第7話 囚われた、刀木隊長
午前二時過ぎ、
ソファには、
ひとりデスクに向かい、チェアの背もたれに身を預けている豪天は宙を見上げた。
「ほうきゃ、やっぱし
ソファ前に置かれたラップトップPC画面を観ながら、美麗は白衣のポケットからウイスキーの携帯ボトルを取り出して口に含む。PCの横には和綴じに製本された、かなり古めかしい書物が積まれていた。十数冊はあるようだ。
豪天一族の代々が後世に残してきた秘聞帖であると、蓮平は聴いている。
「これはどうやら
PC画面には四分割された映像が映されていた。ひとつは一緒に同行した
後の三つの画像は、蓮平たちがマルハチを装着した時に、頭部のヘルメットに取り付けられた超小型のレンズが録ったものだ。
先ほどの戦いを映像は鮮明に捉えていた。
いつになく真剣な眼差しで見つめる美麗。ちらりと横目で確認すると、蓮平はひとりうなずく。やはり普通に見れば、美麗はとても美しい。お酒臭くなければだが。
「ところで、蓮平ボーヤの画像なんだが」
言われてドキッと心臓がなる。
もしかして、あの真剣な戦いの最中にチラチラとみやのの姿を視界に捉えていたことが、バレタのか?
特にみやのがウイングを使って空中戦を展開した際にはムーブを悪用し、なるべく近くで下からみやののミニスカートからのぞく太ももを見に行ってしまった、赤面する恥ずべき行為が、発覚したのか?
蓮平は健全なる男子高校生の
「あれだけの短時間で、ムーブのオンとオフを使い分けて戦闘に取り込むなんざ、大したもんだな」
「ス、スミマセン! つい出来心で、見てはいけないと思いつつ、あまりにみやのさんがチャーミングなのでーっ」
ソファから滑り降り土下座しようとした蓮平は、そこまで叫んで顔を上げた。
誰もそんなことは言ってはいなかったのだ。自ら墓穴を掘ってしまったことに気づく。
「まあ!」
ところがみやのは、真っ赤に染まる頬を両手で嬉しそうに隠す。美麗はきょとんとした顔つきで二人を見比べ、関心のない素振りで次の話題に切り替えた。
「ところで、じいさん。しょっ引かれた
「もちろんだて。だもんで伊里亜をわしの使いとして、県警に出向かせておるんだがや」
蓮平とみやのは
伊里亜から連絡を待つ豪天。映像を解析しながら古文書をにらめっこする美麗。蓮平は顔を正面に向けたまま、視線だけで横に座るみやのを見た。
みやのは頬を押さえたまま下を向いていたが、敏感に蓮平の目線を感じ取ったのか、同じように横眼をチラリと動かす。蓮平が口を開こうとしたとき、豪天の座るデスクの電話が鳴った。
手を伸ばして受話器をつかむ豪天。
「豪天だが。おお、伊里亜きゃ。遅くまでご苦労さんだなも。で、刀木くんの身柄は受け取ったきゃーも?」
ふんふんとうなずく豪天の顔色が変わった。蓮平はその様子に気づいた。
「なんだてぇ! それはどういうこったねっ。いや、すまん、伊里亜に言っても仕方にゃーわな。ふん、それで」
顔を上げたみやのと蓮平は顔を見合う。どうやら予期せぬことが起きたようなのだ。
「わかった。すぐにこっちへ戻ってりゃあ。後はこっちでなんとか
受話器を置く豪天の顔には、深いしわが刻まれていた。
「どうかされたんだすか?」
蓮平の問いに、豪天は両目を閉じて腕を組んだ。
「ふむ。熱田署の署長によ、県警本部におるわしの知り合いから、先に連絡しておったんだけどもよう」
「はい」
「どうやら一足違いで、刀木くんの身柄が別の場所に移送されてまったんだがや」
「別の、場所と申しますと?」
訊きながら蓮平はみやのと目を合わせる。
「それがよう、アツタさんに出向いた所轄の警官に混じってな、公安の刑事が別件で最優先事案があるとかでよ。熱田署ではにゃーで、別の場所へ護送していったらしいんだわな」
「コーアン?」
そこに美麗が割って入る。
「公安が出張って来てるとは、これまたおかしげだな、じいさん」
「ほうなんだって」
「あたしの聞きかじりの情報によると、公安警察は隠密裏に動くことを旨として、所轄の警官らと行動を共にするなんてことは、まずないはずなんだがな」
「しかもその公安の刑事はよ、独りで捕縛された刀木くんを連行していったらしんだて」
みやのが心配そうな表情を浮かべる。
「それではおじさま、隊長さまは何処へ?」
「わからせんのだがね、みやのちゃんや。その公安の刑事は機密扱いとかで誰にも告げずに連れ去ったらしんだぎゃ」
「では、そのコーアンの、一番エライおかたに訊き出すというのは」
蓮平は身をのり出し一同を見回す。
はあっ、と美麗はため息をついた。
「無理じゃないかな。公安は同じ警察のなかでも行動は一切秘密らしいからさ。だから最初から警察は無駄だと言ったんだ」
そんな、蓮平は口を開けたまま固まった。
沈黙が支配する書斎。
「だけどが、そうも言っておれんでね。こうなったらわしの持てる力をなんとか使ってみるでな。それもそうだけどが、おまえさんがたも初めての合戦で疲れただろう。まずは身体を休めてちょーでゃあ」
言いながら豪天は受話器を持ち上げた。
~~♡♡~~
刀木は手錠をされたまま、古い形式のトヨタカローラの後部席に座らされていた。
「だからぁ、刑事さん。何度も申し上げてんですけど、わたくしゃあ、あの豪天さまのご指示でですねえ」
運転席のヘッドレストに手をかけ、刀木は身の潔白を、唾を飛ばして説明する。
ハンドルを握っているのは、
「放火犯だなんて、とんだ濡れ衣ですよぅ! あなたもご存じでしょ、豪天さまを。
いいですか、このナゴヤはですねえ、いま大変な厄災に巻き込まれようとしてるのが、警察ならわかるってもんでしょうが」
加茂は口元を曲げ、ブレーキを踏んだ。
「そうかい、あの豪天が絡んでいたのかい」
「そうですよ、さっきからそう言ってますでしょ」
「じゃあ、ゆっくり訊かせてもらおうか。おまえらが何を企んでいるのかをな」
加茂は助手席のバッグから、厚手の白いマスクを取り出すと口元を隠すようにはめる。次に取り出したのは小さなスプレー缶であった。
口を尖らせてなおもしゃべろうとする刀木に向かって、スプレーを噴射する。
「ちょ、ちょっとぉ! いきなり何すんの」
刀木は言いかけて、ガクッと上半身をシートに倒れさせた。どうやら強烈な催眠剤をかけられたようだ。加茂は乗用車のウインドウを全開にすると、アクセルを踏み込んだ。
~~♡♡~~
蓮平はみやのと共に豪天の書斎を辞去し、いったん自室へ戻ることになった。
「隊長さまは、ご無事でしょうか」
みやのは階段を上りながら心配そうな声音で言う。
「あの人、腕力はからっきしだけど口先だけは誰よりも達者だから、多分うまく切り抜けるんじゃないかな」
「でも、みやのさん」
「はい?」
「やっぱり大したもんだね」
「えっ」
不思議そうな表情で蓮平を見上げるみやの。その大きな瞳に思わず目線を外そうとする蓮平であったが、ぐっと堪えて逆にのぞき込んだ。その距離わずか十センチ。
「だって、あんな気味の悪い亡霊たちに、平然と立ち向かっていくんだもん」
回し蹴りや、ウイングで宙を舞う時にミニスカートからチラリとのぞく太ももを思い出し、蓮平の目尻が下がる。
「いやですわっ、蓮平さまったら。ワタクシなんて必死でほとんど覚えていないのですから」
恥ずかしげに顔を伏せたみやのは、つい両手で蓮平を押してしまった。
「あららっ!」
イヤラシさ丸出しでにやけていた蓮平の身体が、ぐらりと傾いた。
「デエェェーッ」
そのまま階段を勢いよく転がっていく蓮平。
「まあっ、こんな時まで対戦を思い出されて練習されるなんて。蓮平さま、ワタクシも見習わなくては」
悲鳴を上げて転がり落ちていく蓮平に、尊敬の眼差しを向けるみやのであった。
~~♡♡~~
翌日。
午前七時になると、館内放送が流れて朝食の準備が整ったことが流れる。
蓮平は初めての戦いに心身ともにかなり疲労していたが、ほとんど眠れぬまま過ごしていた。いまだに脳内にアドレナリンが湧き出しているようだ。
「あれっ? 今日の放送は伊里亜さんじゃないのかな」
放送は男性の声であったのだ。
バスルームで顔を洗い、蓮平は広間へ下りて行った。テーブルには珍しく美麗がすでに着席している。給仕をしているのは何度か館内で顔を見た、厨房を一手にあずかる料理長だ。恰幅の良い中年男性で、白いコック服姿でテーブルに朝食を並べていた。
「おはようございます」
蓮平の挨拶に料理長は丁寧に頭を下げる。美麗は読んでいた朝刊をたたむと、蓮平に言う。
「ああ、おはよう。やはり載っていないな」
「えーっと、何がですか」
美麗はバサバサと音を立てて、新聞を叩いた。
「昨夜の熱田神宮での一件さ」
おはようございます、と入口からみやのの声が聞こえてきた。続いて、ムアッと空気の壁を押すように豪天が入ってくる。
「みんな、おはようさんだなも」
「おはようございます」
席に着いた豪天に、美麗は同様に告げる。豪天は眉間にしわを寄せたまま、重い口を開いた。
「そうなんだて。豪天グループの新聞社にも訊いてみたけどが、警察からは何の記者会見もなかったってことだぎゃあ」
「でも、確か警備員さんがお亡くなりに」
みやのは深刻気につぶやく。
「それもどうやら、別の事故扱いにされてるようなんだて」
「あっ!」
思案顔の蓮平がハタと顔を上げる。
「所長さん」
「うん?」
「僕たちが身に着けているマルハチに、追跡機能とかはないのですか」
胸に下げたペンダントを持ち上げた。みやのも気づいた。
「残念だが、そいつに発信装置は組み込んではいない」
はあ、そうですか。と蓮平は再び下を向いた。
「どっちにしろ、刀木くんの身も
さあ、食べよまい」
豪天は暗くなりそうな雰囲気を一掃するように、置かれたコーヒーカップを持ち上げる。
「やっぱし朝はこれだて!」
テーブルには焼きたての厚切り食パン、マーガリンに小倉あんの入れられた容器が並んでいる。ナゴヤ人は小倉あんが大好きなのだ。
「いただきます」
蓮平も元気よくトーストにマーガリンをたっぷり塗り、スプーンで小倉あんを乗せた。生まれて初めての戦いの後でも、いや、だからこそ腹が減っていた。
「失礼いたします!」
広間入口に現れたのは、帰ってきた伊里亜であった。メイド服ではなく、昨夜、蓮平たちを送迎したときのままのスタイルだ。
白いTシャツの上に薄手のデニムジャケットをはおり、デニムのミニスカートを履いている。すらりと伸びた脚に、バスケットシューズが躍動感を与える。ツインテールではなく、セミロングの髪を肩におろしていた。
「おお、ご苦労さんだがね、伊里亜」
伊里亜は全員に目配せしながら、豪天に歩み寄った。
「会長、遅くなりました」
「寝とりゃあせんのだろ? 仕事は料理長に任せときゃーて」
伊里亜はいつもの天使の微笑みではなく、真剣な顔で豪天に問う。
「いえ、わたくしなら大丈夫でございます。それよりもその後何か新しい情報は入りましたでしょうか」
可愛いメイドでも凄腕の空手家でもなく、何故かひとりの女性として映る姿に、蓮平は違和感を覚える。
「なんだい、伊里亜。もしかして隊長の身がそんなに心配なのかい?」
パンには手をつけず、グラスに注がれた赤ワインを傾けながら美麗がさらりと口にした。とたんに伊里亜は大袈裟に両手を振る。
「い、い、いえっ! とんでもございません。わ、わたくしはただこの地を守られるかたが、おひとりでも欠けてしまったらと。そう、そうですわ! どうしてこのわたくしが、あんな下品なケダモノのことを」
最後のほうはゴニョゴニョと口ごもる。しかしその顔は真っ赤に染まっていた。
その後豪天は各方面に連絡を取るため書斎にもどり、美麗は引き続き研究所へ籠りにいく。
伊里亜はメイド・スタイルに着替えて家事に、蓮平とみやのは派遣されてくる講師の指導の下に入った。学生さんのモットーは、勉学にある。特に受験生である蓮平はたとえナゴヤを守る役割を与えられたとしても、それを理由に入試で点数をおまけしてくれるなんてことはないのだから。
~~♡♡~~
「う、うーん」
自分の発するうめき声に、刀木はうっすらと目を開ける。
身体中が痛い。はっと顔を上げた。薄暗い。どうやらどこかの室内らしい。窓は無く、ドアの隙間から差し込む光だけでは、自分がどこにいるのか判断できなかった。
しかも、「ありゃりゃっ、どうして俺は縛られてるのかしら?」刀木は後ろ手にロープで縛られ、両足も固く結ばれている。冷たいコンクリートの床に転がされていることだけは、わかった。
「ちょとお! 誰かいないのぉ? ここはどこよ」
大声で叫んでみるが、どこからも反応はない。
「おーい、聴こえてたら返事してくれませんかねえ」
何度も声を張るが、一向に返答はなかった。
「えーっとぉ、さっきからお腹の調子が悪くてですねえ。ちょっとだけこれを解いて、トイレにいかせてほしんですがあ」
シーンとする室内。
「おいおい、いいオトナがクソ小便をもらすなんて、そんなはしたないことを求めてるの? ねえってばあ」
諦めかけた時、ガチャンと鉄製のドアが開けられる。パーッと室内に広がる明かりに、刀木は思わず両目を閉じた。
「ふん、お目覚めかい、連続放火犯さんよ」
光の陰になってよく見えない。だがその声は聴き覚えがある。刀木を警察署から連行していった男だ。
「あんた、警官だろ? 何度も言ってるけど、俺は犯人じゃなくて、正義の使者なの!」
加茂は立ったまま、うっすらと笑う。
「いいオトナが、正義の使者ってか。おまえさん、精神疾患を装って罪を軽くしてもらおうって肚かい」
「いや、俺だって言いたかないけど、事実なんだからさ。なんならここで正体を見せようかあ」
刀木は寝転がされたまま、不敵な笑みを浮かべた。マルハチで武装すれば、こんなロープは簡単にはずせる。何と言っても、ゾウ五頭分を持ち上げるパワーが秘められているのだ。
「よーく観てなよ。いくぜ! アームドゥ、アンドォ、レディーッ」
シーンと静まり返ったままの室内。
「あれっ? どうして? キーワードを間違えちゃったかしら?」
刀木は焦りながら何度もキーワードを叫ぶ。しまいに息が切れ始めた。
加茂が肩をすくめる。
「やっぱ、先に病院へ連れて行ってやろうか、放火犯さんよう」
やっと気づいた。刀木は首から掛けていたペンダントがないことに。
「おやぁ、もしかするとこんな物を探していたんじゃないかな?」
加茂は生成りのジャケットのポケットから、青く光を反射するマルハチを取り出すと、目の前で揺らす。
「ああっ! それそれ、それですよ! 早く返してちょうだい。そしたら俺の身の潔白を証明できるから」
加茂は「ふーん」と声を出しながらしゃがみ、刀木の首にペンダントを掛けようとした。
ところがスクッと立ち上がると、手にしたマルハチを離してしまう。
カランッと床に転がる青いペンダント。
いきなり足を上げた加茂は、躊躇することなく踏みつけた。
「エエーッ!」
声を上げる刀木は、マルハチが音を立てて歪み、小さく火花が飛び散る光景を凝視する。
「あんたぁっ、なんてことを!」
加茂はぼさぼさの髪に手をやりながら、刀木を見下ろして言った。
「我々に刃向う連中は、粛清せんとな」
「我々って、あんた警官だろっ。正義を守る公僕じゃあないのかい!」
「笑わせるな、下賤の民よ。我々は崇高な使命を持つ者。選ばれし本当の指導者である」
「ま、まさかぁ? エッ、まさか、アンタは『金鶏』の?」
刀木はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ほう、よく知っているなあ。それでは色々と教えてもらおうか。我々の邪魔立てをする卑しき連中のことを」
加茂の双眸は妖しげな光を帯びていた。
~~♡♡~~
午後になると一雨きそうな灰色の厚い雲が、西の空を鈍色に変えていた。
蓮平とみやのは二人だけで体育館に出向き、格闘術の練習に精を出している。刀木がいないため、伊里亜はメイド・スタイルで屋敷の掃除をしながら、B2の研究室へも片付けに降りた。
美麗は天才的な頭脳を持つ科学者であるが、生活に関してはまったく無頓着なため、伊里亜は定期的に清掃を依頼されている。
バケツに雑巾、腰には空のゴミ袋をエプロンに括り、セキュリテイを解除すると「美麗さまーっ、お掃除タイムですわよー」と声を張り上げた。
大きな室内は、空調はもちろん各種設備が起動しているため、モーター音や機械音で多少大きな声を出さないと聞き取れないのだ。
専門知識をもたない伊里亜であるが、触るな危険地帯とか、劇薬などは美麗から教え込まれている。実験装置の積まれた幾つものテーブルや、床にこぼれた油などを素早く清掃していく。
室内奥にある仮設休憩場所で、美麗はホワイトボードに向かってつぶやきながら数式を書いては消し、を繰り返していた。
「美麗さま、ちょっくらお掃除させていただきますわ」
「ああ、伊里亜かい。ご苦労さんだねえ」
振り向いた美麗はイレイザーでボードを拭う。
ソファやテーブルの上には相変わらず食い散らかし飲み散らかした残骸が、伊里亜を待ちわびていた。
手慣れたもので、伊里亜はゴミ袋をさっと宙でふくらまし、瞬間的にゴミを選別して袋詰めしていく。
その手に金属製品がふれた。
「?」
伊里亜が持ち上げたのは、白く輝くマルハチの試作品であった。
「そんなところに隠れていたか」
「これは、なんですの?」
「うーん、試作品ってやつ。もう使わないから適当に捨ててよ。そいつは刀木のオヤジ隊長しか使えないからね」
丸いペンダントをながめ、伊里亜は訊く。
「これって、やはり燃えないゴミですよね」
「まあ燃やそうと思えば、燃えるけどさあ」
伊里亜は判断に困り、とりあえずそれはエプロンのポケットへ入れる。
「そうそう、またお買いもの頼まれてくれるかい」
美麗は空になった携帯ウイスキーボトルを振った。
「ジョニーウオーカーの黒ラベルですよね?」
「うん、お願い。まだ予備は五本ほどベッドの下に保管してあるけどさ」
「承りましてございますわ」
伊里亜はニッコリと天使の微笑みで応えた。
~~♡♡~~
はあっ、はあっ、蓮平は拭いても流れ出る汗を手の甲で再度ぬぐい、みやのと対峙する。
二人は体育館内で、みやの主導による空手の練習に入っていた。館内に取り付けられた時計はすでに午後六時近くになっている。
スイッチが入ったみやのは、コワい。蓮平は逃げ出したくなる気持ちを、歯を食いしばって耐える。
正拳による中段突き、上段突き。裏拳の正面打ち、左右打ち、廻し打ち。手刀を作って顔面打ち、鎖骨打ちおろし、鎖骨打ちこみ、内打ち。そして蹴り技にいく。前蹴上げ、内廻し、外廻し、ヒザ蹴り、横蹴上げ、関節蹴り、後ろ蹴り、廻し蹴りと続く。
もちろんみやのは有段者であるから、その拳は立派な凶器である。紙一重、すれすれの見切りで蓮平に突きを、蹴りを繰り出す。蓮平は練習を重ねるにつれ、ビビッて引けていた腰が、どうにかこうにか様になる程度にまではなってきていた。
広い体育館は空調が完備されているが、まだ動きに無駄の多い蓮平は汗だくになっている。
「はい、それで小休止いたいしましょう」
きりりとした眼光から憑き物が落ちたように、みやのの瞳が涼しげな光に変わった。
「ふひーっ」
蓮平は床の上に腰からくだける。
みやのは膝を揃えて体操座りになり、ニコリと微笑んだ。爪先が内側を向いており、これがまたカワイさを増幅させる。
「さすが蓮平さまですわ。わずかの間にこれだけ型がピタリとお決まりになるなんて」
蓮平は顎を上げて天井を仰いでいた目をみやのに向ける。
「いやあ、まだまだだよう。武装していなかったら、殴ったこっちの手首がポキッて折れそうだもん」
「いいえ、ワタクシごときが語るなんておこがましいのですが、蓮平さまは充分素質がおありになるとお思いますわ」
小首を傾けて髪を耳にかける姿は何ともいえず、思わずギュッとしたくなる蓮平。
この空間には二人しかいない。思いを告げるなら今しかないぞと、蓮平の心に天使なのか悪魔なのかはわからないが囁いてくる。
「いやいや、そんなふしだらなこと、僕にはできない」
ついつぶやいてしまう。
「えっ?」
「あっ、ああ、ごめんなさい! なんでもないです」
みやのはカールした長いまつ毛をふせた。蓮平に気づかれない程度にため息をついた。
「れ、蓮平さま?」
「はい?」
みやのは目を伏したまま、次の言葉が出てこない。
「あのう」
「はい、どうぞ」
「れ、蓮さまは、ワタクシのこと」
言いかけた時、体育館のドアが音を立てて開かれた。二人は驚いて振り返る。
「大変です!」
ドアを大きく開けたまま、伊里亜が肩で息をしながら声を振り絞った。
「早くおいでください!」
蓮平はみやのと目を交わし、立ち上がった。
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