お弁当と卵焼き

 お弁当、という単語には、どことなく魅惑的な響きがある、と常々思う。

 幼稚園の頃の、花や星や動物など、可愛らしくデコレーションされたものなどは未だに鮮明に記憶に残っているし、小学校に入ってからは給食になってしまったけれど、それだからこそ、イベントの折にほどよいサイズのお重などに、綺麗に並べられたおかず達が、普段にないわくわく感を増幅させてくれる感じで、楽しくて大好きで。

 でも、いざそれを全て作ってみよう、ということになると、これがなかなかに難しくて。

 「一花、鶏肉はもうそろそろいいわよ。たれを絡めてしまいなさい」

 「うん。量、このくらいでいいよね?」

 水曜日の早朝、我が家の、キッチンにて。

 隣に立ち、指示を飛ばしてくる母に、わたしは計量スプーンを片手に、小さなガラスのボウルに入れたそれを示してみせた。醤油、みりん、お酒を合わせた照り焼きのたれだ。

 「丁度いいわ。下味はついてるから、あんまり煮詰めすぎないようにね」

 「分かった」

 軽く頷いた母に短く返すと、フライパンに掛けていた蓋を取り、三角に折り畳んであるキッチンペーパーで余分な脂を取ってしまう。あとは、たれを回し入れて少し強めの火で煮詰めれば、完成だ。全体に綺麗に絡めようと、片手でフライパンを頑張って(情けないけれど、これが意外に重いのだ)揺すっていると、

 「それにしても、随分たくさん作るのね。彼、そんなに食べる方なの?」

 流しの天板に置いたレシピスタンドに立てておいた、お品書き一覧を手に取って、母が小さく微笑むのに、わたしはかぶりを振ると、

 「お父さんみたいには食べないよ?ただ、その、作れるものは作っちゃおうって……」

 言いながら、なんとなく気恥ずかしくなって言葉を濁してしまう。というのも、今回のお弁当作りについて、まだ細かい所は自信がないので、指導と監督をお願いします、と、母に頼んでからというもの、何やら終始上機嫌なのだ。

 誰と行くのか、はもちろん話してある。植物園に行こうか、と誘ってくださったので、せっかくだから、お弁当を、しかも全部を航さんの好きなもので一杯にしてしまおう、と考えたのだ。それで、色々と好きなものやリクエストをお伺いしていたら、あれもこれも、となってしまって。


 ……だって、作りましょうか、って言った時、あんなに嬉しそうにしてくれたから。


 ちょっと目を見開いてから、有難う、お願いします、って、頭まで撫でてくれて。

 昨日の夜にも、楽しみにしてるから、とメッセージまで貰ってしまっては、がぜん張り切らずにはいられなくて。

 そんなことを思い返している間に、鶏肉には良い感じの照りがつき、よし、とばかりに火を止める。お皿に取って冷ましている間に、最後のおかずを作るべく、先に冷蔵庫から出しておいた、白い卵に手を伸ばした。厚焼きの、卵焼きを作るのだ。

 実は、これを作ることについてだけは、ちょっと自信がある。包丁の扱いにも慣れて、本格的に料理を教わり始めた小学生の頃、頼み込んで一番に仕込んでもらったからだ。

 ともかく、ボウルを用意して、三つを次々に割り入れると、菜箸で解きほぐし始める。

 仕組みを学んで、理屈は分かっているものの、卵というのは不思議な食材だ、と思う。

 硬くて丸い殻の中から、どろりとした黄身と白身が出て来たか、と思うと、熱や調味料、つまり加えられるものによって、姿が様々に変化していく。

 そのせいか、初めて手作りのマヨネーズが作られるのを見た時は、母のことを、まるで魔法使いか何かのように感じて、大騒ぎした記憶が残っていて。

 「今日は、何味にするの?」

 「お砂糖入りの、甘めの。航さんのお家がそうだっていうから……あのね、お母さん、そんなににやにやして見てないでよ、手元狂いそうだから」

 さすがに照れてきて、頬が熱くなるのを感じながらそう抗議すると、母は両手でそっと口元を押さえて、それでもこらえきれないようで、柔らかく頬を緩めて、

 「ごめんなさい。でも、考えることはやっぱり同じよね、って思っちゃって」

 「それは、そうです。わたし、お母さんの影響をまともに受けてるんだから」

 そう返しながら顔を戻すと、砂糖と少しの塩を目分量で入れつつ、さらにかき混ぜる。

 味付けにはその家ごとに違いがある、と聞くものの、うちは父の意向もあり、ケースに応じて使い分けている。お弁当には固めに、焼き色もこんがりとした甘めのもの、晩酌の折には、箸を入れればじんわりと沁みだしてくるような出汁巻き卵、またはしょっぱめの、塩と醤油で味付けしたものと、要するにこだわりに合わせているわけで。

 もちろん、母はわたしの我儘にも沿って作ってくれていたから、時には異なる味付けのものが食卓に並ぶ日もあったりもして、人一倍に手間も暇も掛けているのを、ずっと目にしてきているのだから。

 「だって、それはもう仕方ないのよ。あの人ったら、中屋家の味も入江いりえ家の味も好きだ、なんて言ってくれるし、あなたと二人で美味しそうに食べてくれるから……それにね」

 何か思い出したのか、悪戯っぽく口角を上げてみせると、わたしにそっと身を寄せて、秘密を打ち明けるように囁いてきた。

 「ああ、お父さんと結婚したいな、って思ったきっかけが、卵焼きのことなの」

 「えっ!?それ、わたし初めて聞いた!」

 「そのはずよ。だって、こういう機会が来たら、娘に話してあげよう、ってずっと待ち望んでたんだもの」

 ……それで、ここのところ、ずっとにこにこ機嫌良さそうだったのか。

 ちなみに、二人の馴れ初めに関しては、中学生の頃に聞いたことがある。

 当時高校生だった母が、通学路の脇にある公園で、スーツ姿の男性がまさしく滂沱、といった風情で泣いているのを、気味悪さ半分、興味半分で眺めながら通り過ぎたものの、何故かどうしても気になって引き返してしまった、のが始まりだそうだ。

 結局、父がそんな風に泣いていた理由は、そこに居ついた人馴れした三毛猫のせいで、アレルギーがあるというのに、我慢できずに構ってしまったが故、だったそうだが、

 「まあ、詳しい話はあとね。とにかくそれを仕上げちゃいなさい、その間に紅茶淹れてあげるから」

 完全に手が止まっていたわたしに、母は高く結い上げた黒髪を揺らすようにして笑うと、近くに置いてある電気ケトルに手を伸ばした。

 それを聞いて、わたしは慌てて卵焼き器をコンロに置くと、ボタンを押して火を点けた。

 今日は、母も昼からの出勤で時間があるし、この展開ならきっと朝ご飯にはスコーンか、フレンチトーストかのいずれかが出て来るはずだ。

 にわかに浮き立つ気分を自覚しながら、こういうところは、間違いなく父の血を引いているな、と、わたしは少し複雑な心地になりながらも、卵液を勢いよく流し込んだ。



 なんとか、卵焼きも致命的なミスはなく、こんがりといい焼き色がついて。

 既に出来上がった他のおかず類を、仕切りとアルミカップなどを駆使して、お弁当箱に詰めている間に、コンロ前を交代した母が、わたし用の朝ご飯を手早く作ってくれた。

 父が起きてくるまで、あと十五分というところだけれど、今日は行き先がちょっと遠いから、わたしだけ先に取らせてもらうのだ。この後、身支度などにも時間を掛けたいし。

 予想は半分当たっていて、フレンチトーストに加えて、ハムと胡瓜のミニサンドまでが出てきて、いそいそと椅子につき、嬉々として香りのいい紅茶とともに食べ始める。と、

 「……お母さん、さっきの話」

 「ん?聞きたい?」

 「それもあるけど、絶対、喋っちゃいたいんでしょ」

 なかなか始まらないので、そう水を向けると、ばれた、と楽しそうに笑った母が、手にしたカップを口元に近付け、しばらく香りを楽しむかのように目を伏せる。

 その仕草に、時折父が見入っているのを思い出しながら、じっと待っていると、ふっと瞼を上げて、目を細めながら母は話し始めた。

 「お父さんね、凄く食いしん坊でしょう?」

 「うん。元からなんだよね?」

 中屋の祖母に聞いた話によると、『兄弟二人で食い扶持が足りないわけじゃなかったし、あれはもう生まれつきだとしか言えないわね』などと言っていたから、とにかく、昔から驚くほどたくさん食べるし、ことに美味しいものには目がない、ということらしい。

 また、大変太りにくい体質で、母と出会った時以来、ほぼ体型は変わっていないそうで、とても羨ましい限りなのだ。……その遺伝子は、ちょっと分けて欲しかったな。

 「本当、あちらのお義母様の言う通りなの。わたしと初めて会って、次にティッシュのお礼に、って誘ってもらった時から、もう感心しちゃうくらいの食べっぷりで」

 ティッシュ、というのは、父の涙と鼻水があまりにも酷いので、丁度持っていたものを提供したそうだ。そして、いずれお礼を、と名刺を渡された母は、しばし悩んだけれど、後日、書かれた連絡先に思い切って電話をしてみて、

 「ちょっとお洒落な、今だとカフェ、かしらね。そういうところに連れて行ってくれたのはいいけれど、テーブルの上が埋め尽くされちゃうくらい頼んで……こちらが唖然、としてるのにも気付かないで、次から次へと平らげていくものだから、もう、おかしくて」

 未だに、その時のメニューをはっきりと覚えているという。母はストロベリーパフェ、父はナポリタン、海老グラタン、クラブハウスサンドイッチ、チキンサラダにコーヒー。

 付け合せのパセリまできちんと食べ尽くして、そこで、やっとぽかん、としている母に気付いて、みるみるうちに真っ赤になってしまって。

 「聞けば結構年が上なのに、なんだか可愛らしい、って思ってしまったのね。今思えば、わたしも遠慮なくくすくす笑ったりして、随分失礼だったな、と思うんだけれど」

 そこからいわゆる『お付き合い』的なものが始まった、のだが、この微妙な言い回しは、お互いに何故か、好意はほんのりとあるものの、言葉にせずに進められたから、らしい。

 やがて、母は高校を卒業して短大に入り、父は会社で役付きとなった。入学祝いに、と猫を象ったペンダント(ちなみに、母は父ほど猫好きという訳ではない)を贈られた母は、お返しに何か、と申し出たところ、お弁当を作っては貰えないか、と言われて、

 「わたし、もうすっかり慌ててしまって。それは、少しはお料理も習ってはいたけれど、本格的に献立を立てて、全てをしつらえるまではやったことはなかったのよね」

 一花の方が、まだわたしより進歩が早いわ、と母は笑って、カップをテーブルに置いてしまうと、そっとくるむように指を巡らせた。

 その動きにつれて、左の薬指に常にはめられている、白金はっきんの指輪がちかり、と光を弾く。

 「それでも、頑張ったわよ?何がいいですか、って尋ねても、『あなたが作ってくださるのなら、何でも』って言われちゃって、嬉しい反面くじけそうになったけど」

 即座に入江の祖母に相談して、まるで今のわたしのように、お品書きを作り、作り方を習い、として、どうにか約束の日にそれらを形にして、お花見へと出かけて。

 川べりの静かな一角に場所を取り、おそるおそる、三段のお重に詰めたそれを勧めると、ぱっと顔を明るくした父は、いただきます、と手を合わせてから、黙々と食べ始めて、

 「時折頷きながら、美味い、って、そのたびに言ってくれて、凄くほっとしたの。でも、なんだかそれだけで胸がいっぱいになってしまって、ほとんど食べられなかったわ」

 けれど、数々の品の中で、父がひとつだけ、口にした後に動きを止めたものがあった。それが、卵焼きだったそうで、

 「意外そうな顔をしたから、口に合わなかったのかしら、と思って、不安になって見ていたの。そうしたら、何か考え考えしながら、ちゃんと食べてはくれて……」

 結局、ゆっくりと時間を掛けて、三段のお重を綺麗に空にした父に、お茶を勧めながら、母はそっと切り出したそうだ。もしかして、お家の味とは違いましたか、と。

 すると、違います、母の作るものは塩気が効いているものです、と返ってきて。

 「だからわたし、それじゃ、甘いのはお口に合わないですね、って謝ったの。ちゃんとこの人の舌に合わせれば良かった、って俯いていたら、また『違います』って言われて」

 焦ったような響きを帯びた声に母が顔を上げると、父は何故か顔を赤くして、しばらくその、とか、何と言っていいのか、などと呟いていたけれど、思い切ったように母の手を取って、こう言ったという。


 『母の味は母の味で好きだが、あなたの作ってくれたこれは何か、格別だから』


 母の唇から、確かに放たれたはずの言葉が、ふと若い頃の父の声で、耳に届いたような気がしたのは、きっと、わたしに向けられたその表情のせいだろう。

 甘やかな声音と、花が零れるかのような微笑みは、紛れもなく恋をしている、それで。

 「……お父さん、本当に直球だよね」

 思わず、ぽつりと正直な感想を漏らすと、母はますます笑みを大きくして、

 「そうね。ずっと変わらなくて……だから、いくつになっても大好きなのよ、ね?」

 尋ねるように確かめるように、語尾を上げてみせたのに気付いて、わたしはあることに思い当たって、そろそろと首を巡らせてみた。

 と、予想通りというか、二階からパジャマ姿で階段を降りてきていた父が、その途中に立ち尽くしたまま、真っ赤になっていて。

 照れをどこか遠くへ逃がしてしまいたいかのように、さっと顔をそらすと、

 「当たり前だろう。そうでなければ、誰が四半世紀も共にいるものか」

 驚くほどにはっきりとそう返してくるなり、スリッパが飛びそうなほどに足音も高く、残りの階段を降りてきて、そのままの勢いでリビングを突っ切り、大きく扉を引き開けて、玄関の方へと歩いて行ってしまった。

 「あ、お父さん、新聞もう取ってきてあるんだけど……」

 「分かってるわよ。しばらくしたら戻ってくるわ」

 目に見えてうきうきとした様子で、母はそう言うと、椅子を引いて立ち上がりながら、機嫌良く鼻歌などを歌い始めた。……少し調子外れなのは、ご愛嬌だ。

 

 でも、こんな風になれたら、いいな。

 

 年季の入った、鉄製のフライパンを振るうたびに揺れる、母のポニーテールを目の端にしながら、わたしは願いをかけるように、そっと小さく呟いた。



 そうして、母の彩りバランスチェックもくぐり抜けたお弁当を、航さんに披露して。

 父と遜色ないほどの、良い食べっぷりを見ることが出来て、その評価は、と言えば。

 ……とにかく、見事に射落とされてしまった、とだけ、言うに留めておこう。

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