幕間 新時代に向けて

幕間 ――胎動――




 レアルノ王国――いや、今となっては王国跡、とでも呼ぶべき地は今、混沌としていた。


 魔大陸の周囲を囲む〈霧啼きの海〉が晴れ、魔王討伐と魔族掃討を大儀に掲げ、さぁいざ魔大陸征伐へと足を踏み出した人族が招いたものは、まさに災厄の再来である新たな魔王アゼル。彼の力によりレアルノ王国の王城に住まう者達はまるで見せしめのように殺され、絶対的な守護によって護られていたはずの王城を一息で陥落させられてしまい、レアルノ王国が国頭を失ったのは記憶に新しい。


 元々あまり肥沃とは言えない周囲の大地と国の立場上、民にとってはあまり暮らしやすい国であったとは言い難く、更に相手は絶対的な守護とされる王城を崩した相手だ。

 今では『国崩し』とも呼ばれる魔王アゼルに屈すまいと立ち上がる者達は確かに残っていたが、一介の貴族の私兵などでは到底敵うはずもなく、周辺国もまたアゼルの読み通り、未だ様子見といった静観を貫いている。その足並みの遅さが、レキストリアを放棄せざるを得ない状況に拍車をかけていた。


 予期せぬ王城の崩壊は、アゼルが考えていた以上に人族に恐怖を植え付けた。


 今後魔王がいつでも攻めてくる可能性を孕んだ地に、王城なくして防衛が務まるとは思えず、ましてやレキストリアを奪還しようと無理を通そうものならば魔王を刺激するのではないかと恐怖する民衆は、レキストリア周辺から次々に逃げ出していく。レキストリアではアゼルとサリュによって殺された人々の怨念がアンデッド型の魔物と化して徘徊し、人の手が消えた地には魔物があっという間に生息圏を広げ、人々を襲う。


 そうした悪循環により、レアルノ王国内の王都レキストリアより程近い場所は次々と棄てられた村、秩序を失った町ばかりが増えていた。




 アディストリア大陸、最南端。

 旧レアルノ王国の王都――レキストリアより北にある小さな町、アビールネアもまた、貴族らから見放され、秩序を失った町の一つであった。


 火事場泥棒よろしく家々を荒らす荒くれ者、座して死を待つように項垂れた者達ばかりが集まるそんな中を幽鬼のように歩く、頭巾を目深に被り、人の目から隠れるように歩いている何者か。

 その者の耳に、助けを求めるような女性の叫び声が聞こえて、幽鬼はゆっくりとそちらへと歩いて行った。


「やめて、嫌ぁッ! 放してッ!」


「ハハハッ! 叫んだって誰も助けてくれる訳がねぇだろうが!」


 下卑た笑みを浮かべ、たった一人の女を囲む男達。周りにいた者達は巻き込まれては堪らないとでも言いたげにそそくさとその場から離れ、誰一人女性を助けようとはしない。

 治安の悪い国ではさほど珍しくもない光景であったが、それはあくまでも路地裏の一角で見られるような代物であったはずだ。それが今、白昼堂々と町の大通りからたった一本外れただけの、けれど決して狭くもない道のど真ん中で行われてしまっている。

 女を無理矢理犯そうとしている男の叫びは、確かに真実であった。すでに村や町は放棄され秩序はなく、他の町や村に逃げようにも魔物を恐れて動けない弱者ばかりが取り残されているのだ。

 女や子供は目に見えるような武器を手に持ち、なおかつ集団で、一見すれば男女の区別がつかないように頭巾を目深に被って身を守るのが当然となっており、ともすれば襲われている女もまたそうして身を守っていたはずだが、男達に目をつけられてしまったのが運の尽きだろう。すでに頭巾も外套も捨て去られ、恐怖に目を剥きながらも泣きじゃくる若い女の顔が白日の下に曝されていた。


 ゆらり、と幽鬼のように近づいた何者かは、何かの言葉を発したりもせずに腰に提げた剣を引き抜くと、ようやくその存在に気付いたらしい取り巻きの男たちの視界から一瞬で消え――女の服を乱暴に破いて背を向けていた男の喉を、背後から刺し貫いた。


「な……ッ」


「――死ね」


 突然の出来事に思考が追いつかない男達の驚愕の声を無視するかのように、剣が再び振るわれた。赤い血が噴き上がり、断末魔の叫び声すら赦さないとでも言いたげに振るわれた一撃は、取り巻きの三人の首を一瞬で斬り飛ばしていた。

 一連の流れるような動きによって、幽鬼のような何者かの顔もまた陽光に晒された。それはかつて勇者として魔大陸へと渡り、あっさりと殺されかけ、アゼルによってレキストリアにてゴミのように棄てられた勇者アレンであった。

 しかし今の彼と当時の彼は、似ても似つかない。

 すっかりとやつれてしまった顔と、ボサボサの髪。削げ落ちてしまったかのような頬。しかし瞳だけはギラギラと何かを求めるかのように輝いていて、いっそ先程の男達よりももっと危険なものがやってきたのではないかと錯覚するような姿に、女は鮮血が降りかかった頬を拭う事すらできず、ただただ声を押し殺していた。

 それでも、重苦しい沈黙が続くだけでは、あっさりと人を殺してみせた男の起源を損ねてしまうのではないか。そんな考えが浮かんで、女はようやく意を決して口を開いた。


「……あ、の、助けてくれて、ありがとう……」


 からからに乾いた喉から絞り出された声に、剣を振るったまま血を滴らせて虚空を見つめていたアレンが、ピクリと肩を動かした。


「……たす、けた……。あぁ、そう。そうだよ、ぼ、くは、人を助けたんだ……」


 今更ながらに込み上がってきた悦びに打ち震えるかのようなアレンは、正に狂気に取り憑かれているようにさえ見えて、女は短く悲鳴をあげると慌ててその場を走り去って行った。その姿を一瞥すらせずに、アレンは笑っていた。

 アゼルによってあっさりと倒され、心の支えにしてきた勇者である自分の誇りを微塵も残らずにすり潰され、さらには晒し者にするかのように棄てられたアレンにとって、感謝の言葉は何よりも甘美なものであったのだろう。


「ふ、ふふふ……、何が、修羅だ……。僕は勇者、勇者なんだ。選ばれた存在なんだ。もっと、もっともっともっと! もっと褒めてもらわなくちゃ……認めてもらわなくちゃ……。そのためには……――魔王を殺さなくちゃ、ね……?」


 まるで一切の光すら拒む漆黒の闇の中で、一縷の光を見つけたかのように、アレンは答えを見つけた。


 もしもこの場に、アレンを知り、勇者を知る人物がいたのなら、この時のアレンの過ちを止めてくれたのかもしれない。復讐に捕われ、ただただ己の存在意義を確立する為だけに力を求めようとするアレンを、決して見放したりはしなかっただろう。

 しかし、アレンにはそうやって道を正してくれるような仲間はいなかった。


「悪人を殺して、魔物を殺して、魔族を殺して……僕は勇者としての責務をしっかりと果たすんだ。ふ、ふふ、ふふふふふ……! 待っていろよ、魔王アゼル。僕が必ず、いつかお前を殺してやるから……」


 笑いながら、再び幽鬼のようにふらふらとした足取りで歩き始める、狂いだした勇者。その姿を見送り、打ち捨てられた肉塊と血溜まりによって赤黒い足跡を残して歩み出すその姿は、奇しくもアゼルが口にした修羅の定義に近い姿であった。


 ――――この日を皮切りに、旧レアルノ王国内では多くの死体が生み出された。


 死体を生む狂った勇者の矛先は、強姦しようとした男、男を食い物にしよう騙し続けて甘い汁ばかりを吸っていた女に始まり、やがてそれはただただ飢えを凌ごうと魔が差しただけの孤児にすら伸びる事になる。







 ◆ ◆ ◆







 魔都アンラ・マンユ。

 その一角を歩いている一人の魔族の姿に気付いた多くの者は、思わず道を空けるように避けていくが、それは畏怖や畏敬の念から齎されるものであるが故に、その当事者である〈黒竜〉――ヴェクターには特に気にした様子もない。


 アゼルに戦いを挑んだが故に、アゼルの力を示す試金石となってしまったヴェクターだが、その実力を嘲笑い、後ろ指を差すような無粋な真似をする者はいない。何せ魔大陸に住まう者達は、すでにアゼルの圧倒的な――隔絶した実力を十分に理解しているのだ。

 いっそ、ヴェクターはアゼルとの戦いでは善戦し、改めて〈黒竜〉の一族の力が示されたと感じた魔族の方が多い程である。


 もっとも、当然ながらに当の本人であるヴェクターは、そんな勝手な評価に満足などしていない。否、満足も不満もない、とでも言うべきだろう。例えどのような評価が周囲から下されていようとも、ヴェクターにとってはどうでも良いのだ。

 ヴェクターが抱いていた自分に対する絶対的な自信と矜持は、あくまでも勝ち続けていたからこその代物なのだから。


 本来ならばあのような大敗を喫した以上、復讐心に駆られたりもしようものだが、ヴェクターは良く言えば素直な男である。アゼルが自分の実力以上の強者であると示した以上、もはやそこに対して「いつか勝ってやりたい」といった感情こそ抱くが、負けを認めないなどといった無様を晒すような真似はしない。


 いっそヴェクターは、自らが負けた事に感謝していると言っても過言ではなかった。


 アゼルとの戦いによって浮き彫りとなった、戦闘経験と手数の少なさ。

 これまでは種族が持つスペックのみで押し切れるだけの力があったために問題となっていなかったものの、アゼルを――格上の相手を前にした際に取れる手段が、あまりにも少なすぎたのだ。

 己の欠点が見えた以上、強さに対して貪欲なヴェクターがそれを許容したままでいられるはずもない。しかし、良くも悪くも〈黒竜〉の一族はヴェクターと似たり寄ったりの戦いしか知らない。


 故に、強さを求め、ヴェクターは自らとは正反対な立ち位置にいる相手に教えを請うた。


 師の役目を務める相手がいる場所は、魔都アンラ・マンユから程近い、鬱蒼とした木々の生える森であった。奥地へと進むと、木のあちこちから向けられた背筋を走るような悪寒を伴う独特の視線を感じ取り、ヴェクターは足を止めた。


「やっと来おったのか、小童」


 背の高い木から、ワイヤーを思わせるような太さの白銀の糸が垂れてきた。

 姿を現したのは、かつてよりこの地に一族を守り続けてきた者。現在の魔王軍において、幹部の一人として名を知られている蜘蛛魔族アラクネの長――ベルファータであった。


「チィッ、誰が小童だ」


「おぬしに決まっておるであろう。それに師に対する口の利き方がなっておらぬ」


 黒く巨大な蜘蛛の下半身に、妖艶な黒髪赤眼の美女。胸元の空いたビスチェを思わせるような白い服は、耐刃性という点では鉄にも勝ると言う蜘蛛魔族の吐き出した糸で紡がれており、その上で白い腕を組んだ。


昨日の続き。その力任せの単調な戦い方を矯正してくれる」


 返事は小さな頷きによって返され、ベルファータはふっと微笑を浮かべた。


 ベルファータとて、当初は驚かされたものだ。

 まさか〈黒竜〉の一族の次代の長と目されているヴェクターが、自分に戦い方を教わるため頭を下げてくるなど、何かタチの悪い冗談ではないか、と。しかしその目は真剣そのものといったところであり、かつてアゼルに喧嘩を吹っ掛けた際に見せた荒くれ者といった様子は鳴りを潜めていた。

 ――化けおったか。

 真摯に、まっすぐに戦い方を学びたいと言ってきたヴェクターの姿を見て、ベルファータは確信していた。故にこそ、こうしてヴェクターの訓練に付き合っている。

 もちろん、ベルファータにとっても〈黒竜〉のような強靭な肉体を持った相手との戦いは糧になる。そういう意味では、持ちつ持たれつの関係性であると言えた。


 当時のヴェクターは良くも悪くも〈黒竜〉らしさがあった。だが、今のヴェクターには〈黒竜〉としての強靭な肉体のみで力押しするかのような戦い方を自ら禁じている。それは〈黒竜〉らしからぬ在り方だが、確実に強さに繋がりつつあった。







 ◆ ◆ ◆







「――サリュ、始めるぞ」


 短く告げたアゼルの手に握られた、巨大な大鎌。禍々しい光を淡く纏った大鎌に、アゼルは自らの身体に宿る膨大な魔力を注ぎ込んでいく。


 先日のレアルノ王国襲撃の際に放った、巨大な斬撃。あれはまだアゼルにとっても未完成な代物であり、自らの魔力を強引に詰め込んだだけの力技だ。これから先、勇者アレン以外にも勇者の血脈を継ぐ者と対峙する可能性。更には、国々を敵に回して戦う以上、己の研鑽を止めてしまう訳にはいかなかった。


 舞うように、魔力を注がれて淡い光が靄のような尾を引きながら振り抜かれる。

 膨大な魔力の奔流に何事かと駆けつけたネフェリアは、日に日に強大に、洗練されていくアゼルの力を目の当たりにして、恍惚とも取れる陶然とした微笑を湛えてその姿を見守っていた。


 ネフェリアが先日、アゼルに対して感じた離れている心の距離。

 しかしそれでも、アゼルに対して不信感を抱くはずもなく、自らが不甲斐ないからこそ距離を感じているのではないかと考え、一時は納得している。


「ネフェリア、いたのか」


「はい、陛下。私はここに」


「ちょっと付き合ってくれないか。身体がまだ不慣れみたいだ」


 流れるような演舞をしていたアゼルであったが、その結果にはどうやら不満が残ってしまったらしい。アゼルの身体はルーファによって生み出されたが、そのポテンシャルに対して戦いの経験がまだまだ不足しているようで、アゼル自身、自らの身体を扱いきれていないような感覚を覚えていたようだ。

 夢魔の長であるネフェリアは、体術と魔法を駆使する実力者だ。魔力をそのまま魔力弾や魔力斬とでも言うような攻撃方法に転換しているアゼルの攻撃は受け止められないが、それでも鍛え続けてきたネフェリアの体術からは学ぶ事が多い。


「――私で良ければ」


 ――今はまだ遠い存在。けれど、いつかは隣りに。


 そんな願いを胸に秘めたネフェリアの想いを知らず、アゼルは快く引き受けてくれたネフェリアに小さく口角をあげて「頼む」と改めて口を開いた。









 ――――魔大陸を覆う〈霧啼きの海〉は開け、赫空は割れた。





 討伐隊を全滅に追いやり、勇者を下し、絶対的な防衛機構を兼ね備えているとされる王城ですら、アゼルの一撃によって陥落した。




 魔都アンラ・マンユの建設、魔王城の再建によって魔大陸は新たな時代を迎えつつある魔大陸。




 世界が、魔王の登場によって新たな動乱を招こうとしている最中、勇者も魔王の陣営も、徐々にその動きを進めつつあった。



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