隠居

 日吉の隠居が死んだ。八十六の大往生だ。死因は老衰と聞く。

「やくざが畳の上で死ねるとは結構なことだね」

 お悔やみに来た鶴見の文吉が言うと、

「『文吉貸元のおかげで周りが味方ばかりで安心して死ねる』と喜んでおりました」

住吉の又五郎が末期の言葉を述べる。

「そりゃそうと、又五郎でこの一家は纏まるよな」

「なんとか勤めます」

 又五郎は答えた。


 帰りの道すがら文吉は考えた。

「日吉は享年八十六。普通はそこまで生きられめえ。せいぜい還暦までだ。とすると、俺は今年五十一になったからあと九年かよ」

文吉の顔が渋くなった。

 鶴見の屋敷に着くと、文吉は奥の間の新九郎を訪ねた。凶状旅から帰ってひと月。新九郎は持病の薬を文吉に取り上げられてすこぶるやる気がない。よって、弟の六浦代官小十郎にも逢っていない。話すのは動物達だけで唯一人間で話しをするのは、飯炊きばばあの、おあさくらいである。飯は相変わらず三人前は食べているので身体の病気はなさそうだ。

「新九郎さん、入るよ」

 返事も待たずに文吉は襖を開けた。

「ああ、薬泥棒の文吉貸元。薬を返しに来たんですか?」

 やる気のない挨拶。

「そうじゃないが……まあ、場合によっては返してやってもいい」

「本当でござるか」

 俄然元気になる、新九郎。

「俺の頼みをきいてくれるなら薬を返す」

「頼みとは?」

「俺をやくざから引退させて欲しい。つまり隠居だ」

「え、まさかそれがしに後を継げと」

「いや、跡継ぎは凪だ。だから凪の」

「入り婿ですか?」

「それも違うよ。話しは最後まで聞こうよ。俺はあんたに凪の後見人になってほしいのさ」

「後見人? それがしに勤まりますかな」

「あんたにしか出来ねえよ」

「いいですよ。だから薬を……いやその前にしておかなきゃいけない事があった。貸元、それがしこれから戸塚に行って来ます。生きて帰って来たら、その役お引き受けします」

 そう言うと新九郎は馬の青に跨がって駆けて行った。


 戸塚に走りついた新九郎は一家の前でこう叫んだ。

「松近殿。松近健一郎殿。草刈新九郎が仇討ちの返り討ちにやって来ましたぞ」

 一瞬賑わっていた通りが凍り付いた。屋敷の窓が開いて、松近健一郎が現れ、叫んだ。

「新九郎殿、今そちらに」

 やがて健一郎、赤坂主膳、青山権五郎、文臣の黄瀬川多門、遅れて戸塚の貸元友蔵に代貸の仁八郎はじめ戸塚一家の面々。それに友蔵の女房お糸が赤子の友吉を抱いて出て来る。大騒ぎだ。

「新九郎様、私に取ってあなたも健一郎様も命を助けてくれた大事なお方。命のやり取りは、やめにしませんか」

 友蔵が言う。

「松近殿次第」

 新九郎は言う。それに対して健一郎が問う。

「では一つお答え下さい。貴方はなぜ我が父の頸を無惨に刎ねたのですか。そして黒岩鉄ノ丞を短筒で殺したのですか」

「質問ふたつやがなあ」

 戸塚一家の三下の一人が残念そうに言った。

「うぬ、まず父上、豊後守殿を斬った理由を話そう。そなたは知らぬかもしれぬが、父上は若年寄金信佐渡守と組み、『物買役』なる新しい諸役を取り立て、それを私しようとしていた。ある筋からそれを聞いたそれがしは怒りに震えておった。そこにさる者から、本日佐渡守邸で観桜会があり、豊後殿も来られると聞き、それがしは両君を成敗することにしたのだ。その行為に悔いはない。しかし佐渡はともかく老中の豊後殿の頸まで刎ねたのはやり過ぎであったかもしれん。せめてご切腹をお勧めすればよかったと思っている。

 黒岩の件はそれがしも悔いが残る。実力は互角であったかも知れない。わくわくした。しかし事件がおきた。目も開かぬ子ねこが戦場に迷子しておったのだ。それがしは子ねこを安全な場所に持って行くため「待った」を掛けた。しかし黒岩はそれを無視して撃ち込んで来た。このままではそれがしは死ぬ。その瞬間、無意識に短筒が出た。黒岩がもう少し辛抱強ければきちんと対峙したのに……」

 静まり返る場。それを破って健一郎が言う。

「父の件で出て来た『ある筋』とか『さる者』とは何者ですか」

「それが良く分からぬ。寝床に手紙があったり、町で急に耳打ちされたりした。冗談のような話しだが嘘ではない」

「そうですか」

 考え込む健一郎。やがて、

「仇討ちは止めにします。あなたには我ら四人掛かっても叶わない。そして私は草刈新九郎様の弟子になります。皆は好きにしてよいぞ」

という、大胆な決断をだした。それに対して、赤坂、青山、黄瀬川の三人は、

「若に付いて行きます」

 と頭を下げた。勝手に事を進められた新九郎は、

「それがし弟子を取るとは言っておらんぞ」

と抗議したが、友蔵が、

「これはめでたい結末だ」

とはしゃいで健一郎らを握手して回り、

「祝いの酒じゃ」

と昼からどんちゃん騒ぎである。しかし新九郎は酒が飲めないので、番茶を片手に飯を食らっている他なかった。

 結局一晩泊まって、新九郎と健一郎の一行は鶴見に向かった。


「新九郎さんどこ行ってたんだよ。お父さん、おかんむりだよ」

 凪が言う。その後ろに四人の侍がいたのでちょっとびっくりしている。

「ああ、今日から四人ほど、厄介になる。渡世の仁義を知らぬものゆえ迷惑をかけるかもしれん」

 そのうしろで健太郎以下が頭を下げている。それが何かおかしかったのだろう、凪が吹き出しながら四人を客間に案内している。その間に、新九郎は文吉の部屋に行った。

「遅かったじゃねえか」

 やはり、文吉は機嫌が悪い。

「お待たせしました。生きて帰って来れたので、凪さんの後見人を引き受けます」

「おう、そうかい」

 たちまち機嫌の良くなる文吉。

「利兵衛さんはどうするんです」

「年寄りは隠居さ。誰か算盤の上手い奴いないかい?」

「ええ、いますよ」

 新九郎は答えた。

「あと、江戸に名を轟かした剣客二人に若き好青年が一人います」

「新九郎さんの仲間も増えたねえ。大豆戸で貸元でもやるかい」

「ご冗談を……それより凪殿に良い婿を取って一家を継がせれば良いのではないですか」

「凪は男にうるせえ。俺を見て育ったからな。奴のお眼鏡に掛かるのは……一人だなあ」

「では、その者に」

「無理」

「なぜに」

「家格が逢わねえ」

「武士ですか」

「武士の中の武士よ」

「この地に自領を持つ、旗本ですか」

「いやいや」

「見てみたいものだ」

「あんたには見えません」

「なぜ」

「この話しは終わり。後見よろしくお願いします」


 ひと月後、鶴見で花会が開かれ、その席で鶴見の文吉の引退と、娘凪が二代目文吉の名跡を継ぐ事が発表された。同時に代貸、利兵衛も一線を引く事になった。一部では「娘貸元」で大丈夫なのか? という声も聞こえたが、大勢は「恩州は平和になったからこれもありさ」とか「《左斬り》が後ろに居るから大事ないさ」という感想だった。

 引退した文吉と利兵衛はお世話になった大親分筋に挨拶に行く事となった。

 二人を見送る文吉一家と新九郎と仲間達。一つの時代が終わったと誰もが感じていた。すると凪改め二代目文吉が、

「すっかり忘れてた。新九郎さんが居ない時、お代官様がおおきなお櫃を置いていらしたわ。新九郎さんに渡してくれって」

 とすっかり失念していた事を思い出した。

「それはいずれに?」

「ああ、子分達の食事の間にずっと置きっぱなしよ」

 そう聞くと新九郎は急いで食事の間に行った。

 それは隅っこに隠れていたが、新九郎にはすぐ分かった。

「なにこれ」

 凪の文吉が聞くと、

「鎧櫃……草刈家の家宝……これで小十郎に逢わぬ訳にはいかなくなったな」

新九郎はため息をついた。

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