聖紋

 幸い、青年を背負って自室に戻るまで、誰にも見とがめられることはなかった。

 カルナは青年を自室のベッドに寝かせると、額に手を当ててみた。

 熱はないようだが、血の気の引いた青年の顔は著しく衰弱しているようにみえる。 青ざめた顔色がより一層作りもののような端正な容貌を際立たせているが、今は青年の美しさに見入っている場合ではない。


(まずは、英気を養わないと)


 調香師であるカルナは基本的な薬学の知識も持っている。カルナは戸棚から滋養のための粉薬を取り出すと、水で溶いて青年の口に含ませた。

 青年はすでに意識を失っているようだが、それでもどうにか薬を飲み下すことはできた。毛布の下でかすかに上下する青年の胸を見ながら、カルナは次の処方を考えた。


(今はゆっくり眠ってもらわないとね)


 カルナは戸棚から谷ラベンダーとゼラニウムのエッセンスを染みこませた蝋燭を取り出し、火を点けて青年の枕元に近づけた。これで安眠できるはずだ。

 眠っていても鼻腔は敏感にエッセンスの香りを嗅ぎとるので、その効能を存分に発揮することができる。


(それにしても、どうしてこの人はこんなに疲れてるんだろう……)


 まだ若く英気に満ちているはずのこの青年は、年齢に相応しくないほどに活力を失っている。彼は自分のことを何も話してくれなかったが、一体どんな暮らしをしているのだろう。ここまで衰弱するほどに、満足な食事も摂れないような生活をしているのだろうか。


 時が経つにつれ、青年が穏やかな寝息を立てるようになるのを見届け、カルナはようやくほっと一息つくことができた。その時、慌ただしく部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「カルナ、いる?ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」


 カルナがその問いに答える前にドアが開き、その隙間から大きな丸眼鏡をかけた顔がのぞいた。


「あ、リーザ、今ちょっと取り込み中だから……」


 そこまで言いかけたとき、リーザは丸眼鏡の下で大きな目をさらに丸くしていた。


「ちょっとカルナ、誰よこの人?昼間っから男の人を部屋に連れ込むなんて」


 せっかく誰にも見られずに自室まで青年を連れてきたのに、リーザにしっかり見られてしまった。男子禁制の女子寮に若い男を連れてきたことを、よりにもよってこの噂好きのリーザに知られてしまうとは。


「い、いや、これにはいろいろと事情があってね」

「どういう事情があったら、こんな時間から若い男の人が貴女のベッドで寝ているのよ。あ、よく見ると素敵な人じゃない」


 青年の端正な顔立ちはさっそくリーザの目にも入ってしまった。おかしな噂が立ってしまう前に、まずはしっかりとここで噂の発生源を断ってしまわなければいけない。


「言っておくけど、この人との間にやましいことなんて何もないんだからね。ただ急に具合が悪くなったから私の部屋に連れてきて看病していただけだから」

「ほうほう、ということは具合が悪くなる前はこの人のそばにいたということですね。どうやってこんな絶世の美男子とお近づきになったのか、ぜひ知りたいところですねえ」


 リーザはにやにや笑いながらカルナを肘で小突いた。青年の容態を心配するよりも二人の関係を気にするあたり、この友人はまだ子供っぽさが抜けていない。


「たまたま王宮庭園でそばにいた人ってだけよ。それより貴方も調香師として、もっと心配すべきことがあるんじゃないの?」

「もう、相変わらずカルナはお堅いなあ。……ん、この人の手、何か光ってない?」


 リーザの指さした方に視線を向けると、確かに青年の右手の甲になにか紋様のようなものが浮かんでいる。それはどうやらカルナのよく知っている花の形をしているようだ。


「これは……ユキウツギ?」


 ヒベルニアの高山植物の紋様が、確かにその手に浮かんでいた。


「ねえ、これってもしかして聖紋じゃないの?」


 リーザの言葉にカルナは息を呑んだ。聖紋とはこの国の王族の体にだけ現れる痣のことで、その紋章は当人の持つ性質と深いかかわりがあるといわれている。


「でも、じゃあこの人が王族だって言うの?」


 青年は自分は衛士でも植物学者でもないと言っていた。調香師のカルナより花に詳しく、植物の研究に没頭したいがそれができない立場だということくらいしか青年については知らないが、それは王族であることとは矛盾しない。


「あたしはお会いしたことはないけど、セリム王子って王様に調香師の増員を進言したほど花好きな方だったよね?」


 セリム王子はヒベルニアの香道の発展に力を尽くしている人物として知られている。庶民の出のカルナが調香師になれたのも、セリム王子がすべての身分に調香師の門戸を開いてくれたおかげだった。


「でも、セリム王子って『無紋王子』だったはずでしょ?」


 カルナは首をかしげた。ヒベルニアの国民で、第一王子であるセリム王子の不名誉な二つ名を知らないものはいない。

 普通なら王族は皆その体に何らかの聖紋が刻まれているのに、セリム王子は聖紋を持たないために宮廷内では不吉な存在として忌まれているのだ。


「じゃあこの方は誰なの?ラザロ殿下は今は国境守備隊の隊長になっているはずだし、年齢から言ってもやっぱりこの方はセリム王子なんじゃない?」


 リーザの言い分はもっともだ。第二王子であるラザロは王宮にいるはずがないし、洗練された立ち居振る舞いと草花への造詣の深さから考えて、この青年はセリム王子だと考えるのが妥当な線だ。では、その右手に光る聖紋は何なのか。


「……ということは、セリム王子は本当は無紋なんかじゃなかった、ということなのかな」


 カルナは顎に手をあてて考え込んだ。青年の右手には確かに聖紋が光っている。今まで無紋だと思われていたのに聖紋が浮かんでいるということは、この聖紋は浮かび上がるのに何らかの条件が必要だということだろうか。


「ねえカルナ、これはきっと王宮を揺るがす大事件になるよ」

「どうして?王家の人間なら聖紋があっても当然でしょう」

「そうじゃなくて。今までセリム王子は無紋王子だと思われてたから世継ぎになれないかもしれないって言われてたんだけど、この聖紋を見せたら殿下にも正当な王位継承者の資格があるということになるでしょ」

「ああ、そういう……」


 カルナは花のことにばかりかまけているので、王宮の政治事情には疎い。

 しかし、セリムの聖紋が今後の王家の行方に大きな影響を持つことは理解できた。 そして、カルナはその聖紋の目撃者なのだ。


「どうしよう、カルナ。見てしまったからには、やっぱり黙っているわけにはいかないよね」


 リーザは困り果てたような顔でカルナを見つめた。自分ではどうしていいか答えを出せず、カルナに判断を預けようとしている様子だ。


「まずは香道長に相談しましょう。これは私たちの手に余る問題だと思うから」


 リーザは無言でうなづいた。青年の容態も安定したようなので、カルナはリーザと連れ立って香道長のもとを訪れることにした。



「……お話はわかりました。この件は決して他言してはなりませんよ」


 香道長は自室を訪れた二人にそう念を押した。もちろんカルナは最初からそのつもりだが、隣の口さがない友人がいつまで黙っていられるのかは心配だ。


「もちろん、決して喋ったりはしません。ところで学院長、これでセリム王子は正式に次期国王として認められるんですよね?」

「口を慎みなさい、リーザ。国家の大事はあなたの関わるべきことではありません」


 リーザは不服そうに口をつぐんだ。好奇心ばかりが先走るこの友人にはカルナはいつも頭を痛めている。


「それで、セリム殿下は今もあなたの部屋でお休みなのですね?」

「はい、そのはずです」 

「では、私が一度殿下の聖紋を拝見しましょう。カルナ、貴方の部屋まで案内してください」

「わかりました」


 結局カルナは香道長を連れ、自室に戻ることになった。やはりこの件は香道長に直に判断してもらうしかないだろう。

 

 しかし、自室に戻ると、すでにそこにセリム王子の姿はなかった。

折り目正しい人物なのか、さっきまで王子の身体を包んでいた毛布はきちんと折りたたまれている。


「カルナ、これはどういうことなのです?」

「私にもわかりません。おそらく、この部屋を開けている間に出て行ってしまわれたのではないかと……」

「ふむ、しかしそうなると、殿下の聖紋を見たのは貴方方二人だけ、ということになってしまいますね。カルナ、あなたは本当に殿下の右手に聖紋が浮かんでいるのを見たのですね?」

「はい、間違いありません。確かにユキウツギの紋様が浮かんでいました」

「ユキウツギ……ですか」


 香道長は眉根を寄せ、しばらくうつむいて考え込んだあと、カルナに厳しい表情を向けた。


「カルナ、良いですか。この件について、貴方はこれ以上関わってはなりません」


 どうして関わってはいけないのか、と抗弁してはいけない雰囲気だった。香道長の厳かな声に気圧され、カルナはそれ以上何も言うことができなかった。

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