第5話 大統領・カワード

 医務官は部屋に飛び込んでくるなり、ペンライトでカワードの瞳孔を確認し、シャツのボタンを外して胸に聴診器を当てた。そして軽く頷くと、同行した看護婦に目配せをした。

 看護婦は手際よく注射器を取り出して、鎮静剤を静脈注射した。あれほど荒かったカワードの呼吸はすぐに静かになった。


 カワードの癇癪癖は今に始まったことではないが、失神するほどに激高した姿を見るのは、ブレイクにとっても初めてのことだった。

 医務官は「3時間ほど眠っていただきますが、取り立てて異常はありません」と言った。


「目が覚めたら、会議をして大丈夫なの?」

 ブレイクは訊いた。

「問題ないでしょう。過度な興奮さえしなければですが」

 医務官の言葉を聞いたブレイクは、再び内線電話を取り上げて首席補佐官局に繋いだ。

「午後3時から、国家安全保障会議を招集します。関係閣僚に大至急連絡を取って頂戴」

 そして受話器を置くと、続けざまにポケットからスマートフォンを取り出した。

「ボブ、緊急事態よ。そっちの記者会見は中止よ。外にいる記者団は放っておいて、すぐにホワイトハウスに来て。理由は後で話すわ」

 電話の先は、IMF本部に待機していたロバート・グレン財務長官だった。


 ブレイクは電話を切ると、ソファーで眠るカワードに視線を向け、ため息を漏らした。いささか面倒なことになりそうだが、今は自分の判断で打つべき手を打つしかない――。


 グレンがIMFビルの地下駐車場を公用車で出たのは、それからすぐの事だった。後部座席にスモークフィルムが貼られているために、グレンは報道記者たちから見咎められることも無く、直線距離にすれば僅か200m程のホワイトハウスに駆け付けた。


 グレンはすぐに、大統領公邸となっている西棟の上層階に通された。そしてリビングルームのドアを開けると、そこにはソファに寝かされた大統領と、厳しい顔をしたブレイクがいた。

「大統領に何かあったのですか?」

 ただならぬ気配を感じ取り、グレンが訊いた。

「心配ないわ、いつもの癇癪癖よ。今回はちょっとひどかったので、鎮静剤で眠ってもらっているだけ。あと3時間もすれば目を覚ますそうよ」


「それなら良いですが――。それで、会見延期とはどういう事なんですか?」

「先程、ワシントンDCの近郊に、潜水艦からミサイルが撃ち込まれたわ」

「えっ、ミサイル……」と言ったきり、グレンは言葉を失った。

「相手はまだ不明で調査中よ。戦争状態に陥るかもしれない緊急事態では、会見どころではないでしょう。それで延期というわけよ」


は、合衆国に完璧な防衛体制が担保されている事が実施の前提です。戦争になるならない以前に、首都にミサイルを着弾させてしまったとあっては、もう関係各国からの信頼は得られないでしょう。延期と言うより、計画自体を中止すべきと思います」

「そう結論を急がないで。ミサイルは湾岸部の森林に着弾したので、被害は無いに等しいし、目撃者もほとんどいないわ。相手が単なるテロリストで、攻撃が散発的なものであるなら、その事実自体を隠してしまえば良いでしょう」


「本気で言っているのですか? 世界を相手に嘘を突き通せるわけがありません」

「恐らく大統領は、それを望むはずよ」

 ブレイクは視線を、ソファで眠るカワードに向けた。カワードは二人の会話を知る由もなく、口を開け、グーと鼾をかきはじめた。


――一見、知性の欠片も感じられないような品の無い寝顔。しかしこの男には、自分には抗いようのないほどの魅力が溢れている――


 ブレイクは一瞬うっとりとするような表情を浮かべたが、それを隣に立つグレンに悟られまいと、脳裏に浮かんだその思いを、すぐに頭を振って打ち消した


 僅か3年前、財政赤字と経済の低迷で自信を喪失していたこの国で、『強いアメリカへの回帰』という、まるで20世紀の頃の共和党のような、シンプルで力強いキャッチフレーズを武器に、颯爽と表舞台に登場してきたのがカワードだった。 


 エリート階級のWASPの出自でもなく、親はどこにでもいる南部ニューオリンズの労働者。しかし、逆にそこから腕一本でのし上がってきたカワードは、アメリカンドリームの体現者として、中流層から絶大な人気を博していた。

 緩やかな金髪にブルーの目、学生時代にフットボールで鍛えた頑強な体は、新しいリーダーの象徴だった。


 カワードはその人気を証明するかのように、ここ最近の大統領の中で最も世論調査での支持率が高く、ここまで大きな失策もなかったことも幸いし、支持率70%台をずっと維持している。合衆国国民がカワードの一挙手一等足を支えていると言ってよい。


 カワードは世界で最も厳しいと言われる、アメリカ大統領選挙を勝ち抜いてきただけの事はあり、粗暴な言動と癇癪癖を除けば、極めて優秀な人間である。ブレイクが認識するカワードの最大の長所は、世界情勢を読み解く鋭い直観力だ。


 首席補佐官に任命される以前、ブレイクはハーバード大学で長く構造主義経済学を教えていた。カワードはその時の教え子の一人だ。

 学生の頃からカワードの閃きには天性のもがあった。講義でカワードに課題を与えると、彼は瞬時にその回答を直感力で導き出した。そしてそれから、なぜそのような回答が閃いたのかを、思考を溯って説明するのが常だった。


 他の学生が論理の積み上げから回答を得るのとは、まったく正反対の思考プロセスだ。カワードの鋭い感性は、ブレイクの教えによって瞬く間に切れ味を増していき、大学院を卒業する頃には、教員の側の自分でさえ舌を巻くほどになっていた。


 卒業を控えたカワードに対し、ブレイクは大学に残って研究者の道に進むよう勧めたが、彼は机上の論理ではなく、実践によって自分の能力を試したいのだと言って、無謀にも政治家を志した。そのカワードが今や大統領の座にまで上り詰め、かつての恩師であった自分を、首席補佐官として脇に従えている。つくづく世の中は分からないものだ。


 カワードがブレイクを側近中の側近として、ホワイトハウスに迎えた理由は明らかだった。

 首席補佐官への就任要請があった日、面会を求めてきたカワードは、自分にはっきりと言った。

「あの論文を実現する日が来ました」と。

 それは彼が学生時代にしたためた博士論文『グローバル金本位制の研究』のことであると、ブレイクはすぐに気付いた。


 その論文の内容は大胆にして緻密なもので、論理の面からは非の打ちどころの無いものだった。当然指導教官だった自分は、その論文に最高の評価を与えた。しかしそれは、学者が唱える理想主義であって、とても実現などできない代物、――のはずだった。


 大学院の卒業式の日、研究室に挨拶に訪れたカワードに「あなたは私が教えた学生の中で、過去最高よ」と告げた後、「もしもあの論文を実現しようとするなら、あなたが合衆国大統領にでもならないと無理でしょうけどね」と笑って付け加えたことを、ブレイクははっきりと覚えている。

 カワードは今まさにその机上の理想主義を、現実のものにしようとしており、それを支える同志として、自分を首席補佐官として呼び寄せたのだ。


 カワードは大統領就任後、選挙戦の頃にも増して、強いアメリカを標榜するようになっていた。ブレイクの見立てでは、その理由は単純だった。カワードの意欲の源は強烈な権力欲にあり、大統領という最高権力者の座を射止めた今、より強大な権力を得ようとするならば、自身の力の源泉たるアメリカ合衆国を更に強くする以外にないからだ。

 そしてその強い権力欲こそが、『グローバル金本位制の研究』を実現させるエンジンでもあった。


「大統領に代わり、先程、国家安全保障会議を招集しました。あなたにも出席してもらうわ」

 ブレイクはグレンに言った。

「私は国防問題とは無縁ですよ」

「今回のミサイルの一件で、“あの計画”と国防はセットで考えなければならないということが、より鮮明になりました。今後は“あの計画”についての重要な決定は、国家安全保障会議の中で行うように、大統領には進言するつもりです」

「そういうことですか。わかりました」


「あなたには、会議の前に大仕事が残っています。IMFビルに戻り、予定通りに記者会見は開いてください。

 IMFの理事たちには真実を伝えては駄目よ。会見のメインスピーカーは、専務理事のブリュノー氏に代わってあなたがやりなさい。ギリシャのデフォルトに関する憂慮を伝えるだけで構いません」

「無茶な事を言いますね。今回はIMFが重大発表を行うのだと言って、記者を集めてあるんですよ。国連とは組織上無関係なアメリカ財務省がしゃしゃり出て、肩すかしの会見をしたとあっては、記者団から吊るし上げを喰らいかねないですよ」


「無茶は承知の上よ。アメリカのIMFへの拠出金は群を抜いており、言うならば筆頭株主のようなもの。あなたはその国の財務長官なのですから、IMFで発言したからって罰は当たらないでしょう。

 あなたはこれまで閣議や議会で、誰がどう考えても不利な局面を、得意ののらりくらりの答弁で何度も乗り切ってきたわ。共和党のうるさ方議員達に較べれば、記者の質問など赤子の手をひねるようなものでしょう」

「それは、私を褒めていらっしゃるんですか?」

「もちろんよ」

 ブレイクはニヤリと笑った。

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