千暝の章

神隠し

 寿永じゅえいの秋の葉の。四方よもの嵐に誘われ散り散りになる一葉の。

 舟に浮き波にして夢にだにも帰らず。

 籠鳥の雲を恋い。帰雁列を乱るなる。空さだめなき旅衣。

 日も重なりて年月の。立ち帰る春の頃。

(能「敦盛あつもり」)






――――――――――



 三時さんときが経過していた。

 白淳ならば、鞍馬から戻るのにそこまで時間はかからない。移動の他に鞍馬にて費やした時間を考慮するにしても、夜のうちに十分帰ってこられる筈であった。

 だが白淳が気を失った八重を抱えて戻ってきた時には、既に朝日が昇るまで間もない頃合いであった。微かに白み始めた空に一陣の強風が吹き、鳥の声は僅かに途絶える。

 そうして白淳は、屋敷の前へふわりと着地した。


 明かりを灯さぬ薄暗い屋敷の中で一人、千瞑は胡座あぐらをかいて白淳と八重の帰りを待っていた。

 否、待っていた、とは、本人は頑として認めはしないであろう。それよりは、ただ暇を持て余してそこに居るだけ、という形容の方が幾分近いものがあった。


 人の姿に戻った白淳が、屋敷の戸をがらりと開ける。


「……遅かったな」


 暗がりの中で、千瞑の瞳が赤く光る。彼の言葉に、起きていたのか、とさほど驚くでもなく答えると、白淳は八重を奥へ運び彼女を寝床へ横たえた。


「聞いたぞ」


 ぼそりと抑えた声で千瞑は呟いた。八重に布団を掛けてから、白淳は無言で続く言葉を待つ。


「小娘の言霊でヒトが二人死んだらしいな」

「よく都の出来事をこんなにも早く耳に入れたものだね」


 白淳は肩をすくめ、静かに息を吐き出した。緩慢な仕草で体をそちらへ向け、千瞑は彼を射抜くように見つめる。


からすは何でも見ている。特に宵のことならばな」

「戯れ言を。鳥目だろう」

「おれの鴉は生憎、夜目が効くのでな」


 彼の物言いに白淳はうっすらと笑みを浮かべた。


 千瞑は夜眠る事をしない。正確には眠る事が出来ないのだ。

 その代わりに夜、彼はしばしば都へ出掛ける。その際に目立つ事を嫌う彼は、今の姿ではなく鴉に化けて空を翔るのだ。


 千瞑には天狗の力は無かったが、人より極めて優れた身体能力と、鴉に化ける能力を有していた。いつも彼が突然現れるように見えるのも、鴉の姿をしている事が多い為だった。

 だからむしろ千瞑は、天狗よりも鴉のそれに近い。しかし鴉と違い、千瞑の目は人間のそれより良く利いた。

 朱の双眸そうぼうは鴉の時にも変わらないが、代わりに多くのものを彼に見せてくれる。だから都の様子を知るのも彼には容易なのだ。


 無論、白淳はこれを知っている。だからこそ、この応酬に千瞑は苛立った。それを察してか、白淳は緩やかに首を振り、話を戻す。


「ともかく、その言い方では随分と仰々しいよ。八重の言霊それ自体が、人が死んだ事の因果であると言い切るのは早計だろう」


 背に感ずる鋭い眼光にも怯まず、白淳は柔和に切り返した。彼の視線は変わらず八重に落とされたままである。


「貴様らしくもない」


 千瞑は顔をゆがめて忌々しそうに吐き捨てた。


「それでは聞く。……事が起こってから、今までお前は何をしていた?」


 その問いに白淳は淀みなく返答する。


「分からないかい? 神隠しに決まっているだろう」


 言って白淳は不意に振り向いた。


「不自然に瓦礫がれきが崩れていても、その場所から不自然にヒトが二人消えていても、誰も何も疑問に思わない。それは全て龍の仕業だからね。

 何も問題はないよ。死人しびとは龍に神隠しされた。

 くら坊の言うような厄介な風聞にはならないさ」


 彼の表情に迷いは見てとれない。白淳はその顔に、幽かな微笑みすら浮かべていた。千瞑はその硬い表情を動ぜぬまま、今一度尋ねる。


「そのヒトは、一体どこに神隠しされたんだ」

「海に帰ったよ。そこが一番良い場所だからね。龍が帰り、魂が還るところだから」


 再び白淳は淀みなく返答した。その声色には自分の成した行動を一片も疑う気色すら無い。

 白淳は視線を八重へ戻した。八重は気は失っていたが、安らかに寝息を立てている。大事はなさそうであった。


「……そうまでして何故お前はその小娘を捨ててこない」

「捨てるとか捨てないだとか、その物言いはまるで人のようだよ、千瞑」


 瞳を伏せたまま白淳は低い声で囁いた。千瞑の言葉は僅かに白淳に怒りを覚えさせたようであった。

 いや、僅かどころではない。一見そうは見えずとも、静かに抑えた言葉のその奥でたぎらせているものは計り知れないものがあった。


「……野郎」


 しかし同じくして、白淳の物言いも千瞑の琴線に触れた。睨む千瞑の視線の先には、彼と視線を合わせようとせずただひたすらに八重へ注意を注ぐ白淳の姿があった。

 いよいよ千瞑は訝しげに彼を見つめ、核心に触れる。


「なぁ、どうしてそこまでして貴様は小娘に肩入れするんだ。

 確かに貴様の人贔屓はここ一年二年の間に始まったことではないが、この娘は最初に現れた時から既に尋常ではなかった。いとも簡単に結界を超えてきたどころか、その挙げ句が今回だ。何故そこまで庇う?」


 千瞑の問いかけに白淳はやんわりと言い返す。


「言っただろう。そう言い切るのは早計であると。偶然というものはどんな状況でも起こりえるものだよ。

 八重が呪いの言葉を口走ったところで、犬一匹死にはしない。言霊ですべての物事が上手くいったとするならば、世の中がこんなに殺伐としている道理はないだろう。八重だって容易く兄君を見つけられるはずだ。

 肩入れするのだって、ぼくは誰であろうとヒトの力になろうと思うし、たまたまそれが八重だっただけだ。

 ぼくに言わせれば、何故くら坊がそこまで固執するのかが疑問だよ。きみはヒトに興味がないはずだったろう?」


 苛々と首を振り、千瞑は尚も畳み掛けるように言う。


「そういう事を聞いているのではない。……貴様だって分かっているだろう。小娘も尋常でなければ貴様も尋常ではない。

 誰であろうと力になる、だと? 笑わせるな。だったら何故そのまま死人しびとを放置してこない。

 仮にそのまま戻ってきたところで、状況が状況だ。小娘が疑われる道理もない。それなのにわざわざ『神隠し』までしたのは、そうすれば小娘には全く一切疑われる余地がないからだ。ヒトの仕業ではないからな。

 お前はただ、度が過ぎるまでにあの小娘に罪をきせるのが嫌で、曖昧にぼかしているだけだ。何の解決にも成らない」


 振り向いて、白淳は言い放つ。


「解決する必要なんてあるのかい?」


 彼は腕を組んで怪しげに微笑んだ。


「きみに言わせれば、それこそ『たかがヒトが二人死んだだけ』だろう。くら坊とは何の関係も無い」


 きびすを返して戸口へ向かうと、彼は外に出るところで扉に手をかけ立ち止まる。


「罪を着せたくないんじゃない。

 ぼくは、八重を傷つけたくないんだ。それこそ寸分たりともね」


 白淳はいつものそれとは違う、どこか暗さを湛えた笑みでもって振り返った。


「一連のことは間違っても八重に言うんじゃないよ。いくらそれがくら坊でも、言ったらぼくは容赦しないと思うから。ぼくだって長年の連れを八つ裂きにはしたくない」


 唇をゆがめて千瞑は答える。


「たかが十年だろう。貴様にとって大した年月ではあるまいに」

「だが人にとっては長年だ。……ぼくらとて、元は人だろう」


 言うと、今度こそ白淳は外へ出て静かに扉を閉めた。眠ったままの八重と残された千瞑は、八重を一瞥してから重々しく息を吐き出した。


「……正気じゃない、あいつ」


 呟いて、眉をひそめたまま千瞑は漆黒の翼を羽ばたかせ姿を消した。

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