第2話 上空6000フィートの異変


《当機はまもなく新東京国際空港に到着いたします》


 女性客室乗務員によるよどみのないアナウンスが機内に流れると、窓際まどぎわ座席ざせきすわっていた一人の若い女は両手の人差し指にはめられた2つの指輪に目をやった。

 白銀色にかがやくそれらは右手のそれが中心部に赤、左手のそれが青と1つずつ小さな宝石がはめ込まれている。

 決意の表情でそれを確認すると彼女は視線を上げて窓の外へと目をやった。

 彼女、梓川あずさがわ恋華れんかを乗せたロサンゼルス発東京行きの飛行機が、空港所在地である千葉県の上空に差しかる頃には、夜のとばりが空をすっかり支配していた。

 暗闇くらやみの中、見下ろす先にはまちの明かりが煌々こうこうかがやきをはなっている。

 恋華れんかはおよそ3年ぶりにもど故郷こきょう夜景やけい懐古かいこの心持ちでながめ下ろした。


「日本か……まさかこんな形で帰ってくることになるなんてね」


 窓には恋華れんか姿すがた反射はんしゃしてうつっている。

 毛先にゆるいウェーブのかかったつやのある黒髪は肩の上までのショートヘアーであり、パッチリとした二重ふたえの目にはややうすめの茶色いひとみが明るい光を宿やどらせていた。

 彼女は今年21歳を迎えたが、その童顔どうがんのせいか実際の年齢よりもかなり若く見える。

 10代と言っても通用するほどだ。

 恋華れんかは腕時計に目をやり、自分が仕事をすべき時刻をむかえたことを確認する。


(そろそろね)


 恋華れんかは早くも異変が生じ始めたことをするど察知さっちした。

 機内にうっすらとただよう黒いきりを、恋華れんかは視覚嗅覚さらには肌の感覚で確かに感じ取っていた。

 それはこの飛行機に乗っている彼女以外のだれにも、見ることも感じ取ることも出来ない特殊とくしゅな現象だった。


「お客様! おすわりください!」


 その時、突如とつじょとして機内に上がる客室乗務員の悲鳴ひめいにもた声に、多くの乗客が異変を察知さっちして顔色を変えた。

 恋華れんかが視線を機内にもどすと、彼女がすわっている場所からほんの2ブロックななめ後ろの座席で、立ち上がった男性の乗客が何やら大声を上げている。


「うぐっ……ウガウッ! ゴァァァ!」


 それは言葉とは言えぬ、人間離れしたうなり声だ。

 異常な様子の男性客を制するべく客室乗務員が懸命けんめいに声を張り上げた。


「シートベルト着用ちゃくようのサインが出ております! お座席におもどりください!」


 だが、そうした乗務員の制止の声にも耳をかたむけず、男は立ち上がったまま通路を一歩、二歩と機体前方に向けて進み始めた。

 その足取あしどりはおぼつかなく、その口からは不明瞭ふめいりょうで意味不明な声がれ続けている。

 恋華れんかは顔をせながら男の顔をぬすみ見た。

 やせ気味の男は東洋人の中年であり、その目は異様に充血している。

 常軌じょうきいっしたその表情から男が正気を失っていることは明確に読みとれた。


(来た。予言士の予言通り。おそらく2級感染者)


 男が自分の座席横の通路を通り過ぎて前方に向かうと、恋華れんかは素早く自分の座席のシートベルトをき、隣にすわる女性客の前をすり抜けて通路におどり出た。

 客室乗務員がそれを見咎みとがめる前に、うなり声を上げる男の背後から恋華れんかは一気にめ寄った。

 背後からの接近に気がついた男が鬼のような形相ぎょうそうで振り返る。

 その振り向きざまに恋華れんかは左手で男のひたいれた。

 人差し指には赤の宝石をはめ込んだ白銀色の指輪【スクルタートル(調査官)】がかがやく。

 赤い宝石からほんの一瞬、わずかな赤い火花が散った。

 続いて間髪入れずに恋華れんかは右手を男のひたいに当てた。

 こちらの指輪【メディクス(医師)】には青の宝石がかがやく。


「私が修正してあげる」


 恋華れんかがそう言うと今度は青の宝石から先ほどと同様に小さく青い火花が散っては消えた。

 その途端とたん、男は体をビクッとふるわせ、それを合図あいずにガクッとうなだれた。

 暴れていた男はすっかり力を失い、意識を失ったまま床にくずれ落ちる。

 その様子に恋華れんかはようやく安堵あんどの表情をかべて、そのふくよかな胸をで下ろした。

 先ほどまで立ち込めていた黒いきりのような重苦しい気配けはいはすっかり消え失せていた。


「ふぅ。よかった。任務にんむは無事完了」


 たおれたまま意識を失っている男に客室乗務員の一人がけ寄って声をかけた。


「お客様! 大丈夫ですか?」


 だが、男からの返事はない。

 男は先ほどまでの剣幕けんまくがまるでうそのように、安らかな顔で気を失っている。

 着陸態勢ちゃくりくたいせいのため、近くにすわっていた他の男性客の助けをりて、客室乗務員らは男を座席にすわらせてシートベルトで固定した。

 男のシートベルトをめた客室乗務員の一人が通路つうろに立っている恋華れんか怪訝けげん面持おももちで見やる。

 その視線しせんに気付いた恋華れんかはぎこちない笑みをかべながら、すぐさま自分の座席にもどろうとした。


「す、すみません……」


 だが、恋華れんかがそう言い終らないうちに機体が大きくれた。


「きゃあっ!」


 恋華れんかすわるよううながそうとした客室乗務員だったが突然の振動しんどうで前につんのめるように大きく体勢をくずし、りきれずに悲鳴ひめいを上げながらゆか転倒てんとうした。

 恋華れんか咄嗟とっさに近くの座席につかまりことなきを得たが、機体は不安定な飛行を続けているようで右へ左へとゆかかたむく。

 さらに急激な加速がかかり、乗っている者すべての体に強烈な重圧じゅうあつがかかった。

 空港へのランディング体勢たいせいに入っているはずの機体が再び急上昇しているようであり、異変を感じ取った客室乗務員らが間近まぢかの内線電話を取って何やら通話つうわをし始めた。

 その間にも機体は上昇と下降、さらに旋廻せんかいを繰り返し、機内は乗客の悲鳴ひめいが飛びうパニック状態じょうたいおちいっていた。

 さいわいにもほぼ全員が安全ベルトをめているため、通路つうろに投げ出されるような乗客はいなかったが、激しいれの中で全員椅子いすにかじりついたまま動けなくなっていた。

 恋華れんかは乗客のすわっていない空き座席のベルトにつかまり、投げ出されないように必死にこらえながら戸惑とまどいの表情でつぶやいた。


「何よこれ。こんな低空で乱気流らんきりゅうなわけないし……」


 恋華れんかは先ほどあばれていた男性客に目をやった。

 男はまだ意識が回復しない様子だったが、その表情は先ほどまでの悪意と混沌こんとんに満ちたそれとは打って変わり、まさに憑物つきものが落ちたように人間らしい顔つきになっている。

 恋華れんかは悪い予感を感じていた。


(クラッキングはもうけてる。ということは……)


 そしてすぐに彼女はさとった。

 先ほど男性客の身の上に起こった不自然な現象げんしょうが、今は操縦室そうじゅうしつの機長もしくは副機長の心身に起こっているであろうことを。

 くちびる恋華れんかの顔にはかくし切れないあせりがにじんでいる。


(複数の人に同時にクラッキングできるなんて。このままじゃ、本当に墜落ついらくしちゃう……)


 この最悪の状況を好転させるためには、操縦室そうじゅうしつまで出向いて、曲芸飛行を披露ひろうしている迷惑めいわくな張本人を直接たたくしかない。

 そのことが痛いほど分かる恋華れんかだったが、そのために辿たどるべき過程を彼女はいまだ頭の中に思い描けずにいた。


(どうしよう。機長は操縦室そうじゅうしつだし、かと言って頼んでも操縦室そうじゅうしつなんて入れてくれないだろうし)

 

 この航空機に起こるであろう惨劇さんげきを食い止めるべく、梓川あずさがわ恋華れんかは自身の所属しょぞくする国際的な悪魔はらい組織【カントルム】から派遣はけんされてきたエージェントだった。

【カントルム】には予言士とばれる特異能力者が在籍ざいせきしていて、彼らが先ほどの錯乱さくらんした男のような存在を見つけ出す。

 その予言はいつでも的確であることを恋華れんかはよく聞かされている。

 予言の範囲はんいは目標の出現場所と出現時刻のみと限定的だが、的中率てきちゅうりつ驚異きょういの99%をほこるという。

 その際、あらかじめ予言士から聞いていた予言は男性客ただ一人のもの。

 だが、恋華れんかの頭の中に今のこの状況じょうきょうが1%も想定そうていされていなかったかと言えばそれはいなだ。

 恋華れんかは外界から隔絶かくぜつされた施設しせつの中でごした3年間におよぶ修行の日々を思い返した。

 り返し頭と体にたたき込んだ知識と鍛錬たんれん恋華れんかの血となり肉となっている。


(相手が何人の人にクラッキング出来るか分からないけど、墜落ついらくだけは絶対にけないと)


 恋華れんかはそうきもめいじ、操縦士そうじゅうしと副操縦士そうじゅうし標的ひょうてきしぼった。

 この機内にいる人間で最も多くの人を殺せる可能性を持っているのがその二人だからだ。

 その時、現在の飛行位置をうつし出していた目の前の座席のモニターが突如とつじょとして暗転あんてんし、そこに白い文字が浮かび上がった。


操縦室そうじゅうしつ前……】


 それは恋華れんかの目の前にある座席モニターだけに映し出されていて彼女だけが確認できた。

 予言士の予言はありとあらゆる手段をもちいて伝えられる。

 修行時代に座学ざがくで教わった通りの現象げんしょうに、恋華れんかは落ち着きを取りもどした。

 目標もくひょうのいる場所。

 そして目標もくひょうの現れる時間。


【……30秒後】


「うそぉ! もっと早く言ってよ!」


 思わず仰天ぎょうてんして立ち上がると、不安定な飛行を続けて足元もおぼつかない中を恋華れんかは必死にけ出した。

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