恩州へ

 恩恵おんえ国は武蔵国と相模国とに挟まれた小国である。現在の地名でいえば、神奈川県横浜市の大部分と川崎市がそれにあたる。律令制では下国であるが比較的温暖な気候に恵まれ、海沿いでは漁業、平野部では稲作を中心とした農業が盛んである。また東海道の川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿、戸塚宿を抱え、人々の往来も多く商業も発達していた。

 行政的にみれば、一部の旗本領を除き、幕府の直轄地であり、六浦湊にある代官所が統治していた。しかしその内情は脆弱で、代官の下に二人の与力と十人の同心が配置されているだけで、小国といえども管理はとても不可能であった。そのため実質的な支配は各所の名主に委ねられ、また非合法である博徒たちが多数存在し、ある者は十手を預かる二足の草鞋で、ある者は暴力で、またある者は人徳で地域を取り締まるという状態が黙認されていた。一種の無法地帯ともいえる。


 それはさておき、ここは東海道、武州蒲田村の近く。

 街道には人々が西へ東へと往来している。

 その中に小者を連れた商人がいた。年は幾つだろう、背中を丸め歩く姿は老年のようだ。杖も突いている。しかし笠の下を覗けば皺一つない額。黒々とした鬢。なんとも面妖である。そのくせ顔は穏やかに微笑んでいるように映る。人好きのする面だ。一方、後ろに従う小者の方は、小者という言葉が不釣り合いな程の長身で幅も広い。どちらかと言えば用心棒なのかもしれない。

「それにしても」

 小者が口を開いた。

「今回の江戸での商い、上々の首尾でございましたな。ご主人様」

「そうだねえ、久々の大仕事だったね。損少なく、利多し。まこと商売成功の見本のようでした」

 商人は笑う。

「これからも大仕事は増えるのでしょうか」

「どうかな。今まで通りの地道な小商いが続くのではないでしょうか」

「西に儲け話の噂もありますが」

「いえいえ、西には別の大店がありますからね。この世界、義理は守らないと身の破滅ですよ」

 商人は小者を嗜めた。

 さて、間もなく恩州という一里塚が見えて来たとき、先ほどから、商人たちの前を歩いていた一人歩きの武士が、突然前のめりに倒れた。

「いかん、卒中かもしれない」

 商人は慌てて、小者を側へやった。

「お武家様、これ、意識はありますか」

 そっと声を掛ける小者。

 商人が辿り着くと、周りに人が集まってきた。みな心配げな顔だ。人情ここにあり。すると、

「ああ、相済まん。な、情けなきことだが、は、腹が減って、あ、歩きもうせん」

人々からどっと、笑い声が起きた。とりあえず、命に関わらず一安心。

「どなたか余分な食べ物をお持ちか」

 商人が尋ねるが、あいにく宿場から離れた街道筋、誰も食べ物を持っていない。

「では、これを出そう。牛吉、用意を」

 商人が命ずると、牛吉と呼ばれた小者が背負った荷物から鉋のような道具を出した。

「お武家様、今から削り節を作りますので。たいした腹の足しにもなりませんが当座の紛らわしにどうぞ」

 商人はそう言うと懐から鰹節を取り出し、削りだした。

「す、すまんのう」

 武士は何とか身体を起こすと出来立ての削り節をむさぼるように食べた。

 しばし経つ。

「なあ、そなたは何で懐に鰹節を入れているのだ」

 ひと心地つき、商人に礼を言った後、武士は尋ねた。

「はい、ねこを捕まえるためでございます」

「ねことな」

「はい、わたくし日本橋や品川から小田原の宿場町で、今流行りの《ねこ茶屋》を経営しております。なので、ちょっと様子の良い野良ねこを見つけると鰹節で誘って捕まえるのでございます。そのあと人に懐くように調練して店に出すのでございます」

「野良ねこなんて勝手に捕まえていいのか」

「はい、なんせお魚くわえて裸足で追っかけられるのが野良ねこですから、魚屋や長屋のおかみさんに大変喜ばれます」

「そうなのか……しかし、その《ねこ茶屋》とやら、本当に流行っているのか」

「はい、家でねこを飼いたくてもご家族の反対で飼えないお方、寂しさを紛らわしに来るお方、単なるねこ好きのお客様で、大繁盛でございます。そうだ、すぐそこの川崎宿に店がございますからお連れしましょう。そこで団子でも召し上がりください。牛吉、荷物はわたくしが持つから、お武家様をおぶって差し上げなさい」

「済まぬのう。でも、それがし金を持っていないぞ」

「構いません。袖振り合うも他生の縁でございます」

 そう言うと商人は名を名乗った。

「申し遅れました。わたくし、玉屋玉三郎と申します」

 それを受けた武士は一瞬の躊躇を見せたがやがて名乗りをあげた。

「それがしは……草刈新九郎」

「では、江戸で噂の」

「謀反人よ」

 新九郎は自虐的に答える。すると、

「なにをおっしゃる。庶民の英雄でございますよ」

と玉三郎が感激の言葉をあげる。

「それがしがか」

 驚く新九郎。

「ここで会ったは我が身の誉れ。命を懸けてお守り申し上げます。とにかく我が店へ」

 新九郎を誘う玉三郎。

「さあ、どうぞ」

 新九郎は牛吉に負ぶさって川崎宿の《ねこ茶屋》に向かう。それは恩州に足を踏み入れるという事であった。


「なあ、ご主人」

 団子を静かに頬張っていた侍がねこを膝に抱えて《ねこ茶屋》の主人に問いかけた。

「へい、なんでございましょう」

 もみ手で対応する主人。

「こんな男を見かけなかったか」

「はあ、どのような」

「いわく、色白でな、背丈は拙者と同じくらい。太刀を右腰に佩いておる、おかしな格好だ」

 侍の膝でねこが欠伸をする。すっかり、なついた様子だ。

「そのお方なら、覚えておりますよ」

 主人が答える。

「二日も前のことでしたかねえ」

「そうか! その者は何か行き先などを話したりしなかったか」

 侍は立ちあがって尋ねる。ねこは落ちぬように抱えている。やさしい男だ。

「そうそう、奥州がどうのこうの言っておりました」

「奥州……遠いな、これは急がねば」

 侍はねこを腰掛けに下ろすと、主人に言った。

「もし、万が一その者が再び現れたり、その噂を聞いたりしたら、江戸白金の鈴木出羽守様のところへ飛脚を出してくれ。褒美は取らす。頼むぞ」

 そう言うと侍は代金と謝礼を置いて店を出ようとした。

「もし」

 引き止める主人。

「なにか」

 振り返る侍。

「せめてお名前を」

「拙者は前の豊後守、松近直家が嫡子、健一郎直道」

「しかと承りました」

「ありがとう、では参る。ねこ、可愛かったぞ」

 侍は颯爽と出て行った。

 

 店の外では三人の侍が待っていた。

「若、茶店の主人と話して、何か分かりましたか」

 三人のうちで最も強そうな侍が尋ねる。

「奥州だ、鉄ノ丞」

「奥州? 道が違いますぞ」

「奴なりの陽動だろう。我らは一旦江戸に戻って東山道を行くぞ」

 健一郎は気が急いた。

「若、拙者はもう少し恩恵国を探索いたしとうございます」

 鉄ノ丞が言った。

「そうか。その考えも捨てがたい」

 健一郎がうなずく。

「では、お先に」

 鉄ノ丞が出発する。

「うぬ、われらも参るか」

 健一郎は残った二人を引き連れ、道を戻った。


 しばらくして、元の茶屋。

「危のうございましたな」

 玉屋玉三郎が言った。

「かたじけない」

 厠に隠れていた、草刈新九郎が出て来て礼を言う。

「しかし中々の若侍でございました」

《ねこ茶屋》の主人、兎ノ助が言う。

「そうだな、父に似合わぬ好青年。さらに松近にこの者ありと謳われた黒岩鉄ノ丞に赤坂主膳と青山権五郎の《赤鬼・青鬼》の三人か。強敵だ。しかし、むざむざ奴らに斬られるわけにはいかん。それに……」

「それに?」

 尋ねる玉三郎。

「斬りたくもない」

「黒岩様は別の道を行きましたね」

 兎ノ助が聞く。

「奴は鼻が利く。それがしが近くに居る事に感付いたやもしれん」

 呟く新九郎。

「ところで如何します。松近様の後ろに鈴木出羽守様がいるということは、公には仕置きがなくとも私兵を動かし草刈様を亡き者にしようとする動きがあるという事でしょうね」

「うぬ。出羽の老人はそれがしの事が嫌いだからな」

「なにか、因縁でも」

「ひとことで言えば、期待を裏切ったという事だな」

 自虐的に話す新九郎。

「それはともかく、ここは一つ、この恩州に身を潜められたら」

 玉三郎が提案する。

「恩州……あまりにも江戸に近過ぎるのではないか」

 新九郎は乗り気ではない様子だ。

「灯台下暗しの言もあります。それに恩州は代官の力も弱い。隠れ住むには絶好の地だと思います」

「そうか、そういう考えもあるな。ではそういたすか」

 新九郎の足元にねこたちが多数集まっている。削り節でもくっ付いているのか。

「恩州に潜むのはよいが、居場所はどこにする。この茶屋では、往来が多いから、いずれ知られてしまおう」

 ねこを撫でながら新九郎が尋ねた。

「そのことでしたら一つ、心当たりがあります」

 玉三郎が答え、先を進める。

「ここから南に行った鶴見村に、文吉という貸元が居ります。義理に厚く、無駄な喧嘩はしない。堅気の衆に迷惑を掛けない。来る者は拒まず、去るものは追わず。賭場は開いてもインチキ、八百長のたぐいは大嫌いというよく出来た親分でございます。唯一の欠点といえば、もう老年に差し掛かっているので少々頑固なことでしょうか」

 それを聞いて、新九郎は顔を顰めた。

「貸元とは、ようするに、やくざのことであろう。いくら流浪の身といえども博徒に成り下がるのは、いやだなあ。それなら、この茶屋で下働きでもさせてもらったほうが良い」

「ここは往来が激しいから止そうとおっしゃったのは新九郎様ですよ。それに、文吉親分はやくざなんかじゃありません。任侠に生きる人です。必ずあなたのために尽くしてくれます。どうぞ、ご同道下さい」

 玉三郎は誠意を込めて説得した。

「任侠、まことの男という事だな」

 新九郎は虚空を見上げた。

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