図書委員さんと不良さん
お題:【プラシーボ】【愛しき悪夢】【インスタント】【最低限文化的な】
図書室の扉は立て付けが悪い。だから、普通に開けると結構な音がする。
ここに通い慣れている人だったらその辺りのことも承知しているから、気を付けて扉を開け閉めしてくれるのだけれど。
――がちゃ、ぎぎぃ、という乱暴な音に、頁を捲る手が止まってしまう。
声には出さず『またか』と口を動かした。一応のこと何度か「気を付けてください」と忠告したはずなのに。
色に惚けた彼には真面な言葉が通用しないのかもしれない。かといって彼の水準に合わせて会話をする気にはなれなかった。だって相手は――
「図書委員さん、本返しに来たよー。はいこれ」
私が座る受付の机越しにひらひらと手を振るのは、茶髪ピアスな不良さん。しかも頭軽い部類の、である。ちゃんと会話が成立する相手だとは思えなかった。
そもそも私とはベクトルが違い過ぎるし、レベルを合わせたいなんて欠片も思わない。やべえパねえで成立する会話なんて鳥肌が立つくらいキライだった。
私だって文学少女の端くれとして、最低限文化的な日常会話がしたいのだ。
だからなるべく、この不良さんの相手にはしたくない。そんな気持ちを込めて私は、いつもより気持ち平坦に、形式通りの台詞を諳んじる。
「お預かりします。それと、図書室ではお静かにお願いします。出来れば扉もゆっくりと開けて頂ければ」
「はいはーい、りょうかーい」
軽く片手を挙げて返す不良さん。この人は本当に私の話を聞いているのだろうか。
思わずこめかみを抑えて不快を示せば「どうかした? 頭痛いの?」と、彼は見当違いの心配を掛けてくる。
「ええ、痛いですね。毎度のことですけど」
「あらら、そりゃあ大変だね。頭に効く薬、保健室から取ってきてあげようか?」
「大丈夫です。薬で治るような痛みではないので」
「なら尚更ほっとけないよね。それじゃあ――――」
と言っていきなり不良さんは、私の首元に手の甲を当ててきた。って冷た――――!?
「――い、いきなり何するんですか!?」
叫んで手を振り払えば、不良さんはからかうよう「図書室ではお静かに~」と笑う。
「む、ぐぅ……!」
今日は誰も来ていないからいいんです、と言おうとしたけど流石にそれは図書委員失格なので言葉を控えた。
代わりに極力ボリュームを落とした呻り声と怨嗟を籠めた視線を送れば、不良さんはにへら、と癇に障るくらい悪戯っぽく笑った。
「首冷やすと良い、ってどっかで聞いたことあったからさ。いっちょ試してみた」
「だからっていきなり触りますか普通……!?」
「いやだって『触るよ?』って事前に言っちゃうと図書委員さん絶対拒否るっしょ?」
「は? そんなの当たり前じゃないですか」
「ほらぁ。だから言わなかったんだよ」
ほらぁ、じゃない! 婦女子の素肌を許可なく触ることに対して思うところは無いのかあんたは!?
と言い放とうとしたけれど、すんでで言葉を呑み込んだ。一介の図書委員として図書室で声を荒げることなんて出来ない。
そうやって図書委員としての矜持を護るために言葉に詰まっていると、何を勘違いしたのか不良さんは得意げに。
「頭痛、治った?」
などとのたまった。初めから頭痛なんて無いですから! と反論をしようとしたけれど。
……ほんの少し、本当の本当に、ほんの少し。――不良さんの瞳の奥に、本当の心配が見えてしまって。
くだらない皮肉を叩いてしまったと、僅かに罪悪感が芽生えてしまう。だから、はっきりと言葉に出すことが出来なくて。
小さな声で「それは、その」とにごしてしまう。
ああ、拙い。私は瞬時に後悔してしまう。こんなことを言ってしまえば、あれを見てしまうというのに。
――不良さんの、本当に嬉しそうな、眩しいくらいの笑顔を。
「良かった良かった、一安心だね」
そんな言葉に、いちいち私の心は掻き乱される。
不良さんはちょっと馬鹿で、ちょっと純粋だ。でもその『ちょっと』の塩梅が私にはわからない。
本当に「良かった」と思っているようにも見えるけれど、私の皮肉を分かった上でからかっているようにも思えて。
どこまで理解しているのか判然としなくて。そのふらふらとした態度が妙に、妙に……そう、煩わしくってイライラするのだ。
「つーか俺のハンドパワー尋常じゃなくない? ロキソニン越えちった?」
「何変なところで調子に乗ってるんですか? 貴方の手なんてプラセボどころかノセボのレベルです。正直鳥肌が立ちました」
「ぷら……の、せぼ? 何語?」
むぅ、どうやら通じていない様子。皮肉を皮肉として理解させるために、面倒だけれど説明しないといけない。
「プラシーボと言った方が通りが良いですか。薬理的な効力の全く無い薬、偽薬のことです。転じて、実効性の無い治療法を受けた際に『思い込み』で何らかの症状改善が見られる現象のことをプラシーボ効果、プラセボ効果と言います。
ノセボ効果は改善でなく改悪。何らかの治療法に対して『悪い副作用がある』と思い込むことで、本当にその副作用が発生する現象のことです。
つまり何が言いたかったかというと、『貴方の手の冷たさは薬効どころか副作用を感じる程に不愉快だった』と言うことですよ」
「へー、流石は図書委員さん。モノシリだねー」
「……さては聞いてませんでしたね?」
「当ったり前じゃん。俺馬鹿だよ?」
「胸張って言うことですか……!?」
柳に風な不良さんの態度にイラッと来る。懇切丁寧に説明した甲斐が無さ過ぎるでしょうが……!?
さっきから心を乱されっぱなしだった。……というより、最近はずっとな気がする。初めて会った時はそうでもなかったのに。
そもそも不良さんのこういうスタンスは初対面の頃からだった。頭の軽い感じで、馴れ馴れしく私に話しかけてきて。
正直、最初は嫌悪と言うより恐怖だった。私の常識の外側に居る人と話すなんて、怖くて仕方が無かった。
だから、何度か無理矢理に突き放そうとしたこともある。貴方みたいな人とは肌が合いません、と。それでも不良さんは懲りずに絡んで来て。
……気付けば私は、不良さんと会話らしきものを交わすようになっていて。思えば私、随分と――
「――にしても、図書委員さんも結構変わったよねえ」
――その偶然に、心臓が跳ねた。
なんだってこの不良さんは、たまに意表を突いてくるのだろうか。表情が動きそうになるのを何とか堪える。
思っていたことが重なるなんてたまたま、本当にただの偶然なのだ。だから気にすることなんてない。
そもそも、同じことを考えていたからなんだと言うのか。そんなことで動揺するなんて恋愛モノのライトノベルじゃあるまいし。
平静を装って、なるだけ平坦な声色を意識して私は言う。
「……別に私は何も変わってませんが」
「いやいや変わったって。めっちゃ変わったから。めっちゃビフォーアフターだから」
「意味が分かりません。日本語も正しく使えないのに無駄に英語を駆使しようとしないでください」
内心を悟られたくなくて勢いでばしっと切り捨てたつもりだったけれど、不良さんはそんなことではものともしなくて。
「図書委員さん、初めは俺のことなんてゼンッゼン気にして無かったっしょ? ていうかアウトオブ眼中だったっしょ?」
「ええ。……もっとも、それは今もですが」
「あはは、図書委員さん的にはそう思ってるのかも。でも、こうやって視界に入れて喋ってくれてるじゃん? これって俺的にはめちゃめちゃ変わってるように見えるっつーか……大進歩っつーか」
そう言って不良さんは、何故だか恥ずかしげな様子で頬を掻いてはにかんだ。
その反応が珍しくって。……少しだけ、このまま見ていたいな、などと訳の分からないことを想ってしまって。私は何故だか彼の言葉を待ってしまう。
「覚えてる? 初めの方とか会話一分持たなかったからね? あんときの図書委員さんの感じ、バリカタも良いとこだったべ?
だから俺の最初の目標って『食べごろのチキ○ラーメン作れるくらいには持たせる』、だったわけよ」
「比喩が分かりにくいです。つまりは三分、と言うことですか?」
「そゆこと。ごめんね、俺国語能力ゼロなんだわ」
「知っています」と冷たく返して、けれども彼の言葉を遮る気にはなれなくて。
「とりあえず話せるネタ作りたかったから、図書室の本読んでみてさ。そんでもあんまり会話続かなかったなぁ。
その後で『読み込み足りない』って駄目出し喰らったから、一冊を四、五回読むようにして。そんときでやっと二分くらい行ったかな?」
実は何分とか適当だけどね、と不良さんは笑って。
私の方はと言えば。――なんとなく口にしただけの軽い言葉をこんなにちゃんと聞いてくれていたんだ、なんて。不覚にも心に来てしまって。
「丁度それくらいの時期だったっけ、『タイプじゃない』とか言われ始めたの。あれは流石にちょっと凹んだけどさ……でもほら、俺にも意地とかあるし?
だからいろいろ気にしだしたんよ、言葉遣いとか。ヤベえとかパねえとかは絶対言わないようにしたし、テキトーに相槌すんのもやめたし」
「……その割に服装とか変わりませんでしたね」
「そこはアレよ、女に言われてファッション曲げるとか男じゃないっしょ。大事な芯はぶっとく通したいんだよね」
「…………なら、扉を乱暴に開くのも芯ってやつですか」
またしても何故か乱れ始めた私の心を落ち着かせるために、なんとか皮肉を放ってみたけれど。
「あはは、それは正直ゴメン。……日に日に変わってく反応が面白くってさ、やめられなかったんだよね。
初めはガチで鬱陶しそうにしてたけどさ、だんだん顔色よくなってって。そういうとこ割と分かりやすいよね、図書委員さん。
つーか、気付いてる? ――――扉開けた時さ、最近ちょっと笑ってるよ?」
言われて、顔が急激に熱くなった。嘘、そんな事無いはず。今日だって『またか』と思って溜め息ついてたのに。
――でも。はっきりと笑ってなかったかと改めて聞かれたとして、絶対に違うとは言い切れない自分が確かに居て。
その事実にさらに、顔が熱を持っていく。……ああ駄目だ、これは駄目だ。扉の音だけで反応するなんて、プラシーボどころかパブロフの犬じゃないか。
思わず両手で顔を覆う。自分でもびっくりするくらいに掌に感じる温度が熱くって。
「つーわけでチキ○ラーメンどころかど○兵衛すら余裕で伸びさせるくらいには話せるようになったわけじゃん? これはでっかい変化だよね、俺的には」
「……し、知りません」
「でも嘘つけないところとかは変わんなくってさ。図書委員さんのそういうとこスゲー好きだよ、俺」
何を恥ずかしいことを言っているんですか、とか言いたかったけれど、精神的にそれどころじゃなくって。
自分としてはクールにあしらっているつもりだったのがまた情けなくって。顔を隠して俯いたまま、動けも喋れも出来なくなって。
ああ、これは多分夢に見ちゃうなぁ、うなされちゃうだろうなぁとかよく分からない感想がふわふわと浮かんできて、どうしようもなくなって。
机に座ったままうずくまる私の耳に聞こえてきたのは、私の心を動揺させる彼の声で。
「あはは、困らせちゃったか。今日はこれくらいにしとこっかな。
……次は難しい話もちゃんと最後まで聞くようにすっからさ。――そんじゃあ、またね」
そんな感じでいつもと変わらず、飄々とした声色で不良さんは言葉を残して、図書室を後にした。
だから気が付かなかった。後々になって言われるまで全く気付けなかったんだ、私は。
――その時、不良さんの顔も尋常じゃないくらい赤かったってことに。
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