第二章:灯火(ともしび)、揺れて

 視線を合わせた瞬間、互いが分かる。


 それは、写真で既に見知った顔を探り当てたというよりも、見知らぬ顔の間から、自分に似た面影が不意に浮かび上がった感じだった。


「ゾヤ!」


 スーツケースを自分の脚に引き寄せつつ、何も持たない方の手を上げる。


「ナディア!」


 波打つ焦げ茶色の髪を肩まで垂らし、チャコールグレイのワンピースを纏った従妹のゾヤが人懐こい笑いを浮かべて近付いてくる。

 その姿から、この子も私と同じで、モノトーンの服が好きなのかもしれない、と思う。

 派手やかな顔立ちに比して、白とか黒とか灰色とか色味のない服を。

 彼女の隣では、金髪のアンリが白いシャツにブルーのジーンズを履いた出で立ちで、空色の目を微笑ませていた。

 ゾヤのボーイフレンドだ。


 二人とも、ゾヤのメールに添付された写真よりも、もう少し若々しい雰囲気だ。


 むろん、ゾヤはまだ二十五歳で、大学の同期だったというアンリもたぶん同い年だろうから、年齢として若くて当然なのだけれど、白人は写真だとどうしても同年配の日本人より老けて見える場合が多い。


 皺や弛み、あるいは体形の崩れといった明らかな老化の兆候が現れていなくても、表情が決然としていてあやふやさがないからだ。


「初めまして」


 私も三十三歳の日本人にしては老けて見えるかもしれない。

 彼らからすれば、飽くまで「ルーマニア人の母を持つ日本人」なのだから。

 生まれも育ちも日本、パスポートも臙脂(えんじ)色。


 仮に今、ここで撃ち殺されても、ヤフー・ジャパンのニューストピックの見出しには「ルーマニアの空港で邦人女性射殺」と表示されるはずだ。


「どうぞよろしく」


 こちらの思いをよそに、アンリは一方の手を差し出しつつ、他方の手で私のスーツケースを取った。

 さりげない所作だ。

 ルーマニアは男尊女卑が厳しいと聞いたが、若い世代はそうでもないのかもしれない。


「どうもありがとう」


 まさか荷物を持ち去られることはないだろうとは思いつつ、しっかりこちらの目を見て手を包むように握り締めるアンリの握手の仕方に、改めて、この人なら大丈夫だ、という安心感が芽生えた。


 そして、一瞬でも疑いを抱いた自分に軽い嫌悪を覚える。

 私は結局、日本人なんだ。


「飛行機、疲れたでしょ?」


 ゾヤは労う風に微笑んで尋ねながら、すらりとした背を向けて先導する形で歩き出した。

 ダンスが趣味だとメールでも書いていたが、普段の動作も踊るように軽やかに見える。


「大丈夫」


 答えるこちらも自ずと急ぎ足になる。


 成田やミュンヘンと比べれば小ぢんまりとしているとはいえ、多くの人が荷物を手に行き交う空港は、それだけで色々と危険なのだ。


 すれ違う人の顔つきや、耳に飛び込んでくる言葉の響き、そして、漂ってくる匂いから、日本でもドイツでもない場所にいると嫌でも分かる。


 日本にいると、ドイツ人もルーマニア人も同じ「白人」というカテゴリに入れられるが、現地を歩いてみると、ドイツ人とルーマニア人は身に纏っている空気がやはり違う。


 黄色人種と白色人種ほど明確な差異はなくても、日本人とフィリピン人くらいの違いが、ドイツ人とルーマニア人の間にも存在しているように思う。


「私の車で来たから」


 弾むように歩いていくゾヤの背を追って外に出ると、空はどんよりと灰白色に曇っていた。


 今はサマータイムだから、日本とは六時間遅れの時差だが、目に映るのは午前とも午後とも分からない空模様だ。


 ミュンヘンも曇っていたけれど、到着地も同じ天候だと、何だか雲に追いかけて来られた気分になる。


「降り出して渋滞になる前に帰ろう」


 カラカラとスーツケースのキャスターがコンクリートの地面の上を転がる音と共に、アンリの現実的な声が後ろから届いた。


 雨が降って車道が渋滞するのは、どこも一緒なのだ。


 *****


「もっとスピード上げてもいいんじゃない?」


 助手席の窓から空模様を推し量っていたアンリが不意に声を掛ける。

 車道はまださほど混んでいないが、そんなにも雨の降り出すのが心配なのだろうか。


「近くに犬がいたの」


 運転席のゾヤは説明した後、小声でそっと付け加えた。


「また轢いちゃうと嫌だから」


 そこで、ふと思い出したように彼女は後部座席の私を振り返る。


「ここ、野犬が多いから気を付けてね」


 素直に頷いた。

 ルーマニアの都市部は野犬が多いとは知っている。

 噛まれたが最後、狂犬病の危険性も高い。


「分かったわ」


 こちらの車窓からも、日本の柴犬に似た薄茶色の子犬が二匹、道路の端を歩いていく姿が認められる。


「危ないものね」


 言いながら、加速したこの車を追うように小さな四肢を駆って走り出した二匹に見入る。


 まだ小さいあのワンちゃんたちもそんな病気を既に持っているのだろうか。

 正確な種は分からないが、まだ成犬には達していないようだから、あの二匹は生まれつき野犬なのだろう。


 ルーマニアで野犬が増えたのは、一九八〇年代のチャウシェスク政権時に集合住宅を増やすために古い住宅を壊した結果、飼い犬を捨てざるを得ない人が続出したのが原因だ。


 せいぜい十二、三年が限度の犬の寿命からすれば、今、この国の街を跋扈する野犬の殆どは、恐らくはその時の捨て犬ではなく、二代目、三代目以降の子孫のはずだ。


 都市に住み着いた生まれながらの野犬たちという存在は、日本で育った私にはどうにも不気味だ。


 しかし、生き物としては、途中まで人に飼われて捨てられた親犬たちの方がより悲惨だったのかもしれない。


 視野の中で、二匹の子犬は瞬く間に小さな点になって薄暗い景色に紛れていく。


 角を曲がって、車はより広い道に出た。


「綺麗(きれい)」


 思わず口にしてから、日本語になってしまったことに気付く。

 目の前に広がっているのは、薄いオレンジ色にライトアップされたティミショアラの市街地だった。


「日本と比べれば大したことないと思うけど」


 日本語の分かるゾヤは苦笑する。

 メールでは時々、「先日は、私の自宅に近い公園にて、薔薇の花たちがとても美しく咲きみだれました」といった日本語の文を混ぜることがある。

 ネイティヴとしては何かがおかしいと感じるのだけれど、それは、私の話すルーマニア語にしても多分同じだろう。


「ブカレストと比べても、ここは田舎町だしね」


 アンリはそう付け加えると、思い出したように手を伸ばしてカーステレオを点けた。


 日本語でも英語でもない、ゆったりしたメロディに載せることで言葉の持つ甘い響きがより強調された、この国の流行り歌が流れ出す。


 歌手の名は分からないが、低めの若い女の声だ。

 微妙にノイズが入って音声全体が潰れているのと、いわゆる教科書的なルーマニア語ではないせいで、歌詞の正確なところは私には聴き取れない。


 ただ、アンニュイな曲調から、この手の歌のほとんどがそうであるように、この曲も漠然と都会的な恋愛風景を歌っている気がした。


 ふと、車内を満たすうっすらと甘いローズの香りが鼻孔を柔らかに突く。


 ゾヤの着けた香水だろうか。

 空港で最初に近づいた瞬間にも匂った香りだ。


 こんな風に静かな車内で、気だるい音楽を聴きながら、恋人同士を目の前にして、この匂いを改めて意識すると、本来は二人が私を迎えに来てくれたはずなのに、何故か自分が邪魔者に思える。


 三人を乗せた車はクリスマスさながら温かなオレンジの灯りに彩られた道を進んでいく。


 日本はもっと蒼白い、寒色系の街灯がメインのような気がするけれど、ルーマニアは冷え込みが厳しく乾燥した気候だけに、暖かで潤いのある色彩で夜の街角を飾ろうとするのかもしれない。


「その分、ここの方が安全だし、ゆっくり出来ると思うわ」


 ゾヤは真っ直ぐ前を向いたまま、客の私に対してというより、彼女自身に対して言い聞かせるように告げた。


 ティミショアラはルーマニア第四の都市だ。

 日本で言えば、名古屋に似たポジションの街かもしれない。

 ただ、ブカレストからは鉄道で九時間も懸かる一方で、ハンガリーやセルビアとの国境に近いこの都市は、ブダペストからは五時間、ベオグラードからはわずか四時間足らずの距離にある。


 同じ国の首都よりも、近隣の他国の首都の方が倍以上も近い。

 この不均衡さは、島国の日本人にはちょっと理解しがたい状況だ。


 ルーマニア、ハンガリー、セルビア。


 いずれも穏やか、順調とは言えない現代史を経ている。


 ティミショアラは一九八九年のルーマニア革命の口火を切った地として知られるけれど、ハンガリーはそれに先んじる形で民主化運動が起き、現在の共和制に移行した。


 ユーゴスラビアに属していたセルビアはもっと複雑な過程を経て二〇〇六年にやっと現在のセルビア共和国として独立したが、首都のベオグラードは、社会主義体制の崩壊した一九九〇年代から二〇〇〇年代に至るまで絶え間なく紛争と混乱に見舞われ続けた。


 前の席に座る年下の二人は、そんな三つの国の境界に立たされたこの街で育ったのだ。


 紙の地図と違って明確な線で区切られているわけでもなければ、バリアが張られているわけでもない、地続きの空間で、自分たちの住む場所が小康的な平和を得ても、すぐ近隣で銃声や砲火が飛び交っている状況下で、だ。


 窓の外を彩る灯りは電燈のはずなのに、マッチ棒に点した小さな炎のように微かに揺れて目に映る。

 眩しく温かに輝いているのに、ひとたび強い雨風に見舞われればたちまち消えて、辺りが闇に閉ざされてしまいそうに思えてくるのだ。


「ここまで来れば、もう大丈夫だ」


 ステレオからの気だるい女の歌声に紛れるくらいの声でアンリが呟いた。


「降らないでくれて本当に良かったよ」


 すぐ前の交差点で、けたたましいクラクションと共に現れた黒塗りの車が信号など物ともせずに突っ切っていく。


 と、続いて走ってきた黄色い車もカーチェイスさながら黒塗りの後を追って飛ばしていく。


 確かにこの状況で雨が降って道が混んだら、路上が戦場に変わるだろう。

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