はじまりの日-4





 




 アーリアと名乗った女の子は綺麗な緑色の瞳で、琴子に「ついてきて」と言った。



 そうだ。あの時部屋の中に入ってきた女の子だ。

 信用できるかどうか値踏みしている時間はない。琴子は近くで横たわっているロウが、既にもう応急処置をうけているのを見て、「わかった」と返そうとした。



「ついてきてって、どこに連れていくつもりだ」



「!ロウ!」

「気が付いたの」

「ロウ!」


 思わず駆け寄った。いきなり立ち上がった身体が横に傾いだが気にせずロウの隣まで向かう。


「傷は?大丈夫?生きてる?」

「コトコ、お前こそ連れてかれなかったみたいだな」


 ロウの顔色は真っ青だった。ハッとして琴子は一気に涙腺が緩んだのを感じた。大粒の涙が、人生最速のスピードで生産される。あっと思った時には、零れ落ちた涙が彼の頬をうった。

 ロウが驚いたように目を瞬かせる。

 それを見て、慌てて自分の涙を拭う。彼の頬に落ちた涙が、つーっと伝って地面に落ちた。


「空が青い……」

「え?」

「結界が解けたのか」


 たしかに見上げれば、空は青かった。

 高い木々の隙間から、秋晴れの空が覗いている。

 ただそれを見つめるロウの瞳も青かった。青空を映した瞳が、きらきらと輝いている。


「待って、結界?どういうこと?」


 ロウの言葉に混乱するようにアーリアが呟いた。


「アーリア、―っ、いって!」

 起き上ろうとしたロウが声を上げてそのまま倒れ込む。


「ちょっと!どれだけ出血してたと思ってるの!傷が開くから急に起き上らないで!」

「うるせえ、忘れてたんだ!」


 アーリアの鋭い声に呻きながら、ロウが脇腹を押さえる。

 出血を押さえていた布からじわりと赤い鮮血が染み出してきた。


「血が、」

「大丈夫だ。それよりコトコ、起こしてくれ」

「わ、わかった」


 恐る恐る触れたロウの背中は思っていたよりもがっしりとしていて、かすかに汗ばんで少し熱い。その背中をなんとか押し上げて、ようやくロウが身体を起こす。


「はあ…、俺はどれぐらい気を失ってた?」

「そこまで長くはないわ」

「そうか………アーリア、さっきは助かった」

「ロウ、一体何が起こってるの?」

「それは、…俺もよくわからない。ただ、もう大丈夫だろう。全部終わった」

「終わった?」


 アーリアの眉が怪訝そうに上がる。「そうだ。終わったんだ」とロウはもう一度繰り返した。


「恐らく、もうあの影は襲ってこない。それを可能にしていた結界が解けたからな」

「その結界って何なの?どういうことなの?」

「簡単に言えば、人払いの結界の最強版だ。周りに結界内の様子を悟らせず、結界内の支配権を握り、どこにでもどのタイミングでも、好きなように自分の式を出現させることができる」


 淡々と語る内容に、信じられないとアーリアが目を丸くさせている。

 ただ琴子には何を話しているのかまったくわからない。


「それは、要するに」

「ああ、学院の一部を乗っ取られてたんだ。ついさっきまでな」

「えっ、乗っ取られてたの!?」

「………お前の理解は今か。まあいいけどな」

「でも、結界を解いたのは誰?」

「さあな。少なくとも俺じゃない。まあ、どっちみち、あんな無茶な結界そう長くはもたない。維持しきれなくなって自然消滅したっておかしくない。もしくは、」

「もしくは?」


 その時微かな振動が森の中を伝わってきた。

 振動はすぐに音となり、そして予感となった。


「な、なに?」


 アーリアが立ち上がり、心なしか顔を強張らせて音の方向を見た。

 琴子はどうしても嫌な予感がして、支えているロウの背中に身体を寄せる。

 音は寮の方角よりも東にずれた方からやってくるようだった。

 一人、ロウだけがいつもの無表情に戻って森を見つめている。


「馬の蹄……?」


 音と振動は段々と激しくなり、はっきりとした形をもって近づいてきた。

 それは確かに馬の蹄の音のような気がした。

 実際に聞いたことはない琴子でも、それが何かの蹄の音だというのはわかった。ただ、どうしてここで、このタイミングで、馬の蹄の音が聞こえるのか。それも複数。音はどんどん近づいてくる。


「な、なんで馬?ここって馬使ってるの?」

「そうだな、ど田舎ならまだ使ってるだろうな。普通は神力を動力にする車とかを使うんだけどな」

「え、じゃあなんで」

「もしくは、上宮」

「じょうぐう?」

「神通力はもとより、神力すら使用に制限がかかる上宮なら、今も牛や馬が移動の手段だ」


 琴子の囁きに、ロウが小声で返したとき、とうとう音が、目の前までやってきた。

 森の高い木々の向こうに、銀色の何かがちらついている。

 それは一気に大きくなって、琴子たちの目の前に飛び出てきた。


「上宮の近衛兵!?」


 押し殺したアーリアの声に、これ以上ない驚きが込められている。

 琴子も生まれて初めて間近で見た馬の躍動感と、その上に乗る騎手の大きさに息を飲んだ。


「……それだけじゃない」


 小さくロウが呟く。


「見つけました!見つけましたぞ!」

「こちらでございます!」


 琴子たちの目の前に躍り出た三人の近衛兵たちは、こぞって誰かにむかって声を上げた。数秒して、森の奥からもう一頭、黒々とした馬が顔を出した。明らかに他の馬とは格が違う、そう思わせるような立派な馬だ。


(あっ)


 その馬と目が合った。


(まずい)


 急に恐怖が舞い戻ってきた。影や、先程の出来事に感じた恐怖とはまた違う、全く違う種類の恐怖だ。冷や汗がだらだらと流れてくる。琴子はキョロキョロと辺りを見回した。出来るなら、気付かれたくない。


(!)


 ロウが琴子の手を掴んだ。


(後ろで縮まってろ)


 掠れるような小さな声で素早く囁く。そしてすべてわかっているというように、琴子を自分の背後へ押しやった。


 その堂々たる馬は、一歩も気後れすることなく、先に来た馬たちに道を譲らせると、三人の前にやってきた。


 心臓がドクドクと脈打っているのがわかる。琴子は顔を上げなかった。出来るだけロウの背中に隠れていられるよう、視線を地面に落とし、息を殺す。

 それとは反対に、アーリアは馬上の人を見つめ、凍り付いてしまったようだった。




「クレハ、将軍」




 アーリアの絞り出すような声が、その人の身分を物語っていた。そして口に出してから、自分が今どれだけ不敬な態度を取っているのかに気づき、立ち尽くした体勢から光の速さで膝をつき頭を垂れた。

 ロウも慣例にならって視線を伏せる。


(やっぱり、偉い人なんだ……!)


 琴子の心臓は今にも爆発してしまいそうだった。その明らかに立派な馬や、先に来た近衛兵の様子からすぐにその可能性に気が付いた。

 まずい。

 これはまずい。


(もし、バレたら………!)


 ある日この世界に飛ばされてきた異世界人、暫定蒼の世界の住人です!なんてことがばれたら。

 ただでさえ怪しいのに一連の出来事を組み合わせれば、一体琴子にどんな未来が待っているか大体想像がつく。

 それに近衛兵と、近衛兵とアーリアは呟いたのだ。もし、この世界の言葉と琴子の世界の言葉の意味がそう違っていなかったら、それは皇族や王族の身辺を警護する役職だったはず。


「お前たちはロウ・キギリとアーリア・ノノミ、そして食堂に勤める娘の三人で間違いないか?」

(!この人、私のこと知ってる)


 クレハ将軍と呼ばれたその人は、至極やる気のない声でそう問いかけた。


「間違いありません」


 顔を下げたまま、粛々とした態度でロウが答える。


「…………………そうか」


 暫く間があった。顔を伏せている琴子にはクレハ将軍の様子が分からない。ロウの背に隠れるように身を縮ませながら、飛び出そうになる心臓を押さえるので精一杯だ。


「安心しろ。すでに寮の方は私の近衛隊が押さえている。幸いなことに死者は出ていない。あのけったいな結界も粉々に壊れた。怪我をしているものは?お前だけか?ロウ・キギリ」

「医者が必要なのは私だけでございましょう。後の二人は軽いかすり傷でございます」

「そうか。お前ら、この者たちを馬に乗せて寮まで運んでやれ。ロウ・キギリはそのまま病院だ」

「!そんな、私たちは歩けますので、わざわざ乗せてもらう訳にはいきません」


 破格の扱いに思わずアーリアが声を上げた。馬に乗ることを許されるのは正規兵だけであり、訓練生であるアーリアにはとてもじゃないが恐れ多い話だった。


「まあそう固くなるな」


 アーリアの言葉に、やる気のない声でクレハ将軍が答える。


「私はお前らを捕えに来たのだから」





「えっ」





 空気が凍った。

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