或る傍観者は全てを語る

 凛と響いたその声に、場にいた誰もが唖然として硬直した。




 ただ、一人を除いては。




「……クロちゃん」




 乙木は。

 視線を逸らせぬままで、ぽつりと久路人にこう問いかけた。






「クロちゃん。その人、だあれ?」






 乙木の部屋の入り口。

 そこに立っていたのは、乙木や久路人と同じくらいの年齢と覚しき青年だった。


 身に纏っているのは久路人と同じチェック柄のタイとスラックス。上には白のブレザーを羽織っている。

 ドアに寄りかかりながら彼は切れ長の目をすっと細め、乙木へと視線を向けた。



「忘れた? 乙木。

 ま――忘れているのが当たり前、か」



 独り言のように呟き、彼は口元だけ薄らと笑みを浮かべた。



「ミツキちゃん。出てきちゃって大丈夫なの?」

「こっちの予定は完了したから平気だよ。もう潮時でしょ」


 久路人からミツキと呼ばれた青年は平然と答える。状況が飲み込めない乙木は、二人を交互に見遣るばかりだ。


 我を取り戻した篠宮は乙木から離れてミツキに対峙すると、穏やかに話を切り出した。


「……どちら様ですか? 久路人さんのお知り合いの方のようですが」

「久路人さんと同じく、あの研究機関から派遣されたただの高校生ですよ。篠宮さん」


 至って冷静な口調でミツキは答えた。

 眉間に皺を寄せながら、尚も篠宮は問いかける。


「一体、いつの間に館の中へ入ったんですか。あの扉は蝶番が錆びていて、触れば大きな音を立てる。私が気付かない筈ない」

「俺は久路人さんを通して、全ての会話を聞いていました。ついでに要所要所で彼に指示を出していましてね。

 途中、久路人さんにわざと大きな音を立ててもらって、その隙に館内に入ったんですよ」


 久路人は髪の毛で隠されていたイヤホンを左耳から引き抜く。何食わぬ表情で彼はそれをポケットに仕舞い込んだ。

 ミツキは更に話を続ける。


「けど、問題なのはそこじゃない……それこそが、現状が異常だという証明の一つでもある。

 幽月邸の玄関は古びて音が鳴る。

 なのに、何故あれだけの人数の客は、俺たちが気付かないうちに応接間にいたのか?」


 彼の言及に、篠宮は答えない。

 微動だにせず、ただ真意の読めない穏やかな表情を浮かべていた。


「まるで間違い探しのように矛盾はあちらこちらから見つかる。けれど、代表していくつか挙げさせてもらうなら。

 十和子さん、……乙木のお母さんは人嫌いだと貴方は言った。けれど来客すら拒む気難しい人物が、ホームパーティなんか開きますか?

 それから。久路人さんに言わせた魔女についてのカマかけ――ほとんど動じなかったけど、一つだけ貴方はミスを犯した。

 血の魔法の存在は、基本的に当事者しか知らない筈なんですよ。他ならぬ魔女がそうとバラさない限りは、ね」


 困惑したままの乙木をちらりと見つめてから。

 ややあって、ミツキは告げた。


「血の魔法を発動させるには、二つの方法がある。

 一つは、単純に血の魔法を使える魔法遣い本人が魔法を使うこと。これには特に複雑な条件は何も必要ない。

 そして。もう一つの方法が、使使


 ミツキは後ろ手に隠し持っていた銀のアタッシュケースを前に出した。乙木の部屋に置いてあった、注射器を保管してあるものだ。

 慣れた手付きでロックを開けると、ミツキは一本の注射器を目の前に掲げてみせた。普段目にするものよりも、幾分針の太いそれ。



「これはの注射針だ」



 ミツキの言葉に、びくりと乙木が身を震わせる。脅えたように目を見開いて、彼女は久路人の服の裾を掴んだ。

 乙木の反応には構わず篠宮を見据えたまま、ミツキは静かに結論を突きつける。



「今、下の階で繰り広げられている夜会。

 それは、使



 しん、と室内に沈黙が下りる。

 目に見えて動揺していたのは、乙木一人。他の人間は、或いは彼女から目を逸らし、或いは一切動じることなく、無言を貫いていた。


「……どういう、こと?

 どういうことなの、しの?」


 高い声を上げて篠宮を振り返った乙木は、しかし静かな狂気を孕んだ彼の表情に口を閉ざした。



「……鮮度の落ちた血は、魔法の感度が鈍ります」



 篠宮は、淡々と告げる。


「新鮮な血液を使用した場合なら、お嬢様に全く違和感を持たれない程度には現在に即した再現が可能だ。……古い血でも多少の誤謬は補正してくれますが、どうしてもそれには劣る。

 今朝の採血は逃げられてしまいましてね。以前に予備で採取した血液を使用しましたが、……この日に限って貴方方がいらっしゃるとは、何とも日が悪い」


 十和子は、廊下で会った乙木のを撫でた。

 それは、本来であれば乙木の頭を撫でていた手。

 実際にあの光景が繰り広げられた当時、8歳の乙木の頭があった位置だ。


「乙木お嬢様は、夕方五時の鐘の音と共に8歳の夏までの記憶を思い出し、夜の眠りと共に全てを忘れる。

 そして毎夜毎夜、奥様が一番美しく輝いていらした、あの幸せな夏の日々を再現する。

 私達は永遠の幸福で甘美な夢を繰り返しているのです」


 どこか遠くを見つめるような目つきで、篠宮は微笑んだ。


「嘘。嘘でしょう、しの」

「乙木ちゃん。

 ――君は、記憶に纏わる魔法を使える『魔女』なんだ」


 錯乱しそうになった乙木は久路人に諭され。

 力なく、彼女は座り込んだ。


「篠宮さん。貴方が時計に触れて欲しくないのは、アンティークだからじゃなく、これが乙木の術の要だからですね」


 いつの間にかミツキが手にしていたのは、ホールに飾られていたアンティークの時計。

 しかし8年前、それは応接間にあった。

 後に時計はホールに移されたのだ。館のどこにいても、乙木の耳にその音が確実に聞こえるよう。


 存外にあっさりと篠宮は認めた。


「確かに。それは乙木お嬢様の魔法の引き金になっております。その時計が五時を告げると同時、お嬢様の血を動力に魔法は発動する。

 ですが、たとえそれを壊したところで血の魔法は濃い。そう簡単に解除できるものでは御座いませんよ」

「それは、……どうかな」


 ミツキは時計の蓋を開けた。本来であれば何かの絡繰からくりが発動するのだろう文字盤の丸窓、その脇には、よくよく見れば黒く変色した血痕が残っている。

 片手で時計を抱えたままミツキはポケットから折り畳み式のナイフを取り出し、指先を切る。ぷつりと浮き上がった赤い血を、彼はその穴へぽとりと落とした。



 途端。



 階下から幽かに聞こえていた人々のざわめきと音楽が、ぴたりと止まった。


 篠宮は、初めて狼狽する。窓に駆け寄り、身を乗り出して下の様子を窺うが、応接間に点いていた筈の灯りも既に消えていた。



「なっ……!? 何故です、そんなこと出来る筈は!」

「血の魔法は、


 上擦った声をあげた篠宮の背へ、ミツキはいつか久路人づてに乙木へ説明した台詞を投げる。

 指先から滴り落ちた自身の血を舐め、彼は告げた。



「言いそびれていましたね。

 俺は、影路かげろ深月みつき

 あんたが乙木を連れて逃げていた研究機関の息子で、だ」



 とはいっても血が繋がっているのは半分だけで、異母兄妹だけどね、と付け加えてから、深月は流れるように続けた。



「数年前。母の十和子さんを亡くした乙木は、俺たちのところに引き取られる筈だった。

 けれど俺たちのところへ来る予定だった日の数日前に、昔から仕えていたという執事と共に乙木は忽然と姿を消した。

 ……それから、しばらく経ってからだよ。俺のところに、とある人間の『8歳以降の記憶を消す』『夕方五時に記憶が戻り、朝になると記憶を失う』という魔法を掛けて欲しいって二本立ての奇妙な依頼が舞い込んだのは」



 篠宮は、今度こそ青ざめる。深月の言葉に、決定的な何かに気が付いたようであった。

 深月はにやりと笑みを浮かべた。



「久しぶりだね、篠宮さん。……といっても、記憶消去の依頼を受ける時にはお互いに顔を隠しているから、覚えていないだろうけど。

 俺は魔法遣い、影路深月。

 そしてを司る血の魔法遣いだ。

 乙木いもうとの術なら多少は手を加えることが出来るし、忘れている彼女の記憶を戻すことだって俺なら簡単に出来る。そもそも乙木の記憶を消したのは、他ならぬ俺だからね」



 深月は、乙木に向けてすっと手を伸ばした。


「返してもらうよ。本来なら、いずれも貴方が享受してはいけない代物だ。

 乙木と、存在するはずのない夢を繰り返し続けるこの幽月邸を」


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