秘密、そして決意

 さきほどまでの荒ぶる様子から一変し、マリアが見た記憶と同じ内気な彼女に戻っている。顔面蒼白で、立っているのもやっとだった。

「結局、いつも私が悪いのよ。ひ弱に生まれついてみんなの重荷になって、思うようにいかないことばっかりで」

「そうやっていじけてばかりで、甘ったれなところが悪いのよ。でも、あんたは本当は悪くないの。誰もが人に迷惑かけて、その分迷惑かけられて、生きるってそんなもんなんだと思うわ」

 マリアが歩み寄ろうとしたときだった。天上から一筋の光が射し、ミサヲの前に一人の男が降りてくる。

「あぁ、あなたは!」

 マリアが興奮するあまり、耳をピンと立てた。俯いていたミサヲがその声につられて顔を上げ、息を呑む。

 そこに舞い降りたのは、紛れもなく善七だった。彼はあの穏やかな声で言う。

「ミサヲさん、まだこんなところにいたんだね。あちらで探しても見つからないはずだよ」

 ミサヲは感極まった様子で、声を震わせた。

「善七さん、迎えに来てくださったの?」

「ずっと探していたんだよ。まさか僕の箪笥に閉じこもっているなんて、思いもしなかった」

「どうして? どうしてその気もないのに優しくするの? 残酷だわ」

 ミサヲが嬉しさと切なさの入り交じった顔で泣き出した。それを見た善七は、懐からあの小さなお守りを取り出し、その中身をつまんで手の平に乗せた。

「ミサヲさん、これ、なんだかわかる?」

 涙をこすって彼女が見たものは、綿に包まれた黒ずんだ塊だった。

「これは?」

「僕のへその緒。君のお母さんからいただいたんだ」

「お母様が? どうしてお母様が善七さんのへその緒を持っていたの?」

「わからない? だって、僕たちは血の繋がった兄妹なんだよ」

「えぇ? まさか!」

 目を丸くしたミサヲに、彼はこう続けた。

「診療所の本当の跡継ぎはね、従兄弟の正太郎兄さんという人だった」

「そんな人、知らないわ。伯父様の子は善七さんだけだと思っていたわ」

「君がまだ二つか三つの頃、診療所の本当の跡継ぎだった正太郎兄さんが死んだんだ。もともと心臓が悪かったんだけど、うちに遊びに来る途中で発作を起こしたんだよ」

「そんなこと、誰も教えてくれなかった。ひどいわ。私にだけ内緒だったの? どうして?」

 すると、善七が「仕方なかったんだ」と言う。

「兄さんの遺品は伯父さんがすべて処分したし、話題にすることも嫌ったんだ。亡くなった奥さんに似ていて、とても可愛がっていたからね。親戚の間では腫れ物に触るようで、正太郎兄さんの話は禁忌だったんだよ。だから君が覚えていなくても無理はないんだ」

 悲しげにそう言うと、彼は肩をすくめる。

「診療所を途絶えさせるわけにいかないと、みんなは僕を伯父さんの養子にして跡継ぎにすえたんだ。お父さんも嫌とはいえなかった。うちに来る途中で兄さんが死んだことに責任を感じていたし、ミサヲさんが婿をとれば我が家は問題ない、代々続く診療所を潰すなと言われて承知するしかなかったんだよ」

 マリアがそれを聞いて、ひとり納得する。いつか善七が言っていた『兄さん』とは、死んだ正太郎のことだったのだ。

 ミサヲが深いため息を漏らす。

「お母様が口にした『善七さんはすべてを承知していた』というのは、このことだったのね」

 そう言うと、彼女は項垂れた。

「それだもの、お母様が気を揉むわけだわ」

 善七がそっと手を差し伸べた。

「一緒に行こう。向こうでお母さんもお父さんも、美彌子も、それに正太郎兄さんも、みんな待っているよ」

「みんなが? 私なんかを?」

「なんかってことあるかい。君は大切な家族じゃないか」

 少し叱るような口調に、ミサヲが唇を噛んだ。そして、長く籠もっていた箪笥に目をやった。その目は戸惑いで不安げだ。

「私、本当に馬鹿ね。悔しくて恥ずかしくて、思い出したくないあまり引き出しに閉じこもって、あなたが先にこの世を離れたことにも、家族が探していたことにも気づかないなんて」

 マリアが「あんたは死んでも鈍いのね」と、彼女に歩み寄った。

「生きている間だって、もっと周りの人たちとちゃんと向き合っていれば、気づけたと思うわ。だって、あんたのお母さんって隠し事が下手だったもの」

 ミサヲが思わず眉尻を下げた。

「本当ね。私、自分のことしか見ていなかったのかもしれないわ」

「選びなさい。あんたはどうしたいの?」

「選ぶ?」

「そうよ。善七さんと逝くのか、別の道を行くのか。自分の心のままにね」

「私は」

 ミサヲは胸に手を当て、口をつぐむ。やがて、善七を見つめ、こう言った。

「善七さん、ごめんなさい。我が儘をきいてくださいな。もう少しあとで、またお迎えに来てくださる?」

 善七が戸惑い、目を丸くした。

「どうして? 他に未練があるのかい?」

「えぇ。私、名残惜しいのよ」

 ミサヲが『たきのや』の中を見回し、眉を下げた。

「私、人が怖くて、ずっと箪笥に籠もりきっていたけれど、ここに来てからは引き出しの隙間から店をのぞき見していたの。そうしたらね、すごく懸命に毎日を生きている人ばかりなの」

 彼女が善七を真っ直ぐ見据えてこう続ける。

「色んなお客さんがいるのよ。仲間同士で愚痴を言い合っている人もいれば、一人でそばがきを肴にお酒を飲む人もいるし、親子でにぎやかに食べる人もいる。長年連れ添った老夫婦なんて、言葉なしに七味を手渡すの。すごいわよね」

 その声はどんどん弾んでいく。

「店員さんはミヨさんとマチさんっていうんだけど、すごく元気でお客さんと冗談を言って笑い合ったかと思うと、真面目な顔で盛りつけをしたりね、表情が豊かで面白いの。カンさんは寡黙な人でね、そばを真剣に茹でる横顔は素敵だわ。働くって大変だけど、素敵」

 ミサヲの頬に赤みがさし、目には光が宿り始めた。

「私ね、ここに集まる人たちをもう少し見ていたの。どんなに忙しくても疲れていても、ここでおそばを食べて、また頑張ろうって帰って行くの。その背中がね、みんな懸命で生き生きしているの。生きていた頃の私と正反対に」

「ミサヲさん、本当にそれでいいのかい?」

「えぇ。こんな風に生きることに執着したことってなかったから、次に生まれ変わるときはこんな風に生きるんだって魂に刻みたいの」

 ミサヲは今まで見せたことのない朗らかな顔つきになり、そこには少女らしい活力が滲み出していた。

「うん、とてもいい顔をしているね。わかったよ。気が済むようにしてごらん」

「待っていてね、お兄様」

 兄と呼ばれた善七は、破顔する。そして、次第にその姿が光に溶けていった。彼の体がふっと浮かび、天上へ戻っていく。

「大丈夫、あの世の時間はこの世に比べてあっという間なんだ。さよならは言わないからね」

 そんな言葉を残し、善七の姿が消えた。それを見上げ、ミサヲが呟いた。

「いつも面倒ばかりかけてごめんなさいね、お兄様」

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