私は心底、気に入らない。


【アシンメトリィ】【涙の理由を】【歩くような速さで】【次回作にご期待ください】

 

 

「涙の理由を、聞かせてくれるかな?」

 

 ――――そういうことをいきなり聞く先生のことが、私はやっぱり気に入らない。

 

 手当が終わった後に突然問いを投げられて、しばらく言葉を失う羽目になった。

 どうしてそんなことを聞くのか、という疑問が五割。それと、どうして分かったのか、という驚きが五割。

 ここに来る前に顔は洗ったはずなのに、なんで。……そんな焦る内心を、いつもの冷たい仮面でそっと隠す。

 

「……怪我のせいです」

 

 手当して貰った右手の指を見ながら、私はそっけなく言い捨てた。

 怪我をしたのはさっき。練習をし過ぎて爪が割れて、泣きそうなくらいに痛かった。……我慢できなくは無かったけど。

 どのみち血の滲む指ではろくに鍵盤を引いていられなかったから、手当をして貰いに保健室に来たんだ。誓ってそれは嘘じゃない。

 

 だからそう、嘘じゃない『だけ』の言葉を吐き捨てて。

 

 先生はそんな私にへ向けて「そうか、君は泣き虫なんだね」と、やけに暖かい笑みを返して来て。

 

 その言葉が妙に癇に障って苛立って、むず痒い気持ちになったから。私はまた極力平坦に、熱を感じさせない声を意識して言う。

 

「怪我を負って保健室に来た生徒に泣き虫呼ばわりですか。……最低ですね、先生」

 

「いやいや、馬鹿にしたわけじゃないんだ。君にもそんな一面があったんだなって、少し驚いただけで」

 

「『こんな鉄面皮にも女の子らしい一面があったなんて』とでも言いたいんですか。どのみち最低じゃないですか」

 

「ああ、いや、そういうつもりじゃあ……すまない、怒らせてしまったみたいだね」

 

 焦って謝る先生を見て胸がすいた私は、その充足感を隠すように不機嫌を装ってそっぽを向く。

 ……えらそうに、人の心を見透かしたようなコトを言うからそうなるんだ。

 ずけずけと土足で心に踏み込んで、分かったような気になって。『君のためだ』なんていう嘘を平気で吐く。

 夢がどうだ将来がどうだのと、馬鹿馬鹿しいにも程がある。貴方は私じゃないんだから、私の目標なんて語らないでほしい。

 先に生まれたから、先を生きてるから、先ず生きてるから敬えと。その態度が気に入らないんだ。

 

 こういう人種は誰だって同じ。モノを教えるから教わる側よりえらいなんて幻想もいいところ。

 

 だから嫌いなんだ、先生なんていうイキモノは。

 

 私の言葉に少し落ち込んだ様子を見せる先生を見て、ざまあみろなんて心で思って。

 そんな狭量な自分が小さく見えたけれど、細かいことは努めて見ないようにした。そうしなければ、折角引いた涙がまたぶり返してしまいそうで。

 居心地の悪い、妙な沈黙が流れる。……何か喋ってよ、なんて自分勝手な願望を抱いたその時に。

 

 ――――まるで狙ったように口を開く先生が、私はやっぱり気に入らない。

 

「君は、どんな曲が好きなんだい?」

 

「は? 一体何の話――――」

 

「僕はね、ノクターンが好きなんだ。ショパンの夜想曲第二。知っているかな?」

 

「馬鹿にしてるんですか。知らないわけないじゃないですか」

 

 誰に聞いているんだ、と怒鳴りたくなる気持ちを抑えて冷徹に言う。音楽専攻の特待生が知らない訳がないだろう。

 甘くゆるやかな旋律と美しい装飾音が特徴の著名な楽曲だ。単に『ノクターン』と言うだけで恐らく誰もが思い浮かべるあの曲。

 著名で、かつ耳優しいクラシックの代名詞とも言えるノクターン。私はそんな曲が――――

 

「君は多分、あまり好きじゃないんだろうね」

 

 言って、先生は苦笑いを浮かべる。その表情には優しい温度が感じられて。

 知った風な口を利いて。そういうところが、気に入らない。「勝手に決めつけないでください」と反論した私へ、先生はまた言葉を掛けてくる。

 

「なら、好きなのかい?」

 

「別段、好きも嫌いもありません。弾けと言われれば弾く、その程度の曲です」

 

「ほうほう。当らずとも遠からず、と言ったところかな?」

 

 そうやって見透かしたように笑って……本当に、苛々する。やっぱり心底気に入らない。

 何が嫌って、絵に描いた様な暖かい笑顔と何気ない雑談で、少しだけ気が楽になっている自分のことが一番、気に入らない。

 私の悩みはそんな軽いものでは断じてない筈で。だからこんなありきたりな会話で気が楽になっている自分自身が許せない。

 だから、気に入らない。先生も、自分も、みんなも、全部が全部気に入らない。

 

「僕はあの曲が好きでね。一回聞いただけで、直ぐに気に入ったんだ」

 

 聞いてもいないのに、先生は勝手に語り出す。私は聞くなんて一言も言っていないのに。

 だったら好きにさせておこう。他の『先生』よろしく自己満足な己語りで好きなだけ酔っていればいいんだ。

 そうやって、聞き流すつもりだったけれど。

 

「って言っても、理由は意外と不純なんだよ。『ああ、これなら僕でも簡単に弾けるな』って」

 

 その言葉に、思わず私は先生の顔を凝視してしまった。陽気を感じさせる笑顔で、先生は続ける。

 

「僕もやってたんだよ、ピアノ。君ほど上手くは無かったけどね。……祖母がピアノの先生をやっていてね。それでまあ、長いこと習わされてたわけだ。

 これがなかなか厳しい人でね。少しでも詰まったり間違えたりすれば、すぐに手が飛んできたものさ」

 

 何かを思い出したのか、先生は頭を押さえて苦笑いを浮かべる。

 その顔は言葉とは裏腹にどこか温かみが感じられて。辛い経験を思い出しているようには、見えなくて。

 

「ノクターンは発表会の課題曲だったんだ。やるってなって初めて最後まで聞いたんだけどね。

 旋律は最後までアンダンテのままで同じようなフレーズばっかり。基本の譜面はそこまで難しくない。いざとなったら装飾音なんて飛ばして誤魔化せばいい。

 ああ、この曲なら怒られずに弾ける、なんて小狡いコト考えてたわけだ」

 

 その気持ちは、決して分からないものでは無かった。

 昔から弾きこなせない曲などあまり無かった私だけど、小学生時分の『曲に対する姿勢』というものはそれはもう目も当てられないくらい酷くて。

 ピアノの先生から与えられた練習曲なんて、学校の宿題と同じくらいにしか考えていなかった。

 だから難しい曲を貰うと憂鬱な気分になって、簡単な曲だった時には喜んで。……今思えば、単純な考えをしていたものだ。

 

「で、結局だけど。……その時もしこたま怒られたよ。それも今までにないくらいがっつりとね」

 

「当たり前です。鷹を括った態度というのは、特に如実に演奏に出るものですから」

 

 言ってからはたと気付く。……何を普通に相槌を打っているんだ私は。聞き流すんじゃなかったのか。

 

「はは、耳が痛いね。それと同じような事を祖母にも言われたよ。『曲を舐めるな、手を抜くな』ってさ」

 

「私でもそう言います。考えが単細胞なんですよ」

 

 過去の自分を棚に置いて私は言う。悪口のボキャブラリなんてものは結局、自分の内にあるものだから。

 言い捨てる分には気が楽だった。ただただ思い出さず、目を逸らせばいいだけなんだから。

 第一、今の私にはどんな曲でも弾きこなせる腕がある。だからそう、むしろ舐めて掛かっているのは私の方ではなく――――

 

「君の場合は逆だと思ったんだよ。ノクターンみたいな曲だったら、そうだなぁ……。

 ――――『なんだこの譜面、私を舐めてるのか』なんて思ってるんじゃないのかな? ってね」

 

 ――――やっぱり私は、気に入らない。

 苦虫をかみつぶしたような顔の私へ向けて優しく語る先生のことが。こんな生意気な私に甲斐性を向ける先生のことが、心底気に入らない。

 

「壁越しに聞こえてくる音だけで分かるよ。君は上手だし、センスもある。大抵の曲は難なく弾きこなせるんだろうね。

 だからかな、何というか……どんな曲もフラットな目で見てるような感じがするんだよ、君の演奏は」

 

 そうやって見透かして、人の心に土足で入り込んで。何様のつもりだと言うのか。

 えらそうにピアノについて語るんじゃない。素人の分際で、私より下手くそな分際で。

 絶え間なく思い浮かぶ悪態をでも、言葉に出すことは出来なくて。鈍った口に代わりに耳だけが敏感に音を拾う。

 まるでそれが、先生の言葉に聞き入っているみたいに感じられて――――やっぱり心底、気に食わない。

 

「だから、簡単な曲ほど割く労力が少なくなって興味が薄れる。印象にも残らないから好きか嫌いかも答えられない。それは少し寂しいし、もったいない気がするんだよ。

 ベタだけれど、音を楽しまなきゃ音楽じゃない。楽じゃなくても、感情が乗ってなきゃ音楽は人に伝わらない。下手くそなりに、僕はそう思う」

 

 いちいち心に響かせるな。奥底の方を抉るんじゃない。耳障りなんだ、もう喋らないで。

 言いたい言葉の筈なのに、何故だか口は動いてくれなくて。歯がゆくもどかしい感情はでも、決して不愉快には感じられなくて。

 

「だから僕は、ノクターンが好きなんだ。……思い出が詰まってるからね。

 辛かったこととか、殴られたこととか、折れそうになったこととか、初めて完璧に弾けた時の達成感とか……そういうものが、勝手に蘇ってくる。聞いていても、弾いていても」

 

 そう言って先生は、窓の外へと目を向ける。茜掛かる空は寂しさと共に、確かな温度を私に与えて。

 

「君は、僕の話をどう思ったかな? 馬鹿馬鹿しいとか、下らないとか、意味が無いとか長いとか、そんな感じかな?」

 

「…………その全部、です」

 

「あはは、手厳しいねえ。でも感じたものがあったのならそれでいいんだ。……要はそれを、曲にぶつければいい。

 こんなくだらない話をした情けない大人が居るんだよ、っていう気持ちを。

 

 ――――そうすれば誰も、君の音楽を『冷たい』だなんて思わない」

 

 本当に、気に入らない。そうですか、なんて単純な返事も返せない私が、あまりに情けなくって気に入らない。

 ――――私の欲しかった言葉は、こんなに単純なものだったのかと。悔しくって気に入らない。

 冷たい仮面が割れるような、そんな音が聞こえた気がして。だからこそ私は、気付いたのかもしれない。仮面越しには見えなかった先生の表情を。

 

 優しくて、温かくて、だからこそ気に入らない先生の笑顔。その陰に何か、暗いものがあるような気がして。

 

 ああ、気に入らない。全くもって気に入らない。言葉に出して聞いてしまえば、後戻りなんて出来ないじゃないか。

 この気持ちの名前を知らない私じゃない。だから行きつく場所がろくでもないってことも承知の上だ。

 ハッピーエンドは訪れない。都合の良い打切りなんてものも無い。先を行けば傷付くだけ。嫌な思い出になるだけだ。

 

 だから私は、気に入らない。先生のことが心底、気に入らない。だから、でも――――

 

 見てしまったから、感じてしまったから、聞いてしまうことはきっと必然で――――

 

 そんな感情が、心底気に入らない。だから私は、そんな複雑な心を今ばかりは露わにして、「先生」と呼んで問うのだ――――

 

 

 

「――――涙の理由を、聞かせて下さい」




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