曜日はどこの学校でも職員会議をやりたがるのかどうかは知らないが、生徒は五時限目の終わりに解き放たれる。クラブがあればクラブへ、勉強するなら塾へ。街へ遊びに繰り出すのもまた一興。うちに来るのは一番中途半端な時間の使い方な気がしなくもないが、文句は言うまい。


ただ中学生高校生が殆どなのだが、ここら辺のお年頃というのは、『親の心子知らず』で子供が一方的に叛逆の狼煙を上げ始めるだけでなく、親もまた際限なくヒートアップするものである。お陰で、家庭内はガソリンでも撒いて、その上でキャンプファイヤーでも焚いたが如く大火事で、それは教育を生業とする関係者にも飛び火する。学校の先生は、まるで刑務所の看守かなにかのように監督責任を追及され、たかが一音楽教室の講師たる私とて例外ではない。そんなに心配なら縄でも付けとけ。


要は、面倒くさい生徒が多い日である。


その中でも群を抜いているのが我らがアイドル土安家で、シメを飾るオオトリらしく、私の胃に穴を開けようと猛然と掛かってくる。まあ前述の通り、大分聞き流す訳だけれども――平和に、何事も無く過ぎ去ったほうが良いに越したことはない。


「モモが最後だな――まさか今日も七十四分耐久独演会おっ始める心算じゃないだろうな、あのオバハン。次に人の役に立つ云々言い始めたら、ご希望に沿って放り出してやらなきゃならん。時間と労力を費やすこと無しに、お金を落として行ってくれるのが何よりもの貢献なのだから」


「また、そんなことを――」


黒江さんが苦笑した。


「え、そんな親御さんがいるんですか?」


戦士が目を丸くして言った。


「うちなんか、家族が代わる代わる面倒見たり、怒ったりしているんで、そんな親だけが教育に対して熱心になろうなんて不可能なんですよ。やっぱり、途上国と先進国との違いなんですかね」


途上国。先進国。


この二つの概念は、単なるGDPのグラフの上がり下がりによって定められるところがあるが、もっと大局に跨るものだと私は信じている。


「確かに昔は日本もそうだった。両親の他にも、祖父や祖母、兄貴や姉貴、近所のおばさんでも道往くおっさんでも、怒ってくれる人は沢山いた。俺が産まれるずっと前の話だ。戦争ですべてが打ち砕かれ、再建する喜び――更地に新築物件を建てる感覚で、近代国家としてメキメキ頭角を現して行った。ピークはバブル経済だ。高みでどんどん膨れ上がる『泡沫あぶくの太陽』を目指して、人々はただそこに向かって飛んで行けば良かったんだ」


一席打つ時の常で、煙草を咥え、服のどこかのポケットに入っているライターを探してモゾモゾやっていた私は、少しの間、口を噤む。


それを見計らってか、戦士と黒江さんがコソコソ囁くのが聴こえる。


(『泡沫』――『太陽』?)


(無駄に詩的な言い回しは聞き流してくださって結構ですよ。先生、要約が上手いんで、出端と最後の部分だけでも結構話が判るんです)


黒江さん? 聴こえてますよ?


そんな映画の予告編とレビューだけ見て、満足する人間のようなこと言って。


いくら『要約が上手い』って言われても、褒められた気が全くしない。


「最後まで聞けよ――まだ話は終わっちゃいないんだから」


私は鼻から口から煙を上げながら言った。


「『泡沫』――つまりバブルが弾けた時点で、人々の夢も意識もあっちこっちに散っちゃった訳だな。それが成長期の『途上国』から、大人の『先進国』に仲間入りする際の通過儀礼だった。するとさ、人ってのは悩むんだ――上を見続けるべきなのか、それとも水平に前を向くべきなのか、とね。ぐるりと見回して見るのも、また一つの選択肢である。そして――」


そして。


人々が皆同じ方向を見なくなった時、個人主義に捉われ始める。


「日本はつい数十年前まで、万事において足並みを揃える軍隊的規範の下で成長していたからね。対外的にはチームプレー精神が抜けないんだ。ただ、そこには以前のような心が籠っていない。一つは、社会が広がりすぎて、個人個人を個別に見ることが出来なくなったから。そしてもう一つは、共通の目標を持てなくなったからだ。連帯責任で詰め腹切らされる時分の名残で、他者に否定されることを病的に恐れる。その『懼れ』が、個々の強さが求められる個人主義の土壌で、枷となっている」


余所様に口出しされて、自分を否定されるのが嫌だから、人と接さない。


物哀しいが、筋が通った主張ではある。


ただそれは、旧態依然とした二人三脚思考の表れでもある。要は独りでいることに慣れないのだ。だから個人主義の名を借りて、人と人との繋がりをすっ飛ばしたコミュニティを築いて、寂しさを紛らわせようとする。


本当に発展し切って、孤独慣れしている国はそうは考えない。


仕事を何時に上がろうと、どんな格好をしていようと、仕事のパフォーマンスでしか人を評価しない。プライベートはプライベートとして、けれど公私の線引きを明言することなく、個人的な付き合いを大事にする。


日本は未だに、発展途上国だった子供時代を懐かしんでいるのだ。


「まあ要は、発展し切って間もない、ほやほやの状態だから嵌れる落とし穴だな。個人主義に切り替わるとまず出生率が下がって、少子化が始まる。すると、かつては水とエサだけやれば済んでいた子育てに、沢山お金と労力を掛けるようになるんだ。だから戦士――この国は『先進国』の見本としては失格さ。社会人を論じるのに、大学出たての新社会人を見ても始まらないのと一緒で」


英語力を振り絞って精一杯理解しようと必死な面持ちの戦士が、眉間にしわを寄せて言った。


「つまり、こと教育に関しては、途上国と日本のどちらが優れているとか劣っているとかいう問題じゃないってことですか?」


「その通り。なんぼ人類は皆平等で、この地球上のあらゆる地域に散らばっていると言え、やはり環境や風土に適した形態というものがある。それこそが『文化』で、隣の芝生が青く見えたから取り入れようとしたって、それには長い期間の積み重ねが必要ってことだな。日本はまだ順応途中なんだ」


変化には多大な労力がいる。


成長期の子供は、少しの環境の変化も繊細に感じ取って苦しむし、様々な変調をきたす。


一個人ですらそうなのだ。社会が転換期ならば、皆不安になる。


黒江さんが、そっと戦士のほうを覗き込みながら言う。


「この教室、結構そうした生徒さんが多いんですよ。生徒さんたちの年齢もそうですけれど、音楽っていう謂わばプラスアルファのサービスですからね。情勢の様々な変化の煽りを諸に受け易いんです」


そんなことを言っている傍から。


玄関の呼び鈴が、『ピンポーン』と家中に鳴り響いた。


戦士が飲みさしのほうじ茶を一気に煽りながら、勢いよく立ち上がる。


「あ、もう生徒さんがいらっしゃる時間でしたか。そろそろお暇しないと」


「そんな馬鹿な」


私はしかめ面をして言った。


「まだ一時半だぜ。どこの学校も昼休みが終わったばかりだろ。最初の縄田だって、一時間後のはずだ」


「宅配便かしら」


と、立ち上がる黒江さん。


しばらくすると、肝が据わった彼女らしからぬ戸惑った表情で戻ってきた。


「あのォ、先生?」


いつになく歯切れが悪い。


「どした? 勧誘とか押し売りなら、追い返せ」


「いえ、違うんですよ――生徒さんなんですけれどね」


「生徒もなにも、今の時間はまだ予約入ってないぜ? 厳密に言えば客でもなんでもない訳だ。時間が来るまで外で大人しく待っていてもらう他にないな。私の機嫌が良ければ、招き入れてやらんこともないが――って言うか、マジで誰なんだ?」


「モモちゃんですよ」


確固たる口調で、ハッキリとそう告げる黒江さん。けれどその眼には、ためらいがちな色が濃く浮かんでいる。


「モモだぁ?」


私は頓狂な声を上げた。


「アイツのレッスンはしんがりだろ? うちは学校の購買じゃないんだぞ――って、マジでなんで来た」


黒江さんは、私がゴタゴタ御託を並べたときの常で、ほとほとうんざりしたような溜め息を吐いた。


「直接訊いてみたらどうですか?」


「おい、まさか上げたんじゃないだろうな――」



そう言い終わるや否や。


扉の陰に退いた黒江さんの代わりに、私の視界に飛び込んできたのは、あどけない顔をしつつも憔悴と小生意気の入り混じった、見慣れた丸顔に浮かんだはち切れんばかりの笑顔だった。



「先生、来たよ! しばらくよろしくね!」



ヨロシクだぁ?


何を言いやがる貴様、と私が口を開くより先に、ゴロゴロと引き摺られてきたピンクのスーツケースを見て、私は全てを察し――絶望した。




土安萌々香は、どっからどう見ても紛うこと無く――純然たる、すがすがしき家出娘だった。



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