第6話「危うい熱視線」

茗凛めいりん、何だい大きな声を出して!」

 おかみが声を張り上げたとき、僧がにわかに居住まいを正した。深く身を折りながら、

「お騒がせしたうえ、かようなご好意までいただいておきながらご挨拶が遅れ、大変失礼いたしました。私は長安の大覚寺から参りました琅惺ろうせいと申します。こちらは従者の珂惟かい

 すると掌を向けられた珂惟がいきなり膝立ちになり、

「おいちょっと待て、いつから俺はおまえの従者になったんだよ!」

行者ぎょうじゃは黙ってろ」

「――っ、たかだか沙弥しゃみの分際でいばりやがって!」

「そう思うなら、さっさと試験に合格するんだな」

 歯噛みする珂惟に対し、琅惺と名乗った僧はあくまでも冷静である。

 なるほど、「仏教修行者」と「見習い僧」ってわけね、この二人。茗凛は心中でふんふんと頷いていた。

 行者とは寺に住み、雑務をこなしながら仏門修行をする者のこと。十五歳から受けられる国家資格試験に合格しない限りは在家信者扱いのため、髪を下ろすことは許されていない。

 対して沙弥は試験に合格し、剃髪を許された見習い僧のことである。僧は納税・兵役が免除されるため、信仰心がなくとも出家を目指す者も多かった。だがそんな者が合格しては仏教界の名折れとなるばかりか国家財政が圧迫されることにもなるため、年々難易度が上がり、今や倍率は数十倍である。なお正式な僧(比丘びく)になるためには、二十歳以上の者が、数年の沙弥生活を経たのち、複数の高僧に認められたうえで、国家の承認を受けなければならない。

 さて、ふて腐れて目線を外す珂惟を無情に見切り、琅惺は再びおかみに向き直ると、

「私どもは仏教隆盛地である敦煌に仏教を学ぶために参りました。我が上座かみざ(寺院最高責任者の敬称)が法恩寺の上座とご縁があるとのことで、そちらでお世話になります」

 国境である玉門関は城外の西数十キロの位置にある敦煌は、最果ての城市まちとして他国の受入口となっていた。大量に流れこんだ他国文化には仏教も含まれ、城内はもちろん、城外のあちこちに仏教施設が作られた。インドなどからの仏教僧も多数滞在しており、敦煌は宗教都市としての地位を確立していた。

「まああ長安から。道理で挙措に品が感じられるはずですわ。お若いのに優秀でいらっしゃるのですね。そのような方にお助けいただき、なんて有難いことでしょう。法恩寺は決して大きくはありませんが、由緒ある名寺です。これも仏縁でございますね。南無」

 などと言い、おかみは琅惺に手を合わせる。いいかげんなんだから、と思いつつ、

「そういえば……長安から留学生が来るとかなんとか、聞いたような」

 茗凛が一人ごとめいてそう言うと、珂惟がいきなり顔をあげ、

「何、あんた法恩寺の関係者なの? だったら話が早い。案内して欲しいんだけど」

「珂惟、どうして君はそう、初対面の人にまでずけずけと」

「そうよ、だいたい人に物を頼むときに……」

「分かりました。では茗凛、お連れしてさしあげな。実を申しますと、あの寺にはこの娘の兄がおりましてな。さあ茗凛、急いだ急いだ。お坊さまも疲れておいでだし、我々もそろそろここを片付けて、沙州賓館に戻って夜の舞台を支度せんといかん」

 茗凛の抗議の声を掻き消すように座長が声を張り上げた。願ったり叶ったりとばかりに琅惺は立ち上がり、

「お気遣い感謝いたします。それではお嬢さん、無理を言って申し訳ございませんが案内をお願いいたします。さ、珂惟行くぞ」

 大またで入口に近づき、立てかけていた錫杖しゃくじょうに手を伸ばした。そのとき、

「お怪我をされてます」

 入り口付近で佇んでいた彩花さいかが、琅惺に小走りで寄ってきた。琅惺は僅かに右袖を上げ、

「ほんのかすり傷です。どうぞお気になさらず」

「いいえ、軽く見てはいけません。長旅でお疲れですし、これから厳しい修行に向かわれる大事な体なのですから。どうぞ手をお貸しください」

「いや、ほんと、大丈夫ですっ」

 にわかにしどろもどろになる琅惺の右腕を半ば強引にとった彩花は、彼の袖をまくりあげている。それを見ていたおかみと、霞祥かしょう、それに茗凛は、さささっと後退して天幕の隅に固まると、額をつき合わせ、

「おかみさん、あの娘……」

「間違いないね。――自分の身を省みず、弱きを助け強きに立ち向かう男。おまけに礼儀正しくて、賢そうなお顔をされている。ズバリ、あの娘の好みだね」

「なにより、余所者だし。ああもう、なんだって彩花は外から来た男に弱いんだろ。いつかはいなくなっちゃうってのに。それで何度も泣いてるくせして、懲りないんだから」

「本当よねえ。春は隊商の一人に一目惚れして、最近まで泣き暮らしていたものねえ。お嬢様だから、どこか夢見がちなのかもしれないわね」

 霞祥がため息混じりにそう言うと、三人は揃って入り口を見た。

 そこでは根負けした様子の琅惺が預けた右腕に、彩花が丹念に布を巻きつけている。どう見てもかすり傷だったが、あれでは相当な怪我のようにしか見えない。彩花は小柄ながら意外と力のある左手でがっしりと琅惺の腕をとり、頬を上気させている。対する琅惺は困惑顔で、傍目でも十分分かるくらい明らかに腰が引けていた。

 留学僧相手じゃあ泣く日も近い。またあの大騒ぎの日々が待っているのか……三人は最近までの彩花の様子を思い出し、ため息をついた。

「まあ、お坊様はお寺に入られるんだ。しばらくしたら落ち着くさ、きっと」

 おかみが明るい声を出したが、残る二人は無言でそれを否定する。十日ほど敦煌に滞在した隊商の者とは、挨拶を二・三度交わしただけなのだ。その前の旅行者も、東から来た商人も、身内に会いに来た男も、みな滞在が短くロクに話などしてはいない。だのに彩花はたちまち熱を上げ、彼らが去ると生きるの死ぬのと大騒ぎするのだ。いくら寺に入るとはいえ、しばらくは滞在するという留学僧をこの狭い街で二度と見かけないということなどありうるだろうか。いや、ない。なにより毎朝、法恩寺に参拝に行くのは、茗凛と霞祥の日課なのだ。以前誘ったときには「朝早いのは苦手だから」と言っていたが、きっと明日からは、たとえこちらが断ったとしてもついてくることだろう。

「どこかで幻滅してくれるといいんだけど……。難しいところよねえ。あの、かわいい感じに整った顔も、モロ彩花の好みだし」

「おや、顔なら行者の方が整ってるだろ」

 茗凛の困惑した声に、意外な言葉をかけてきたのはおかみだ。霞祥も頷き、

「そうですね、鼻筋も通っていて。舞台に出たら映えそうな」

「何言ってんの、あんな無礼者。顔がよければなんでもいいわけじゃないでしょうが!」

 言いながら振り返ると、狭い幕内での騒動には我関せず、とばかりに荷物を集める珂惟の横顔が見えた。確かにいい顔してる、かも――とたんに手を握られ、引き上げられたときのことが浮かぶ。あの、息がかかりそうだった距離を思い出して上気する頬を隠すように、茗凛は彼から大急ぎで目を逸らした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る