八重の章

人成らざるもの

祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声 諸行無常しょぎょうむじょうの響きあり

沙羅双樹さらそうじゅの花の色 盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらわす


(平家物語)






――――――――――



 裏のお山に近付いてはいけない。

 人攫ひとさらい天狗に連れられてしまうよ。

 兄様のようにさらわれてしまうよ――。




 幼い頃、幾度も母から言い聞かされてきたことを、今更ながらに彼女は思い出す。


 京の都を見下ろす霊峰れいほうの深部は、昼間でも人を寄せ付けない。奥まった山中には、時折響く鳥の鳴き声と、木々のざわめきのみがこだましていた。深い秋の訪れは山麓まで葉をくれない山吹やまぶきの色とりどりに染めている。


 静寂を破る物音が、それらの幾ばくかを枝から唐突に落葉させたのは、日も頂点を過ぎた頃だった。

 森が荒涼とするまでに葉を落とすにはまだ早いこの時季。一見して何が起こったのかを見渡すことは叶わず、入り組んだ木々の隙間からは人の荒い息づかいだけが聞こえてくる。そして、木の間をぬうように素早く通り抜ける何か。


 数えにして年の頃十六、七の少女──八重やえは、背後に迫る何ものかから逃げていた。後ろを振り向くことは出来ない。振り向けば、われる。そう感じていた。

 背後から感じる気配は今まで遭遇したことのある生物とはまるで違っていて、不可解なものへの恐怖が八重の肌をあわ立てる。


 見た目は牡鹿に似ていた。けれどもその姿は、彼女の知る牡鹿より遥かに巨大な体躯で、輪郭りんかくは影と交じるように黒くぼやけていた。獣であれば生え揃っているはずの毛並みも、およそこの世のものとは思えず、まるで湯気のように空へ揺らいでいる。


 おそらくこれが物の怪と呼ばれる生き物なのだろう、と八重は余裕がないながらも思った。少し前の時代なら、至る所で魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこしていたそうだが、今は物の怪も以前よりはなりを潜め、人と彼らとの境界を保って生きていると聞いていた。

 或いは太古から生きる神の類かもしれなかったが、いずれにせよ八重には関係ない場所で生きるものの話の筈だった。


 人である八重と人成らざるもの。住む世界を異にする双方がまみえているのは、その境界を八重が侵したからだった。

 たちの悪い物の怪はともかく、そうでないものは、領域を侵されない限り好きこのんで人を襲いはしない。非があるのは紛れもなく八重の方だった。

 しかし目的を達する為に、八重はどうしてもその境界を越えなければならなかったのだ。


 追われはじめてから大して時間は経っていないが、既に八重の息はあがってきている。もとより逃げ切れぬ事は察していた。たいして体力もない女の足で、山道を駆ける速さなどたかが知れている。

 それにただでさえ奥深い山中、助けてくれる者などいるはずもない。そもそもここは人の領域ではないのだ。


 それに八重はこれに遭遇する前から道を失い、遭難しかけていたところなのである。本来ならば今のように駆ける体力すら残されていないはずなのだ。

 森は深く険しい。力尽きるのは時間の問題と思われた。半ば八重は覚悟を決める。まだ死ぬと決まったわけではない。しかしこのままでは、それが早いか遅いかの違いだけであり、状況は何も変わらないだろう。


 どうせならばと、八重は立ち止まってじかにそれと対峙しようとした。人の言葉を解するものもいると聞く。言葉の通じる相手であれば、もしかすれば、どうにかなるかも知れないと思ったのだ。

 たとえ言葉が通じたとて、助かる望みがあるとは限らなかったが、吉と出るにしても凶と出るにしても、結論が早く出るだけまだましだった。


 が、心を決めたその時。

 両脇を乱暴に何者かに掴まれ、不意に八重の身体は軽くなった。


「馬鹿野郎! 界隈かいわいの主を怒らせたな」


 荒々しく怒鳴りつけると、声の主は更に八重をぐいと上へと引き上げた。完全に足が地面より離れる。


 八重は息をのんだ。

 宙に、浮いている。


 八重は誰かの腕に掴まれ、空を飛んでいた。呆気にとられる彼女のことはお構いなしに、次第に高度をあげていく。

 やがて彼女らが木々の上の方まで飛び上がってしまうと、そのものは木々の影に隠れて見えなくなった。助かったのだ、と人ごとのように八重は思い、ぼんやりと足下を見遣った。

 だが安全なところに来たにもかかわらず、どうにも実感が湧かなかった。なにせ、急迫した事態が去ったとはいえ、信じがたい出来事は今なお続いていたからである。


 八重は恐る恐る自分を掴んでいる人物を見遣った。

 どうやら自分を助けてくれた相手は、八重よりも年少の男児であるようだった。山伏に似た装いをしており全身を衣で覆ってはいたが、体躯はまだ細く小柄なのが判った。顔にはまだ幼さが残っている。


 それだけならば普通の少年であると判じる事が出来ただろうが、八重を運ぶ腕の屈強さや朱の双眸そうぼう、そして何よりも少年の背から生えた翼が、彼もまた人外のものであると物語っていた。

 彼の背からは、からすのものによく似た漆黒の羽が生えており、それが今、少年と八重とを空に運んでいるのだった。



 ──天狗……!



 八重の脳裏に、その言葉がきらめく。無意識のうちに彼女は強く拳を握り、生唾なまつばを飲み込んだ。


 追いかけられていた場所から随分離れたところまで来てしまうと、地面に近いところまで降下し、彼はやおら八重をどさりと落とす。

 八重は均衡を崩し、地面に崩れそうになった。少年は自分も乱暴に地面に降り立ってから、八重の両肩を掴むと、ひどく不機嫌そうにまくし立てる。


「何故人間がここにいる! 一体どこから迷い込んできた!」


 だが八重は、少年の激昂をものともせずに、真剣な面持ちで全く別のことを問いかける。


「あなたは、どこで天狗になったのですか」

「……何?」


 訝しげな表情で、少年は八重をしかと見遣る。少年が八重に何事かを問おうとしたその時、今までの疲れと緊張が解けた安堵からか、八重はがくりと両膝を地面についた。

 遠くの方からしきりに呼びかける声が聞こえるが、抗うことは出来ず八重は両の手も地面につく。


 程なく、八重は意識を手放した。

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