灰皿マン

 停留所でバスを待っていたら、隣のやさぐれたサラリーマンが煙草を吸いだした。僕は紫煙ってやつが大嫌いで、できればやめて欲しいのだけど、他人と余計な軋轢を生みたくないので我慢をしていた。だが馬鹿と煙は高いところが好きというように、背の高い僕の鼻腔に紫煙、いや副流煙が入り込んでくる。とうとう辛抱の糸が切れて、一言文句を言ってやろうと構えたところに変なやつが自転車に乗ってやってきた。何が変かっていうと、全身にF1レーサーのスーツを着ていて、腕や、背中、胸に『マロボロ』とか『ヘブンスター』『ヘビウス』『チャビン』『キャスパー』などの煙草の銘柄のステッカーを付けて、顔にはヘルメット(そこにも『ゴールデンボール』のステッカー)その上に大きな灰皿を取り付けている。これが変じゃなかったら何が変なのかという格好である。そいつが、

「私の名は灰皿マン。バス停での喫煙は他のお客様の迷惑になります。バス停での禁煙にご理解とご協力をお願いします」

と言って、くだんのサラリーマンに頭の灰皿を向ける。あっけにとられたサラリーマンはタバコをそいつの灰皿になすりつけた。客の間から拍手が起こる。僕も無意識に拍手をしていた。そいつは満足そうに自転車に乗り込んで去った。


 それからは頻繁にそいつを見るようになった。例えば、公園で、

「子供の遊び場での喫煙はご遠慮ください」

と無職で暇そうな男に灰皿を差し出し、居酒屋で、若い女性の隣で無遠慮に煙草を吸う老人たちに、

「ここは、お酒と食事を楽しむ場所。煙草は喫煙所で」

と灰皿を向けていた。

 でも、いつもうまくいくわけではないらしい。学校の裏庭で授業をサボっている不良高校生を見かけたときにやってきたそいつは、

「未成年の喫煙は法律で禁止されています」

と灰皿を出したが、

「うるせい。このコスプレ野郎」

と不良たちに追いかけられていた。僕は助け舟を出して学校に「裏庭で煙草を吸っている生徒がいますよ」と電話してあげた。間もなくおっかない、おそらく生徒指導の体育教師が現れ、ことを収めていた。


 そんなある日、僕は見てしまった。マンションのベランダで、ヘルメットをはずしただけで、あのレース用スーツを着たまま、呆然と虚空を見つめて一服している灰皿マンを! なんと灰皿マンは喫煙者だったのだ。それに頭は波平さんなみにツルッとハゲていた。たぶん、煙草の熱が灰皿とヘルメットを通して伝わり、頭皮に悪影響を与えて、ハゲてしまったのだろう。かわいそうに。哀愁漂う灰皿マンの姿を見るにつけ、時には煙草も必要なんじゃないかと、一瞬思ってしまった。なぜなら僕は今、失恋した帰り道だからだ。

 煙草は大人の嗜みだ。

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